怒りから解放されるために

もしもあなたが、自分は何だかいつもイライラしていることが多いなと感じているのでしたら、それはシンプルに怒りを溜め込んでいるということを表しています。

その怒りの蓄積はほぼ間違いなく幼い頃からであって、昨日今日溜め出したわけではないのです。

怒りをたくさん溜めてしまうと、その怒りのエネルギーが理不尽さを引き寄せてしまうので、嫌な目に遭うことが多くなります。

またいつもイライラしている自覚があるので、気分がすぐれなくて自分のことを好きになれずにいることもあるかもしれません。

まずは怒りは数ある感情のうちの一つであるというだけで、それ自体にいいも悪いもないことに気づくと共に、感情の目的を理解することです。

感情というのは、その時々のマインドの痛みを最短で取り除いて穏やかな状態に戻してくれる特効薬のようなものなのです。

その解毒剤を服用することで、心は健康状態に戻れるのですが、実際の薬と違うのは服用する代わりに味わう必要があるということです。

怒りを独りの環境でしっかり味わい尽くすことができれば、イライラする毎日からは解放されることになるはずです。

原理は至ってシンプル。長年の便秘が解消すればスッキリ気持ち良くなるのと変わりはありません。

ただし、味わう時にはちょっとしたコツがあるのですが、それはできる限り言葉を使わずに感情そのものを感じてあげること。

言葉は思考なので、感情を味わうことを妨害する働きがあるのです。言葉を無くして、唸るようにして怒りを全身で味わう練習をしてみてください。

それが上手にできるようになれば、あなたは怒りをもうこれ以上持て余すバカバカしい人生から解放されるはずですね。

自我=不安&孤独

繰り返しお伝えしていることですが、私たち人間にとって、不安と孤独は避ける事のできないものなのですね。

その理由は非常に明確なのですが、それを理解するためには我々がこれが自分だと思っている自我のことについて、知る必要があるのです。

自我は個人だと思い込んでいるので、自分とそれ以外の外の世界、あるいは他人とは分離していると信じているのです。

全く未知の世界にポツンと独り産み落とされたと思っているのですから、もう原理的に不安と孤独と共にあるのは当然のことなのです。

ただし、それをなんとか誤魔化して感じないようにする仕掛けが沢山あるのです。幼い頃なら両親や兄弟に囲まれて、成長すれば友達や好きな人ができ、安心させてもらえるのです。

けれども自我の根っこにある不安と孤独が消えてしまうことはありません。人によってその感覚が違うのは、単に誤魔化し方の上手下手の違いでしかないのです。

もしもあなたが人一倍不安や孤独が強いと感じているなら、まずはそれは誰にとっても同じことだと気づくこと。自分は特別ではないということ。

その上で不安と孤独の原因である自我についての理解を深めていくことで、自我との距離をとる方法を体得することです。

そうすることで、あなたの本質である意識には、不安も孤独も何もないということにいずれは気づいて行けるようになるはずですね。

身体との同化がはずれると…

かつてoshoがアメリカのオレゴンに広大な土地を買って、そこにアシュラムを作っていたことがありました。

その時に、アメリカ政府からのひどい嫌がらせで、繰り返し放射性物質が入った食べ物を食べさせれたことがあったらしいのです。

その後インドに戻ってから、その後遺症か何かで歯や歯茎に問題が起こり治療をすることになったそうです。

治療をしようとするoshoの弟子である歯医者さんに対して、oshoは麻酔をする必要はないと言ったそうです。

実際に麻酔なしで治療を受けたoshoは、その痛みを感じながら面白がっていたということです。

このことは彼がいかに我慢強いかということを表しているわけではなくて、肉体との同化が完全に消えていることを証明しているのです。

身体の具合がいい時もあれば、病気などで具合が悪い時もありますが、身体と同化してしまっている私たちにとっては、身体の具合の良し悪しが大問題に感じるのです。

たまに具合がいい時には、同化が外れてそれを見ていることもできるのですが、具合が悪い時には、すぐそれに引きずられてしまいますね。

もしも完全に身体との同化が外れてしまうなら、身体的な苦痛を怖がることもなくなるのだろうなと思うのです。

無のねじれが現象を起こす

無について説明することは、それだけで要点を逃しているような気持ちになるのですが、それは言葉で説明することのできないものだからですね。

それでも敢えて表現すると、無というのは現象界に住んでいる私たちからすると空虚だと感じるのですが、本当は無で満ち満ちているとも言えるのです。

あらゆる現象は無からやってくる。それは例えば、電気的には何もない状態のところから、プラスイオンとマイナスイオンに分離することで、電荷が起きるのに似ています。

そして分離してしまったプラスとマイナスイオンは、再び無の状態に戻ろうとして互いに引き合うのです。

この引き合って電気的にゼロの状態に戻るまでのことを、事象とか現象と呼んでいるわけです。

そういう意味からすれば、私たちのこの世界という現象界も同様にして、無が何らかのねじれ、あるいは歪みによって起きてくるものと捉えることができます。

そしてそのねじれが解消されようとしてあらゆる現象が起きているということです。つまりは、そのねじれの解消が終わってしまえば、全ては元の無に帰するわけですね。

その間の儚い夢のようなものこそが、この現象界で起きている全てであるとするなら、もっと肩の力を抜いてかりそめの人生を楽しんでもいいのかなと思うのです。

自我の愛を見透かす

自我というのは、愛という名のもとにそれとは似ても似つかないものも全部ひっくるめて包んでしまうのです。

包んでしまえば、名ばかりの愛の正体を見ずに過ごすことができて、好都合だからですね。

一体なにを包んでしまうのか?その一つは執着です。相手にそばにいて欲しい、いつでも手の届くところにあって欲しいと願うこと。

そして誰にも相手を奪われたりしないこと。自分だけの存在でいるように強く願うこと。こうしたことの全てが執着なのです。

あるいは、相手に期待すること。これも愛と勘違いしているものの一つです。この世界では期待するということはいいことのように考えられています。

けれども、純粋な愛は相手にどんなことも期待することがありませんが、自我はそんなものは愛ではないと思い込んでいます。

愛があるからこそ、相手にこうなって欲しい、ああなって欲しいと願うのであって、期待とはそういうものだと。

この認識はなかなかしぶといので、気づきにくいのかもしれませんが、〜欲しいと願っているのですから、与えるだけの愛とは根本的に異なるのは明白です。

あなたがこれが愛だと信じて疑わないものの中で、いま挙げた執着とか期待というのは愛とは何の関係もないということにしっかり気づくことです。

そうすれば、愛の対象だと信じていた人に対して、嫉妬したり怒りを感じたりして苦しむことなどなくなるはずですね。

自我は過去と未来にいる

短期記憶がほぼ機能しなくなってしまった高齢の母親を見ていると、いろいろなことに気付かされます。

短期記憶が正常に機能しないということは、毎日の日常の経験をほとんど忘れてしまうということです。

今日食事をしたことも、デイサービスに行くことも、誰かと会ったことも、みんな忘れてしまうのです。

けれども、自我として生きていくことはできるのですね。なぜなら、自我は元々今現在にはいられないからです。

自我の生きる場所は、過去か未来だからです。短期記憶はなくても長期の記憶は不鮮明ながらあるのです。

だから、例えば私が子供の頃に家族みんなで潮干狩りに出掛けて、思いの外たくさんアサリが取れたことなどを覚えているのです。

そんな60年近く過去の出来事を覚えていて、1分前のことは忘れてしまうのですから、少し理不尽な感じがしますね。

思い出に浸ったり、未来に思いを馳せると表現すれば、悪いことではない感じがしますが、過去をクヨクヨ思い返したり未来を不安に思うのとそれ程違いはないのです。

こうしたことは自我の得意技なのです。逆にもしも過去を落とし未来を持ち込まないでいられるなら、自我を使わずにいることになるのですね。 

元々は自由しかない

私たちは誰もが自由を求めて生きています。自由というのは、何の束縛もない状態を言うのですが、それが難しいのです。

本来は、この世界には自由しかないはずなのですが、それがそうは思えないのはどうしてなのか?

それはあなたという自我がいるからなのです。自我こそがあなたの自由を奪っている張本人なのです。

それは自我の生き方が原因なのですが、自我がそれを変えることはほとんどあり得ないと思って間違いないでしょう。

例えば、何にも従事していない状態であっても構わないと思えるか?あるいは誰にも必要とされなくても構わないと感じられるのか?

この世界はあなたの自我なしでうまくやっていけるということ。自我などなくても続いていくということ。

そうしたことをしっかり認めることができるなら、自我は衰退していくことになり、元々あった自由を見出すことになるのでしょうね。

目覚めるということ

昨日に引き続き、今日も以下のoshoの言葉に耳を傾けてみましょう。

『内面的な成長というのは実は成長などではない。この言葉には語弊がある。内面的な成長とは、一つの顕現のこと。

ずっと隠されていた何かが現わされる。ずっとそこに在ったもの、それにあなたが気づく。あなたはそれを取り逃がしていたわけではない。ただたんに忘れていただけ・・』

一般的に内面的な成長というと、自我の成長のことを意味するのです。そんなものは、成長などではないと言っているのです。

真の成長というのは、成長という言葉のニュアンスとはちょっとかけ離れている事だと言うのです。

それは自分の本質に気づくということに尽きるのです。なかったものが作られるのではなく、元々そうであったことに気づくということ。

oshoは、そのことを忘れていたものを思い出すというような表現を用いて、私たちに語りかけているのですね。

夢から目が覚めて、その夢を見ていたこの自分が本当の自分だったと気づくのにとても近い感じがします。

ただし、大きな違いが一つあるのですが、それはこの現実という夢から目覚めたとしても、夢が終わらずに続いていくということですね。

自己観照する

osho の以下の言葉を味わってみましょう。

『あなた方は希望製造メカニズム。そしてこの希望製造メカニズムこそエゴにほかならない!では、どうしたらいい?

実のところ、どうこうすることは何もない。ただあなたがたにはもっと明晰な眼が必要だ。唯一必要とされるのはあなた自身を新鮮な眼で見ること。』

ものすごく大切なメッセージが込められているのですが、それは“実のところ、どうこうすることは何もない“の部分です。

なぜなら私たちは、常日頃から何とかしなければと思うことをやめられないでいるからです。要するに私の言葉で言えば、改善病ですね。

その意味では、セッションでやっている心の癒しも同じなのです。セラピストが言うのも何ですが、癒すことで少しでも病んだ心を正常に戻そうとするわけです。

そのことを否定するつもりは全くありませんが、本質的なレベルで考えるなら、それも改善病の一つであるとも言えるのですね。

病んだ部分を修復しようとする代わりに、自分自身を新鮮な眼で見ることこそが本当に必要なことだと言っているのです。

それこそが意識的であるということ。自分の本質である純粋な意識によって自己観照するなら、改善ではなく真実に目覚めることになるということですね。

夢と潜在意識

眠っている間に見る夢の内容によって、自分の潜在意識の中にどういったものが溜まり込んでいるのかが分かりますね。

私は以前、分析心理学という名の夢を分析して潜在意識を解放していくというセッションを受けていたことがあります。

催眠療法などの心理療法と目的は同じなのですが、少しずつ着実に匍匐前進するかのように進めていく療法なのです。

セラピストによると、週一のペースで何年も続ける必要があるとのことでしたので、途中でやめてしまいました。

もしもあなたが完全に自分らしく、またごく自然体で悠々と生きていたなら、夢は見なくなるはずなのです。

というのも、夢というのは無理したり我慢したり抑圧した結果、溜め込んだエネルギーが解放して欲しくて見るものだからです。

私の個人的な意見としては、夢を分析するだけよりは直接的に過去を思い出して、そこに溜め込まれたさまざまな感情を味わう方が格段に癒しの進み方が早いのです。

いく通りもある療法の何を用いようと構わないのですが、どれも目指すことはたった一つ、潜在意識の解放なのです。

究極的には、覚醒してしまえば潜在意識は解放されますし、そうなったらもう二度と夢を見ることもなくなるということですね。