自我はどんなことにでも「なぜ?」という質問をすることができると思い込んでいるのです。
なぜ私たち人間には自我が備わっているのか?なぜ自我は防衛ばかりしてしまうのか?なぜ宇宙は膨張し続けているのか?
この「なぜ?」という問いに対して、答えが分かっていてもいなくても、確実にどこかに答えはあると言えるのです。
ところが、真実に対しては、この「なぜ?」という問いは意味を成しません。この問い自体が真実に対しては不適切なのです。
真実は、「なぜ?」という問いに対してどんな答えも持ってはいないのです。もっと言えば、「なぜ?」を包含してしまっているということ。
毎日の生活の中で、もしも「なぜ?」が全く通用しないようなことにあなたが出くわしたなら、それこそは真実の可能性があるということです。
理由があるようなことは、所詮は自我の範疇なのです。あなたが優しいから好きだというなら、それは自我の愛、偽物の愛ということです。
純粋な愛は真理そのものなので、そこにはどんな理由もありません。自我が消えると、なぜ穏やかさや至福がやってくるのか?
穏やかさや至福感は真理が持っている元々の特質であって、そこにはどんな理由もないのです。
「なぜ」に対する理由は、表層の部分なだけで、根っこには何も説明できるものはないということですか。
優しいから好き…も、ただの表現に過ぎず、好きであることに理由はない。
人に説明したり、自分でもどうしてかなと思った時に、優しいから…などといろんな理由をあげてみるけれど。
理由をつけないと落ちつかない。
理由があるともっともらしく思えて安心できるからかな。
表層をつかまえてかきまわして…と、よくやっています。
安心したいからやっていたはずが、逆に
深い安堵からかけ離れていた、とうことでしょうか。
「なぜ」は脇に置いて
表層の向こう奥深くに、目を向けられたらいいのでしょうか。。。
その通りですね。なぜ?の答えが欲しいのは、それで納得して安心できると思っているからです。それが自我の特徴ですが、真実はそんなことにはお構えなしです。日常で「なぜ?」を言うのはいいですが、同時に「なぜ?」に意味はないということにも気づいていればいいのですね。