真実と思考の間の深淵

個人としての私たち一人ひとりの正体とは、実は「思考」なのです。その思考とは、過去の集大成で出来上がっているものです。

その思考に、物事を起こすどんな力もあるはずがありません。私たちは、自らのことをそこらの石ころとは違う自律的な存在だと信じていますが、それは思考の中でのトリックに過ぎません。

石ころと違って私たちには立派な自由意志があると思いたいところですが、その自由意志とは思考の産物に過ぎないのです。

「思考」である我々には、真実を知ることは不可能なことです。思考は、どれほど背伸びをしたところで、真実に到達することはできないのです。

たとえば、何かをあるがままに表現しようとする試みは、決して成功しません。物事を表現したり、描写するということそれ自体がまさに思考だからです。

「物事のあるがまま」とは、真実と言ってもいいかもしれませんが、その真実とそれを表現しようとする「思考」の間には、無限の深淵が横たわっています。

それらが互いに交じり合うなどということは決してありません。真実が実体だとすれば、思考は影のようなものだからです。

影に価値があるとかないということではありません。影ができる最高レベルの思考は、真実にひれ伏すことです。真実を知ることはできないと、完全なる無知であると観念することです。

そのときに、本当の私たちは「思考」ではなかったという気づきがやってくることになるのです。影が実体のフリをするのをやめたときこそ、描写不可能な永遠の平安になるのでしょう。

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