真実を知るためには無知であれ

ほんとうに真実を知りたいと思う人に求められる第一の誠実さは、”自分自身で知っているもの”と”ただ受け売りで知っているもの”をはっきり見分けることだ。そして借りものは何であれ投げ捨てるのだ!それはすべてがらくただ。他の誰かの体験に知識の上でよく通じるよりも自ら無知であるほうがよい。

by osho

聞いた話しなのですが、先日引退したイチロー選手は本をほとんど読まないとのこと。文字が嫌いなのかと思ったら違いました。

彼は、本を読むと分かったような気になってしまうのが嫌だとのことでした。本などで得た知識というのは、確かに人のもの。

それで知ったかのような気になってしまうのは誰でも同じです。知識というのは、そういう情報があるということを知っただけ。

本当に知るためには、それを体験する必要があるのです。知識というのは、この社会ではそれなりに使い道もあるのでしょうけれど、所詮はニセモノ。

だから「借りものは何であれ投げ捨てるのだ!」ということになるのです。瞑想に馴染んだ人は、自我は無知だということに気づくのです。

無知であることは決して恥ずべきことではなく、豊富な知識が財産だと思っていることの方が恥ずかしいことかもしれません。

何も知らないということは、実は物凄く気持ちのいいものです。自分が純粋無垢な状態に戻ったような気がするからかもしれません。

自分が知っていると「信じている」ことに気づくだけで、知識に対する興味が減っていくことになるでしょうね。

知識をただの知識(思考)だと見抜くことができれば、今までよりもより真実が近づくことになるのです。

やってくる変化を楽しむ

真理は永遠だし、空であるからどんな変化もないのです。そこには時間も空間もないので、それを自我は把握すらできません。

一方でこの宇宙、この世界、空から立ち上がってくるこの現象界というのは、常に変化し続けていて、決してその動きを止めることはできません。

私たちはそうしたダイナミックに変化するこの世界で生きているのです。そのため、自我は不安をなくすことができないのです。

変化しつづけるのは、地球の動きや天気ばかりではなく、私たち一人ひとりの内面も同じなのです。

誰かをずっと愛していたいと願っても、誰かにずっと変わらずに愛されていたいと願っても、そこにはどんな保証もすることはできないのです。

未来に何がやってくるのか分からないから不安なのですが、だからと言って変化をコントロールしようとしても不可能なのです。

何かをコントロールしようとするマインドは、決して満たされるということはないのです。

結局、いかに変化を楽しめるのか、それが人生を楽しむキーになるのだと思うのです。

偶然の出会い

お昼に何を食べようかなと思っていたときに、これまで何度も食べてきたコンビニのパンを今日はちょっとやめようと思い立ったのです。

それでどこか便利なところに美味しいパン専門店がないかなと考えた時に、通っているスポーツクラブからほど近いところにあったと思い出したのです。

都合のいいことに、そのパン屋さんのすぐ近くにクルマの充電スポットがあるので、取り敢えずクルマをそこに止めてパンを買いに行ったのです。

ただ、時間がちょうどお昼時だったせいもあってか、店内超満員で入ることすらできず。待つのが苦手なので、早々に諦めて帰ろうとしたそのとき、見つけたのです。

パン屋さんのお隣に◯◯食堂という名の可愛らしい自然食のお店があるではないですか。しかもお客さんが一人しかいない。

酵素玄米をオニギリにしてもらって、少しばかりの煮物もつけてもらって大満足して、後ほどゆっくりと食べたのです。

身体は正直ですね。食べたものがいつもと違うせいか、何となく様子も違っているような気がして…。

身体への気遣いというのは、シンプルですね。美味しく食べられるものでかつ、身体に良さそうなものを選んで食べてあげる。そして適度な運動によって負荷を与えてあげればいいのですから。

それに比べて、マインドというのは難しいものですね。目にも見えないし、すぐに思考という煙幕を張られて気づけなくさせられてしまうのですから。

そして何より、マインドのそれなりの健康度がそのまま身体の健康に直結しているという事実があるのですから、結局は心身共にということになるのですね。

なぜ死ぬのが怖いのか?

野生動物の世界を垣間見ると、そこには弱肉強食の世界が広がっています。ライオンに襲われそうになったら、シマウマは必死に逃げるのです。

そのシマウマになぜ君は逃げるの?と聞いたら、ライオンに食べられたくないからと答えるかもしれません。

もちろん実際には、本能的な恐怖によって逃げるという行動を起こすのです。それは無意識的な活動なのです。

その本能が生物を存続させているのは明らかですね。崖から谷底に落ちそうになっても、恐怖によって退くことがなければ生命は保たないからです。

人間にも他の動物と同様な生き延びるための本能が備わっていますが、人間にはその他にも心理的な恐怖というものがあります。

人間だけが死ぬということを認識しており、その死を恐れるのです。けれども、なぜ死ぬのが怖いのかを厳密に見てみると簡単には説明できないのです。

死んだことがないのに、死を恐れるというのは何とも不可解な話しです。あれだけは二度とごめんだと言う理由で恐れるなら分かるのですが…。

それなら心理的に死を恐れる本当の理由は一体何なのか?いくつかのことが考えられるのですが、私としては死によって未来が消えてしまうからだと思うのです。

未来こそが、自我にとっての希望や欲望がある場所だからです。自我から希望を取り除いてしまったら、それこそ生きている理由がなくなってしまうのです。

未来という希望を置いておくスペースが是非とも生きるのに必要だと分かっているのです。だから時間というものを発明したのも自我(思考)なのです。

いずれにしても死にまつわる恐怖については、もっともっと深く深く見つめてみる必要がありそうですね。

自分だけを救える

あなたが自分自身を救わないかぎり、誰にもあなたを救えない。キリストも仏陀もあなたを救えない。だが、あなたは自分自身を救うことができる。そして、自分自身を救うことはあなたの責任だ。自分自身を救う方法は生まれ変わること、ふたたび誕生することだ。

by osho

ふたたび誕生する、と言っても輪廻転生のことを言っているのではありません。何度輪廻しようが、救われた試しなどないのですから。

↑ここで言っている生まれ変わるとは、自分が一体ナニモノなのかという認識が変わるということです。

確かにそれが変わってしまえば、生まれ変わったのと同じようなものです。自我との同一化を見抜き、真の自己に気づくこと。

それ以外に救われる方法はないのです。自我をどのようにしても、救うということはできません。

自我が救われたら、自我ではなくなってしまうからです。本当には、救われる必要など最初からなかったと気づくこと。

それこそがあなたの責任だと言っているのです。そしてその気づきを他人からもらうことはできないのです。

人の人生を幸せにすることはできないと私が言う時、↑このことがベースにあるのです。あなたができることは、自分自身を救うことだけだからですね。

したいことがない人生

ずっと長い間自分を生きてきて、何があっても少しも変化しないことがあるのですが、それは「自分には特別したいことがない」ということです。

この年齢になって、何もしたいことがないと言ったところで、ああそうですかと言われるだけなのは分かっています。

けれども、幼い頃からずっとそうだったので、それは少々気味の悪い子供と思われてたとしても仕方ありません。

本人としては、親から何と言われようと、実際にどうしてもやってみたいと思えるようなことが一つもないのですから、どうしようもないのです。

若い時に、何もしたいことがないなんて不健康だと自ら思い立って、人並みにいろいろ試してみたものの、いつだって「したいことはない」に戻ってきてしまうのです。

そしてとうとう、人生の半ばにして気づいてしまったのです。他人が何かに夢中になっていようと、自分は自分でしかないのだと。

したいことがないというハンデ?を背負って生きていくのが、自分の人生なんだと。悩むことも、ダメ出しもすることなくただ、自分であればいいと。

そうなったら今度は、この「したいことはない」が強みになってきたのです。なぜならそれが希望を弱める働きをしてくれるからです。

あれをしたい、これをしたいが強ければ、未来に希望を持ち続けることができるのですが、それがないので私の中で希望は薄くなっていくばかり。

淡々とその瞬間を生きていくことだけの人生。人生と呼べる物語も小さくなって、過去と未来も薄れていくようになるのかもしれません。

本音は無数にある

よく自分の本音が分からないという人がいますが、あなたはどうでしょうか?この人と結婚したいという気持ちもありながら、ちょっと待て!と言っている自分もいるような…。

それもそのはず、マインドというのは分裂しているものだからです。分裂していないマインドというのは原理的にありません。

マインドがマインドとして存続するためには、分裂が必須なのです。なぜなら、内部分裂することによってエネルギーを使えるのですから。

無数の思考がマインドを形成しているのですが、それらの思考は互いのことを尊重せずに、それぞれが勝手なことを主張しているのです。

もしもあなたが、自分の内側に意識を向けて、じっくりと心の声を聞こうとするなら、気が狂ってるのではないかと思うくらいに、無秩序な言葉が行き交っているはずなのです。

それがマインドの正体なのです。だから、自分のマインドに本音がたった一つしかないなどということはありません。

本音がいくらあっても不思議なことではないのです。何かを選ぶ時に、いつまでも迷って決められないタイプの人がいますね。

一方で、何事もすぐに決断できてしまう人もいます。だからといって、こういうタイプの人の本音が一つであるということではないのです。

どちらのタイプであっても、マインドは分裂しているのですから。ただ、後者の人の場合は、選ばれなかった本音よりも、選ばれた本音の方がパワフルだったというだけ。

そしてもし、あなたが何も選ばない生き方を続けるなら、マインドの中にあったすべての本音が消えていって、結局マインド自体が消えていくことになるのでしょうね。

身体癒しへの目覚め?

「病は気から」という昔からある言葉が示しているとおり、たとえ身体の病気であっても精神的なものが起因しているということを意味しているのです。

私たちの内面と物質である肉体は大いに関連し合っているということです。それを認められない人は今どきいないはずです。

約20年も前に私がガンを患ったときにも、きっと精神的なストレスなどが原因なのだろうと気づいていました。

だからこそ、もう2度と自分に我慢を不当に強いるような生き方はよそうと決意し、サラリーマン生活から足を洗ったのです。

私にとってそれは非常に幸運でした。命にかかわるような病気は、人を根本的なところまで戻してくれるからです。

そしてこの20年間、クライアントさんとのセッションを通して、私自身の内面の癒しも随分と進んできたと感じています。

ところが、身体の方は大病こそしなかったものの、何となくだるかったり、どこかしらの不具合を感じているのが普通でした。

きっとどこかで身体は精神のような非物質ではなく、低レベルな物質だからという感覚を持っていて、それで身体そのものを軽んじている部分があったのでしょう。

ところがここへ来て、物質である身体はマインドと違って実在するものであるという感覚が強くなったのです。

もしかすると、今年は私にとって身体癒しのスタートの年になるのかもしれません。それでようやく、遅ればせながら「心身ともに…」を実践することになるのかもしれません。

ちょっと遅いですが、それでも大切なことに気づけてそれを実践していこうとする意欲が出てきてるので、良しとすることにします。

自我は希望でもっている

私たちは、自分のことを一人の独立した存在だと信じて疑うことがありません。夜寝て翌朝起きると、人生の続きがやってきたと考えるわけです。

そういうことをずっとやってきたのが自我なのです。自我は、自分はひとまとまりの持続的な存在だと思い込んでいるのです。

そして、それが本当だということを日夜証明しようと躍起になっているのです。その努力は途絶えることがなく、なかなか凄まじいものがあります。

なぜなら、もしその努力を怠ってしまったなら、ひとまとまりの自分という存在が思い込みの産物だったとバレてしまうからです。

その秘密がバレないようにするために、自我が持ち続けているもの、それが希望なのです。願望といっても欲望と言っても構いません。

とにかく未来へのなんらかの望みを持っていさえすれば、自我はバラバラになることなく、これまでどおりの自我としての毎日を続けることができるのです。

希望によって未来に意味が生まれ、その希望を叶えようとする努力が過ぎ去ったはずの過去にも意味を持たせるのです。

そしてその過去と未来を操るのが思考というわけです。これで自我が思考の塊だという理由が分かってもらえたのではないかと思うのです。

この鉄壁の自我のやり口、一見すると非の打ち所がないようにも見えるのですが、一つほころびがやってくれば、きっと一瞬にして自我は崩壊するはずです。

なぜならニセモノというのは、すべてそんなふうに消滅するときにはあっという間という共通の性質があるからです。

淡々と過ぎ行く毎日を楽しむ

今年のゴールデンウィークは、10連休になっていたとは知りませんでしたね。通っているスポーツクラブでそれを聞いてびっくり。

けれどもそのおかげで、今週はいつもよりも空いていて、プールなどは自分一人だけだった日もあったくらいで、ホントありがたい。

学生のころも社会人になってからも、とにかく休日というのが生きる支えになっていたというか…、ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが。

要するに、そのくらい人生を楽しむことができなかったのですね。学校や職場に行ってしまえば、そんな様子は微塵も出してはいなかったと思うのですが。

とにかく外出が嫌い、小学生のころの夏休みのある年に、ずっと家の中で過ごしていたこともあったくらいです。

今も正直、自宅とスポーツクラブと事務所の三箇所を回って1日が過ぎていくといった感じなのは、子供の頃とあまり変わってないのです。

ただ一つ違いがあるとすると、他人と志向が違う自分であってもそれを十二分に認められるようになったことです。

そのおかげで、他人とは違う自分だけの内面における密かな楽しみというものを知ることができたのです。

だから今は毎日が営業日であると同時に休日でもあるのです。変化が少ない毎日、イベントごとのない毎日がただ淡々と過ぎていくのを見ているといった感じですね。