現代人はトラウマという言葉をごく普通に使うようになりましたね。私が子供の頃は、まだ今ほどは一般的な言葉ではなかったと思います。
トラウマという言葉の語源は、単に「傷」を意味するギリシャ語だったのですが、もう100年も前にフロイトが精神的外傷を意味する言葉として使ったのが始まりでした。
過去に体験した強い心理的な傷(トラウマ)が、その後も精神的障害をもたらすことになるという、フロイトの理論が彼の精神分析入門に記されていたのです。
彼自身もこれほどまでに一般的に使われる言葉になるとは、想像もしていなかったでしょうね。
けれども、それくらい心の傷ということに誰もが敏感になったということなのだと思います。
ところで私自身は、セッションのなかでトラウマという言葉を使うことは滅多にありません。なぜならある勘違いをされる場合があるからです。
私のイメージでは、トラウマ体験というのは何か特定の体験だったり、個別の事象によって傷つくことを指すのです。
ある人に◯◯という言葉を言われて、それがトラウマになったという具合に使われることが多いのです。
そうだとするなら、トラウマ体験というのは実は結果でしかないのです。トラウマ体験は偶然にやってきたものではないということ。
その体験を引き寄せる大元の原因があるのです。それは一つの体験というよりも、マインドが作られていく初期の段階における環境全般なのです。
朝起きてから夜寝るまでに幼い子供が吸収する家のエネルギーとも言えるもの。よく、英語のシャワーを毎日浴びれば英語が話せるようになるといいますね。
あれと似たようなものだと思えばいいのです。毎日浴びるネガティブな思考のエネルギー、感情エネルギーが知らず知らずのうちに子供の心の奥へと浸透するのです。
そのエネルギーがそれ以降に起こるトラウマ体験を引きつける原因となるのです。その部分に気づいて、少しずつそのエネルギーから離れていくことこそが、癒しの根本なのですね。
実家や親戚と距離をとってから、5年くらい経ちましたが、ようやく、あの中における常識が、身体から取れはじめました。が、法事や葬式に行けば、まだ、自然にスイッチが入ってしまいます。行かなくても有りだし、どうせ行くならその自分を観ることと、アドバイスいただいて。やっぱり、その場は昔と同じように振る舞って、それを認識しているのは少しの間で、すぐに巻き込まれ無我夢中で忘れてしまいます。あとから観るのも練習とのことでしたので、帰り道、トホホ…ですが、一生無理かもな、と疲れている自分を、わりと静かに観ています。
ただ、思えば、最近は、人から理不尽なことをされることが、あまりなくなってきました。
前は、嫌なことがあるのが、当たり前みたいなところがありました。
自分から招くのか、入っていったのか、その時は、それが自分の普通だったんだなーと、離れてみて、本当に初めてわかるものなのですね。
今じゃ、嫌で嫌で嫌で到底耐えられないことなのに。
そして、原点はあそこなんだ、と、痛切にわかります。責任ではなくて、原点。正誤ではなくて、ただ、とても重苦しく息苦しく、いつもがんばらなくちゃいけない。
少しずつゆっくりと、でも確実に重苦しさの原点から離れて行っているのを感じますね。ご本人からしたら、歯がゆいのかもしれませんが、これは仕方のないことです。それくらい奥深く浸透していたものですから。
これから先も、ご自分の変化に敏感でいて下さい。そしてもっともっとバカバカしさを感じるようになれたなら、巻き込まれることがもっと小さくなってしまうでしょうね。その過程を楽しめばいいと思いますよ。