昨日の続きです。
自己犠牲なんてもう真っ平御免だと思っても、そう簡単にはやめられない理由があります。自己犠牲を払ってでも手に入れたかった自分の存在価値については、もういいよと思ったとしてもそう簡単に方向転換できない理由があります。
それは自己犠牲を自分に強いている張本人は大人の自分ではないというのが一つの理由です。元々、自己犠牲を強いるようになってしまったのは、子供の頃の自分が自分を守るためだったのです。
したがって、自己犠牲の中心人物は子供のころの惨めな自分なのです。自分はこのままでは生きている意味がないかもしれない、見捨てられても当然かもしれないという思いが奥にあるのです。
それを何とか払拭したくて、頑張り続けるということです。そのやり方が自己犠牲に繋がるわけですね。やりたくもないことを頑張ってやって、親を安心させようとしたりするのはすべてこのためです。
子供の頃のそうした自分は、すれすれのところで何とか見捨てられないように、頑張って毎日過ごしてきたのです。それが自己犠牲と言われようが何と言われようが必要だったのです。
その子供の思いというものが時間を越えて大人になった今の自分を縛っているということです。だからこそ、簡単には大人の自分の思いだけでは変えることが難しいのです。
そして、自己犠牲の裏にはそうでもしなければ生きられないという切羽詰った思いがあり、それは実は周りの人に対する不信感でもあるのです。
だから、人を信頼することができないために、おいそれとは自己犠牲をやめようとはしないだけでなく、やめるなら今までの自分の苦しみをどうしてくれるんだという思いを持っています。
どんなに信頼できそうな人がいてくれても、信頼できるという事実を受け入れてしまったら、それまでの自分の苦悩が消えてしまうことになるということですね。
いつまでも人は信頼に足らないと思い続けたいということです。この状態を解きほぐしていくのにはそれなりの時間が必要なのは察してあげて欲しいと思います。
あとは、時間をかけてゆっくりと、幼い自分の思いを聞いてあげて、頑張ってやってきたことを心から認めてあげることです。そこから、少しずつ心は緩んでくるのではないでしょうか。