以前確かこのブログでも書いたことがあったと思うのですが、デカルトさんの有名な言葉に、「我思う、故に我あり」というのがありますね。
あれも疑ってこれも疑って、どれもこれも不確かなものばかりだけれど、最後にこれだけは残る。それが疑っている自分の存在だ、というわけです。
私からすると、この考察は正しいとも言えるのですが、正しくないとも言えてしまうのです。
それは、デカルトが言った「我」というのは自我のことだということです。彼は自我こそが私自身の存在そのものなんだと信じていたのでしょうね。
驚くべきことに、平凡な日本人の私がこのデカルトさんの言葉をだいぶ上から目線で見ているということ。
彼にとって、自分の本質というところへの着眼がなかったということです。「私」という自我は決して自分の本質ではない。
自分の本質のことを便宜上私は「自己」と呼ぶことにしています。ですから、自己と自我というのは、全く異なるものを指しているのです。
私が何も思わない状態であれ、ここには何かがあることだけは分かるのです。瞑想状態では、私という個人は消えてしまうけれど、何かが残るのです。
それが自己です。自我は思考からできているので、常に思考を寄せ集めてはその中でもみくしゃになって生きようとするのです。
だからその思考をかい潜って静かな眼で感じてあげなければ、自分の本質である自己を感じることはできません。
余裕のない人、テンパっている人、あれこれと戦っている人には、なかなか本質を感じることが難しいのは当然ですね。
ブッダが悟りの境地を尋ねられた時に言葉にしようが無くて仕方なく「アナッタ(無自己)」と言ったそうです。
ブログの内容で言うところの「無自我」ですね。
この言葉は当時のインドには存在せず、「自我が無い」という概念?を示すためにブッダの口をついて出たブッダの造語らしいのです。
この話を聞いた時に対比するように「我思う故に我あり」が頭をよぎり、2600年前にデカルトよりも深いところを見たブッダはやはり凄いなと感嘆したものです。
なんかそんなこと思い出しました。
時代は変われど人間は変わらないというけれど、本質に気づきつつある人たちが増えてきているんだなと実感させられますね。2600年前からの積み重ねは確かにあるのかもしれません。そう考えると、いい時代に生まれたものだと思いますね。