始まったものは終わる

この世界の根本原理は、始まったものは必ず終わるというものです。これこそが最大の救いだと思うのです。

生まれてしまったものは、いずれは死ぬことになるのです。その生と死の間にさまざまなことが起きるのです。

けれども、生と死の間に何が起きようとも、それが何だというのでしょうか?根本原理によって、全てが灰と化すのですから。

歴史に名を刻みたいという欲望がある人もいるかもしれませんが、それは根本原理を理解していないことを意味します。

死によって無に帰するのに、何かが残ると思っているのですから。歴史というのは、あなたが生と死の間で活躍しているときにのみ意味を持つものです。

始まるというのは、夢が始まるということであり、終わるというのも夢が終わるということです。

その間でどんな夢の内容であれ、目覚めて夢が終わってしまえば、その夢にこだわることはありません。

こうした感覚が自然に身につけば、こだわりや執着、欲望などがより小さくなって、悠々と生きていくことができるでしょうね。

セラピーの目的

この複雑な現代に生きていて、心身ともに何の問題もないという人は珍しいかもしれませんね。

誰だって何かしらの問題を抱えているものです。それがどんな症状であれ、それは何かの結果として起きているということ。

それを忘れてしまうと、その症状だけを見て、ただそれが改善すればいいと思ってしまうのです。

もちろん何らかの方法で、その症状だけが改善してしまうこともあるかもしれませんが、原因が特定できていなければ、また別の症状が起きてくるのです。

癒しというのは、どんな方法を用いようとも、原因となるものをしっかり把握することが絶対的に必要なのです。

その上でその原因を生み出しているマインドのエネルギーを解放することで、結果として起きていた症状が自動的に改善するのです。

このような理解に基づいて、クライアントさんとの共同作業としてセッションを進めていくのがセラピーなのです。

最も大元の原因というのは、ほぼ100%が幼少期の体験に集中していると考えて間違いありません。

結果として、セラピストはクライアントさんの幼い頃を中心に調査を進めていくわけです。

そして、最終的にはクライアントさんが培ってきた、自らを不当に苦しめる生き方、考え方を手放していけるよう手助けするのですね。 

罪は思考の中にしかない

そこそこ長い人生の中で、ともすると加害者になってしまう可能性もあるし、被害者になってしまうこともあります。

これはきっと避けては通れないことですね。被害者になってしまうと、加害者に対してその罪を償わせたくなるものです。

その反対に、自分が加害者になってしまったら、その罪を償おうとするでしょうね。どちらの立場であろうと、罪はそのままにしておくことができないのです。

その罪に見合った罰が与えられて、ようやく安心できるというのが人間の自然な感覚だと思います。

だとすると、償って欲しい罪を償ってもらえずに人生を終えるのはしんどいし、逆に償う必要のある罪を償えずに終えることも辛いことでしょうね。

そういう場合は一体どうしたらいいのでしょうか?きっと大なり小なり身に覚えのある人は多いのではないかと思います。

ここで自信を持ってお伝えできることがあります。どんな罪もその埋め合わせをする必要などないということです。

もしもあなたが純粋な意識に目覚めることができれば、罪というのは思考の中でしか意味をなさないとはっきり気づくことになるからです。

覚醒した瞬間に、マインドの中に蓄積されてきたあらゆる思考と感情のエネルギーが浄化して、あっという間に無になってしまうでしょうね。

時空から解放される

以下の osho の言葉をゆっくりと味わってみてください。瞑想について、とてもシンプルだけど、適切な表現がなされていると思います。

『瞑想とは ”家に帰ってくること”以外の何ものでもない。どこへも行かないこと-それが瞑想だ。

ただあなたのいるところに在ること。ほかの場所なんかない。ただあなたのいるそこにいること。ただあなたのいるその空間を占めること。』

私たちの本当の姿は、この時空の次元を超えたところにあります。そこに戻ることを、“家に帰ってくる“と表現しているのでしょう。

瞑想によって、時間的にも空間的にも一歩も動かずにいることができれば、時空を使わずに、時空に触れずにいられたら、時空は消えるということです。

時空というのは、私たちの本質である意識からすると、低い次元の世界のことなので、言ってみれば夢のようなものです。

私たちの毎日の生活は、ずっと時間と空間を旅しているようなものなので、“家に帰ること“を忘れてしまうのです。

さあ、今日も瞑想によって時空から解放されてみましょう。それが目覚めるということでもあるのですね。

自他の自由を尊重する

あなたが自由であるということは、誰からも何も押し付けられたりせずにいられることを指しますね。

自分が自分に何かを強いる場合も同じです。自分が自分に何かを押し付けてしまえば、自他の違いはありません。

それは押し付けられた側の自分がそこにいる限り、自由を奪われることになるからです。言いなりになるなら、それは奴隷ということ。

何を押し付けられるかということにも関係はありません。例えば、どんなに好きなワインであっても、飲むことを強要されたら美味しくないのです。

私自身の人生においても、この押し付けられるということを極端に嫌って生きてきた記憶があります。

それは勿論相手からしたら良かれと思ってのことであったとしても、押し付けることになるのであれば、何ら変わりはないのです。

どんな理由があろうとも、結果としてあなたの自由を奪おうとする人からは遠ざかることです。

私たちは完全に自由である必要があるのです。そのことを決して忘れないようにして生きていきたいものですね。

そして誰もが己の自由を、生きる上での絶対的な条件にできるなら、この世界から醜い争いごとは消えていくはずです。

なぜなら、自分を自由にしておきたいと願うことは、他者に対しても同じように自由にしておいてあげようとすることになるからですね。

瞑想で意識に気づく

ある医師の方のYouTube チャンネルで見たのですが、あがり症の人向けに簡単にそれを克服する方法があるというような内容の動画でした。

非常に単純なのですが、姿勢を正すだけで脳内にセロトニンが分泌されて、緊張を和らげてリラックスさせてくれる効果があるのだそうです。

逆にあがり症で緊張しやすい人は、猫背になっていたりして姿勢が悪いのだそうですね。そのせいでセロトニンの分泌が不十分であるらしいです。

確かに瞑想する時には、横になるよりも上半身は真っ直ぐにして姿勢を正しておく方が、深く入りやすいということがあります。

これもセロトニンの分泌と関係があるのでしょうね。私は勝手に上半身を垂直にしておくことで、重力を感じない事のメリットがあると思っていました。

脳内物質で言えば、瞑想することでβエンドルフィンという快感物質も分泌されるので、セロトニンと合わせて二重に癒されるのですね。

いかに瞑想が心身に良いのかが分かります。さらに言えば、瞑想してると心と身体のどちらとも異なる全く不変の部分がある事に気付かされます。

正確に言うとそれは部分ではなく、心と身体が存在するための空間のようなもので、それこそが私たちの本質である純粋な意識なのですね。

追い求めれば出会えない

あなたがあれやこれやと追い求めて、なんとか手に入れられたとしたら、それはこの世的なものに過ぎません。

それはこの3次元世界の、つまりは一過性のものであるだけです。だから、またすぐに次のものを求めることになるのです。

こうした欲望はエンドレスとなるに決まっています。それこそが自我が生き延びる作戦でもあるわけです。

けれども、本当にあなたが求めるものは、追い求めれば求めるほど手に入らなくなるものなのですね。

なぜなら、追い求めるという欲望こそが、それを遠ざけることになってしまうからです。このジレンマを理解することです。

そして追い求めることをやめたとき、無欲の状態になったときに初めて、最も輝かしいあなたとの出会いがあるのです。

そのあなたこそが、本当のあなたの姿ですね。どんな不安も恐怖も孤独もなく、あらゆる惨めさから解放された、初めから救われているあなたの姿です。

追い求めずにいることができたときに限り、それが手に入るということを覚えておいても損はないでしょうね。

他人の評価≠自分の姿

私たちの誰もが大なり小なり抱えている問題の一つとして、他人の目、他人からの評価を気にし過ぎるというのがあります。

けなされるよりは誉められた方が嬉しいし、否定されるよりは肯定される方が気持ちがいいのは確かかもしれません。

けれども、それがあまりにも強くなってしまうと、非常に不自由な人生を生きなければならなくなるのです。

自分らしく自由気ままに過ごすことができなくなり、自分を過度に縛り付けてしまうことにもなるのです。

それは、「他人の評価=自分の姿」のように思い込んでいるからなのです。人はその人の都合のいいように評価するのだと気づくことです。

例えば、その人にとってあなたが都合のいい人と感じるなら、いい人という評価を与えるし、その反対に都合の悪い人と感じれば、悪い人と評価するのです。

あなた自身も含めて自我というのはそのようにしか評価できないのです。そんな不確かな評価などに縛られる生き方ほど、バカバカしいものはありません。

あなたという存在はあなた自身でしかなく、それを誰がどのように評価しようと直接的な関連はないということ。

このことを深く理解し、あなたのあるがままに生きることができれば、人生はシンプルで寛容なものへと変化するでしょうね。

カラクリを理解する

以下の osho の言葉をよく噛み締めて、理解できるようになるといろいろなことが大きく変わってくるはずです。

『もし本当に理解したら、ものごとは落ちてゆくものだ。そしてそのときには、あなたは自分がそれを落としたのだという手柄を誇ることはできない。それはひとりでに落ちたのだ。あなたが落としたんじゃない。自我はそれを通じて強められたりしない。』

もしもあなたがさまざまな問題を抱えているとしたら、それは全て自己防衛を繰り返してきたことが原因なのです。

その理解ができずに、起きている問題だけを見てそれを終わらせるにはどうしたらいいのかを考えるのです。

これが自我のやり方です。結果ばかりを気にしてその原因を探そうとはせずに、自らの力で克服しようと頑張るのです。

これが当然のこととして自我をさらに強める方向へと向かうことになるのです。とにかくこうしたカラクリを理解すること。

自己防衛は必ず自己犠牲を生み出し、それをやめて欲しいというマインドの一部がそれを気づかせる目的で、いろいろな問題を作り出しているのです。

防衛をやめられないのは、大きな不安を安心に変えたいと思っているからです。つまり全ての問題の根本原因は、私たち自我が抱えている不安なのです。

不安を殊更悪者にすることなく、そのままに見守ることができたら、防衛は緩み、その結果自己犠牲が減り、問題はひとりでに落ちていくのです。

加えてあなたの自我は弱められていくことになるという、一石何鳥ものご利益がやってくるのですね。

自我を見守る観照者

ベタっと100%当事者として生きるのか、つまり自分は一人の個人として生きているということに何の疑問も感じずに生きるのか。

それとも、本当のところはどうなんだろう?という疑問を持ちつつ生きるのか、両者の違いは途方もなく大きいのです。

前者の場合は、完全に人生という物語の主役として生きているつもりになっているということです。

この場合は、物語から抜け出すことは不可能になってしまいます。長い人類の歴史の一員として、過去を引きずりながらの生活となるのです。

後者の場合のように、何らかの疑問を持って、それも否定的な疑問ではなくて素朴な疑問を持って生きることは、異次元への入り口に立つことを意味します。

本当は自分とは一体何なのだろう?なぜ自分はいるのだろう?ただ生まれていずれは死んでいくことが決定しているのに、なぜ大騒ぎするのだろう?

こうした純粋な疑問を持つことで、自我の絶対的な立ち位置というものが揺るぎ始めるのです。

そして、当事者として生きている自分を見守る立場というものがあることに気づくようになるのです。これが観照者、つまりは純粋な意識のことです。

真の自分は当事者ではなくて、それをただ見守る観照者(意識)だという感覚を思い出すことができれば、ベタッとした人生に空間的な感覚があることに気づくようになるはずですね。