本質的には、この生にどんな目的も意味もありません。到達すべき目的地などないということです。あるのは、ただそれに気づくことだけ。
気づくのに大きくは二通りの方法があるように思っています。その一つは、とことん生きること。
それが何であれとことんやり尽くすことです。幼い無邪気な子供がやるように、笑うにしても怒るにしても、泣くにしても徹底的にやるのです。
仕事でも遊びでもどんなことでも、限界までやったので後はもうどうでもいいというところまでいくと、自我は自然と次の目的を持つことができなくなるのです。
この方法が失敗しないためには、やりたいことをやるということに徹することです。そこに防衛による自己犠牲があっては、やり尽くすことができなくなるからです。
そして気づくためのもう一つの方法は、この生に絶望することです。それも徹底的に絶望して、未来の望みや期待を持てない状態になることです。
人が本当に諦め切ったとき、自我は自然と落ちていくことになるのでしょうね。どちらを選ぶかはあなたの自由だし、今回は選ばなくてもいつかはどちらかの道を行くことになると思います。
二つの方法って、全然違うように見えますが、到達地点が同じなのが不思議なようで、納得するようで、おもしろいなと思いました。
防衛による自己犠牲が入っていない、やりたいことって、希望や期待も入っていないんじゃないかな?と、すると、絶望に似ているのかな?
今日のブログは、いろいろ考えてみることが多くて、おもしろいです。当分考えてみます。ありがとうございます。
一つ目の方法では、希望や期待が満載をイメージしています。夢を叶えるためにガムシャラに突き進むイメージですね。ある意味無邪気な状態と言えます。だから絶望の真反対です。つまり、両極端というのは、ある意味同じものだということです。