人間というのは本来孤独なものです。個人として生きているのですから、外側の世界から切り離されている状態なので、孤独であることは確定しているのです。
だからこそ社会を作り出してその中で仲良く暮らそうとするのです。出来る限り、孤独であるという事実から逃れようとして、群をなすのですね。
それが良いとか悪いということではないのですが、そのことに気づかずにいるとしたら、そこが問題となるのです。
なぜなら、孤独であることに気づかなければ、自分を騙して人はうわべだけの生を生きることになるからです。
健康な家族に囲まれて育った子供は、この孤独に気づきにくいのです。大好きな家族がいれば安心できるということで、自分は孤独ではないと信じるのです。
けれども、成長して様々な経験をしていく中で、どうしても生来の孤独を見なければならない状況もやってきます。
いずれは孤独であることに気づくことになるなら、出来るだけ早いうちがダメージも少ないはずです。
いつまでも孤独から逃げ回っていて、本当の自分の姿を見ようとしない人もいますが、孤独であることを認めてからでないと人は本当には優しくなれないのです。
個人(自我)=孤独ということであって、つまり自我と孤独は同義語なのですが、一瞬でも自我が落ちているときは、孤独などどこかへ消えていってしまいます。
思考のないただの意識の状態には、孤独というものは存在しません。そこには全体性という単独があるのみなのですね。
自我が孤独であるとわかってからの、本当の優しさというのは、どんなものなのでしょうか。
何か対象に対してする行為ではなくて、全一というまなざしみたいなものですか。
本当の優しさとは、無防備からやってくる愛のことです。それが行為のこともあるでしょうし、まさざしのこともあるでしょうね。無私を知れば誰でもそこに行くことができるはずですね。
無防備が無私が本当の愛なのだから、ですね。
私という、周りとの境目が、孤独が、つまり防衛がある物体から出てくるものは、優しさでも、どこかに愛ではないものも混ざっていると、良い悪いではなく、そうなんだとわかるのは、なぜか、すがすがしいです。まがい物はまがい物だと。
今年も毎日楽しみにブログを読ませていただきました。ありがとうございました‼️
「良い悪いではなく、そうなんだ」という表現は、簡潔で分かりやすくていいですね!