仏教の経典が7000もあると聞いて、本当なの?と思わず疑ってしまったのですが、それこそが沢山の宗派を生み出した原因らしいですね。
つまり沢山あるお経の中で、どれが一番大切なことを言っているのかということで意見が分かれてしまい、そこから宗派が生まれたのだとか。
私などは家の宗派が何だったのか、父親が死んだ時に初めて知ったくらいなので、全く偉そうなことを言える立場ではないのですが。
それでも少し口を挟みたくなるのは、元々お経の内容がどれほど有難いことが書かれていようと、それは真理そのものではないのです。
真理は思考(言葉)で表現することなど不可能だからです。それが分かっていたなら、少しぐらい好みが違ったからと言って宗派を作るのは解せないのです。
私だったら、あの高僧のところで修行がしたいとか、あのお寺では沢山の弟子が覚醒しているなどでお寺を選ぶのであれば、充分にありだなとは思うのです。
お経をどれほど繰り返し唱えたところで、覚醒に導かれるとは思えないのです。メジャーなほとんどの宗教はそれぞれの教典を持っています。
それがどうも私には合わない感じがしますが、皆さんはどうですか?
読み書きが出来なかったニサルガダッタ・マハラジは「あなたは意識だ。何をする時でもそのことをしっかり覚えていなさい」とグルに教えられ、それだけを実践したら覚醒したそうですね。
自分は何か困ったことがあっても「でも俺は意識だから関係ねーや」で済ませることが増えました。言葉が少ないほど真理に近いことを実感することが最近多いですね。
意識と自我(思考)の違いをいつも意識できてれば理想ですね。
こんにちは。初めて投稿?します。私は法華経をほんの少~しかじっただけですが、お経はひたすら「亡くなったご先祖様、安らかに成仏しますように」ということを言ってるらしいです。お経を読んでる人たちも、読んで覚醒するとか、覚醒したいとか、ほとんど思ってない気がします。覚醒なんて高等すぎて思いもよらないというか。お経を読むことで、先祖とつながりたいというシンプルな思いがメインかと思います。日々の読経はひたすら先祖供養ですね。それは先祖とつながることで守ってほしいとか、現世利益的な発想はもちろんあります。経典はもともとは覚醒とかのことを言ってたのかもしれませんが、庶民レベルだとそんな感じかと思った次第です。
確かにそうですね。きっとブッダ自身は仏教のことを知らないはずですね。彼が死んだ後に弟子たちが寄ってたかって、いろいろな経典を作ってそれが集まって仏教というようになったのでしょうから。先祖供養に一ミリも興味のない私としては、そこはスルーするしかないです。厳密に言えば、仏教で言う成仏というのは仏になることですから、無意識的に生きている人が死んで成仏するなんてことは、どれほど熱心にお経を読んだところで不可能ですから。生きている時が勝負です。けれども、先祖供養をしたいという気持ちを否定するものではありません。
ブッダはそうですね、仏教を知らないでしょうね。先祖供養って、亡くなったご先祖がこの世の執着をなくせますように、ということみたいですね。私はなぜかここ数年、先祖が気になってファミリーヒストリーを調べていますが、そうすることで何か現世的に得をするからというよりは、ただ気になるって感じです。親戚付き合いも好きな方です。厳密にいうと、年寄りの親戚が好きです。若手の親戚は関心ないです。自分より先に生まれた人に対して無意識に頼っているんでしょうか。それこそ「信頼」がそこにはある気がします。このあたりは意識的にみていきたいです。