かつて、ほんのかすかにしか記憶の残っていない乳幼児のころは、きっと自分の大きさが分かりませんでした。というよりも、私はいませんでした。
それが、2~3歳くらいになると、自分の小ささをもうすでに知るようになったと思います。自分独りでは何もできないということも感じていました。
何よりも、自分の行動範囲は小さな家の中に限られていて、家の外の景色や通る人のことを縁側からじっと見ていたことを覚えています。
安全な家の中から見ているので、特別外が怖いということはなかったのですが、もしも近くのお店にひとりで買い物に行けと言われたら、恐怖だったでしょうね。
自分がこの世界のどこにいるのかという考えも持っていませんでした。それが、しばらくすると急激に知識を獲得しだすのです。
幼い頃に、地球の裏側で暮らしている人たちが、自分とは逆さまな状態にいるということを知って、ものすごく興味を覚えたのです。
そうやって、自分の小ささから始まって、自分のいる位置というものを把握できるようになっていったわけです。
けれども、今になって耳を澄ますという瞑想をしていると、自分の大きさ(小ささ)が曖昧になるだけではなくて、自分の位置というものが分からなくなっていきます。
上下前後左右というものが全く分からなくなっていくのです。それは、あたかもあの記憶が曖昧である乳幼児の頃の感覚と似ています。
おまけに、自分は何も分からないし、何も知らない、という状態まで似てきます。ということは、な~んだ今まで成長するごとに身につけてきたことは、真理に耳を澄ますとたちどころに消えていってしまうものだったんだということです。
それはつまり、獲得してきた知識など、自分が信じて頼りにしてきたあらゆるものは、真理とは共存することができない類のものばかりなのだということです。
ところがまだその先がありそうです。というのは、自分の大きさや方向感覚などが分からないという感覚を持ちながらも、この世界にしっかりいて活躍することもできるからです。
共存しないモノ同士なはずなのに、その両方の感覚を同時に見ていることもできるということです。自分はこれだけ分かっているというパワーは確かに減るのですが、仕事は続けていけるということです。