以前、このブログで「何もしない」でいることの心地よさについて書いたことがありました。それは何もする必要がない、何もしなくてもいいということの気持ちよさ、ありがたさについてでした。
ところが、そうした時間というのはそうそう長く続けていられるものではないのです。しばらくすると、手持ち無沙汰に感じるようになったり、あれこれと頭が動き出してしまったりします。
なぜ、長い時間その何もしないでいる心地よさを感じていることができないのでしょうか?それは気持ちよさの奥に隠された自分の本音の部分が顔を出しそうになるからです。
気がついてしまうと都合が悪いとして隠しているものが、そういう何もしない時間を過ごしているうちに徐々に表へ出てきそうになるのです。
その時にじっとしていることが次第に苦痛に感じられるようになってくるというわけです。さっきまでのあの心地よさとは180度違うイライラとした感覚になってしまいます。
その結果、何もしない心地よさは早々に店じまいしてしまい、またあれこれと何かをし出してしまうことになるのです。
私は最近、その何もしないでいる時間というのをわざと作ってあげて、しばらくして手持ち無沙汰感が出てきたなと思ったときに、コースの勉強をするようにしています。
そうすると、心のどこかでそんなの読みたくないなと拒絶している意識がいるとしても、比較的スムーズにテキストを読み始めることができるのです。
この作戦はいろいろな事に流用することができるはずです。やらなければならないと思っていることがあって、どうもそれを始められずに居るという場合があると思います。
そうしたときに、この何もしないでいる時間を作ってあげて、イライラ感が出てきたなと思ったときに何も考えずにそのやらなければと思っていたことに手をつけてあげるのです。
きっと抵抗なくやり始めることができるはずです。そういえば、このブログを書くときにも、何もしないでじっとしている時間から入るみたいです。みなさんも試してみて下さい。