無価値感など恐くない

私がセラピストという仕事をするようになって、最も驚いたのは「自分の存在価値」に気づいていない人が沢山いるという事実でした。

存在価値に気づかずに大人になってしまうと、その代替として客観的な存在意義というものを用いて、何とか自分を取り繕おうとします。

ところが、この存在意義というのは、他人にとってどれほど有用かということで判断される、非常に曖昧でしかも一過性の評価によっているものに過ぎません。

したがって、ひどい自己犠牲を強いてまで、毎日毎日存在意義を保つために頑張り続ける人生に陥ってしまうという事態になるのです。

残念ながら、存在価値というのは、自分独りでそれを体得することはできません。幼少期に、周りにいる大人から「受け入れられた」という感覚を繰り返して体験して、初めて得ることのできる感覚なのです。

それでも徐々に、大人になってからでも自分で自分を認めてあげる習慣をつけていくことによって、存在価値を感じられるようになっていくことは不可能ではありません。

けれども、一つよくよく考えてみる必要のあることがあるのです。それは、自分には価値がないという感覚を何とかしようとする理由は、それだけ自分に関心を持っているからなのです。

関心のない対象を何とか価値あるものにしたいなどとは、思わないのは明らかです。つまり、無価値感の苦悩とは、最大のエゴなのです。

仮に、自分自身のことよりも他の人や他の何かにより深い関心を持つことができるなら、自分の無価値感などどうでもよくなるはずなのです。

無価値感の苦しみは、エゴの最大の作戦だということに気づくことです。もしも、誰かのために、何かのために生きることができるなら、その人は無価値感から解放されることになるのです。