自我(「私」)として人生を生きる当事者の側面と、それをただ見守る側面の両方があると思って下さい。
ただし、長い間その両者のうちの前者側として生きてきてしまったため、後者の側面をすっかり忘れてしまっていたのです。
少しずつ後者としての自己を思い出すようにしても、なかなか自我の勢力が強いために、後者を忘れがちになるのです。
最近になって、見守る側の自分に真になれているかは別として、言ってみればそのフリをじ〜っとしてみたところ、意外なことを発見しました。
自我の側の私は、自分のことを決して嫌いではなく、どちらかと言えば好きな部類だなと思っていたのです。
けれども、見守る側としての立ち位置に慣れてきた今、どうも自我が思っているほど愛しくも何ともないのです。
もっと言えば、他人の眼として自分のことを客観的に見てみると、あまり好きな奴ではないと思っていることが判明しました。
なんか別に一緒にいたくないなあと…。気難しいし、ワガママだし、理屈っぽくて面倒な初老なのですね。
救いはもう一度見守る側になってみると、当然ですがそこにはどんな判断もないので好きも嫌いもありません。
結局、自分を見る三つの立場によって、全く異なる自分に対する印象があったということです。
私の場合、自我だけが自分のことを好ましいと思っていて、第三者の目では全く好ましくは思っていなくて、見守る目がそのどちらでもないと分かったのです。
見守るって無敵ですね。
これってすごいですね。私もその実験を是非やってみたいと思います!
意識の視点を変えてみるだけでこんなにも違うのですね〜。改めてただ見守るということを日々実践してゆきます。
こうした実験というのは、それがどんな結果になろうとも実験するということが大切なのですね。その実験によって、自分をいろいろな角度から眺めることになるからです。是非実践してください。