人間とは社会的な生物であるというのは、勿論他のどんな動物も人間のように複雑な社会というものを持たずに棲息しているからです。
けれども社会的生き物だと断定する前に、そもそもなぜそのような社会を生み出すことになったのかを見れば、それは明らかにエゴをこしらえたからだと言えます。
エゴが自らの必要に応じて、社会というものを作ったのです。ということは、社会的生き物だという前に、人間とはエゴだと言う方が直接的なのです。
エゴを持たずにいれば、その人は人間の形をした何か別のモノだと言った方がいいのです。その場合には、殊更社会というものを意識せずに生きるのです。
もしも社会というものを拒絶するのなら、その人もエゴの虜であるのは確実です。なぜなら、社会を嫌うのですから社会を意識しているわけです。
このようにエゴは人間にとって、それを人間たらしめるためには必須だということが分かります。
それなのに、エゴを持ってしまったばっかりに、他のエゴを持たないどんな動物よりも、深い苦悩を持ってしまったのは皮肉なことですね。
けれども、エゴを持つということは自意識が芽生えるというほとんど不可能なことを実現したとも言えるのです。
自分がこの自分としてここにいるという思い、それこそがエゴの基盤となっているのですが、これこそが待望の「意識」の芽生えなのです。
そういう意味ではエゴは画期的なのです。そしてここで立ち往生しているのが私たちの現状ではないでしょうか?
せっかく意識に芽生えたのですから、その次のステージへと気づきの深さを掘り下げて行きたいものですね。それでこそエゴを作った意味が見えてくるのですから。
ところがどっこい、エゴというのはほんの少しの自意識と大多数の無意識というマインドの混合比で成り立っているのです。
だからこれを全部意識に変えようとするのはエゴの死を意味するわけで、何万年もの間意識的になるのを拒んできた理由も頷けるというものです。
ただここで一歩、エゴのままで満たされるということは絶対にあり得ないということだけは深く理解しておく必要があるということですね。
ありがとうございます。
先生と出会えてから、仕組みがわかって訓練するようになってから、自分の感情がわかるようになりましたし素直に出てくるようになりました。
出なかった声も出るようになりました。
悲しくて涙がいつまでも止まらないときもただ味わっていくことしかできませんかね。
(本題とずれていてすみません)
あるがままの感情に気づいて、それを充分に感じられるようになってよかったですね。味わい続けてください。
それと同時に、少しずつそうして味わっている自分を背中から優しく抱きしめる自分、ただ見ててあげる自分というのを作っていけるといいと思います。
そうでしたね、ありがとうございます。