自分だけが見えない世界

私たちは、誰もが自分の姿だけが抜け落ちている世界で生きているのです。この意味分かりますか?

小学生の頃、授業中の教室の中を見回してみても、自分だけは友達の姿を見るようには見ることができないことを知っていました。

違和感を持ってはいたのですが、さすがにそこを追求するだけの力がなかったので、そのまま放っておいたのです。

そしてそのことは、ずっと長い間すっかり忘れられていたのですが、今から8年前くらいから復活してきたのです。

ただ復活したのではなくて、自分の姿がないということがとてつもない真実を見させられていることに気づかされたのです。

写真の中の自分や、鏡を覗き込んだときに映る自分の姿を見て安心するのですが、そうしないでいたら自分は他人のようにはいないということが目立ってくるのです。

この年齢にもなると、自分を見ようとして鏡を見ることはほとんどなくなってくるので、ずっと自分が見えない世界で生きるのが普通になってしまいました。

安心がいらなくなってくると、年齢を重ねた自分の姿が見えない世界で生きるのは、居心地がいいものですね。

そして都合よく、見えているもののすべてが自分の本当の姿なのだという感覚がやってくると、一瞬であれ防衛が消えて愛だけになるのですね。

4 Replies to “自分だけが見えない世界”

  1. 最後の

    都合よく、見えているもののすべてが自分の本当の姿なのだという感覚がやってくると、一瞬であれ防衛が消えて愛だけになる
    …のところの意味がわかりません。

    見えているものは、他者でなく自分だということですか?
    それとも、よくおっしゃる自分はいない
    とゆうのが、そのまま体感できるということですか?

    そうすると自我が消えて、防衛も消えて愛が残るということですか。

    1. 個人としての自分がいないとき、他者の存在も消えてしまいます。そして今この瞬間見えているものが、全体性としての真の自己だということですね。この辺りのことは、あまり考えない方がいいかもしれません。いずれは体感するときがきっと来るでしょうから。

      1. 死ぬまでにとか死ぬ間際には体感するかもというスタンスでしょうか。
        それに気づけるように、日々過ごします。
        ありがとうございます。

        1. 期待せずに待つというのが一番ですね。期待すれば、自我が活性化するので、より起きにくくなってしまいます。というよりも、本当はチャンスはやってきているのかもしれませんが、自我がそれを逃してしまうというのが真実かもしれません。

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