エゴの矛盾は笑ってしまうしかないほどです。人類の歴史は罪の償いの歴史といっても言いすぎではないと思いますが、この罪の償いということほど矛盾していることはありません。
なぜなら、罪というのは決して償うことができない間違いのことを言うのですから。そう決めておいて、罪を償いなさいと言うとは何たる矛盾でしょうか。丸い三角と言っているのと同じです。
絶対に不可能なことをやりなさいというのがエゴの根本原理としてあると思います。それは、時間が続く限りそれをやり続けることができるからですね。
それでエゴは安泰。コースでいう真の救いとは贖罪、それは罪はないとして許すということです。ですから、この現実が本当であれば私たちは許すことなど絶対にできないということです。
それを勘違いして許さねば許さねばと頑張ったところで、それこそエゴの矛盾に丸ごとはまり込んでいくことになりますね。
だから、惨めな思いをさせられたことが本当に起きたことだとしておいて、加害者を許すことなどできないとまず明確に分かることです。そうしないと、コースの教えはエゴの手先と化します。
しかし、この間違ったエゴの許しを実践しようと頑張ることにもメリットがないわけではありません。それは、自分が相手を許してはいないということが分かるし、許したくもないという思いを持っていたことすら気付くからです。
あがいてもがいて許そうとする一見無駄な努力でも、何もしないでいるよりも、多くの気づきをもたらしてくれると思うのです。
そのもがき苦しむ自分のことがふと可笑しく思えたときに、きっと力が抜けて自分の無能さに気付くのかもしれません。
ああ、自分には許すことなんて到底無理なんだと。徹底的にうちのめされたら、本当に聖霊に委ねる気持ちにもなるというものですね。
その時、もしかしたらこの世は自分を映し出す幻想に過ぎないということも聖霊を通して心に入ってくることになるかもしれないと思います。