思考の届かないところに真実がある

この世界では、実に様々な物事がただ起きては消えてを繰り返しているだけなのです。ただそれだけのことなのに、そこに行為者と行為をでっち上げて、そこに意味を見出そうとするのが、思考です。

行為を行う行為者の代表選手は、他でもない「私」です。そして、「私」はこの世界の中に確かにいる、そう信じているのも思考によるものです。

思考そのものには、良いも悪いもありません。実際、思考には何かを起こすようなパワーなど、これっぽっちもないのですから。

思考は、単なる解説者なのです。その解説を聞いていると、確かに面白おかしく感じさせてくれることもあるでしょう。

解説者が時には、コメンテーターにもなるし、評論家になることもあるかもしれません。けれども、起きている事象にどれほどの解釈をしたとしても、それと起きる事象とは関係ありません。

野球の試合は、アナウンサーや解説者がいなくても、何の支障もなく行われるのと同じことです。思考とはそういうものです。

したがって、例えばあなたが何か大切なことを思いついたとしても、それは単に思いつくという事象が起きただけで、あなた自身に思いつくパワーがあったわけではありません。

それを思考は、あたかもあなたがあなたの力で思いついたのだと解説してしまうのです。それを、信じてしまっているだけなのです。

私たちは、思考至上主義に知らず知らずのうちに、陥ってしまっているということです。思考が止まれば、物事を解説するナニモノもなくなり、ついでに「私」も消えてしまいます。

思考がなければ、人生という物語すらなくなってしまいます。日頃私たちが執着し、喪失することを恐れているものも、一瞬にして消えうせてしまうはずです。

本質的な平安とは、思考の中には決してありません。思考は、いつも騒がしくて、落ち着くことができないような構造になっているからです。

勿論、真実も思考の外側に広がっているのでしょうね。思考が自らの限界を知り、真実に白旗をあげるとき、ようやく真実に抱かれることになるはずです。