物語の内と外

osho の言葉で次のようなものがあります。

『今、何であれ、起こっていることが起こっているのを感じなさい。その「あるがまま」を感じてごらん。

それはそうなのだ。それはただ、そうであるしかない。他にはありようがない。ならば、なぜ抵抗するのかね?』

この感覚、起きていることをただ受容するということなのですが、これこそが物語から抜け出す唯一の方法だと思います。

物語の中に入ってしまうと、されたことは仕返ししたくなるし、それが復讐心にもなるし、理不尽なことは裁きたくもなるのです。

一度そうやって物語の中へと組み込まれてしまうと、そこから抜け出すことは至難の業となってしまいます。

それでも、物語の中で生きることが悪いということではないし、逆にいいことでもありません。

物語の善悪を考えるのではなく、物語の中で生きるかそれを受容して見守る側で生きるのかをいつも意識しておく必要があるということですね。

ゆったりと自然であれ

osho はいつも「ゆったりと自然であれ」ということを強調していました。誰でもその事に異論はないはずですが、ただ現実には難しいということも知っています。

どちらかと言うと、焦ったり、いっぱいいっぱいになって不自然な生き方をしてしまう事が多いのですが、その理由を突き詰めて考えることもないのです。

ゆったり出来ずに、余裕がなくいっぱいいっぱいになってしまう主な理由の一つに、自分は正しくありたい、正しくあろうとする事が挙げられます。

自然であることと正しくあることは、互いに全く路線が違うのです。あなたのハートは自然の中にあるのですが、正しさはマインドにあるからです。

ハートを優先して自然であろうとすれば、マインド(正しさ)が犠牲になってしまうのです。逆にマインド(正しさ)を優先すると、ハートは悲鳴をあげる事になる。

このジレンマから抜け出すためには、正しくありたい理由を明確にする事です。それはもうお分かりのように、単なる自己防衛によるものですね。

正しいと思う立ち位置にいれば、否定されずにすむので安全安心が得られると信じ込んでいるわけです。おまけに正しくない人を糾弾できる。

けれどもその結果、余裕がなくなって自然体ではいられなくなり、ギスギス、イライラした精神状態から抜け出せなくなってしまうのです。

自分の正しさを主張しない事、そして正しさにしがみつことの愚かさに気づく事。正しさがなくならずとも、その手綱を緩めてあげるだけで、心に余裕ができるはずです。

「ゆったりと自然であれ!」この言葉を時々思い出してみて、そこから自分の毎日を見つめることを忘れない事ですね。

復讐心の伝搬を止めるには?

マインドは思考によって惨めだという思いを作ることができます。もちろんそれは単なる思考なので、事実ではありません。

けれども、その惨めだという思いによって、人は途方もなく傷つくことになるのです。それが耐え難いために、その惨めさを認めようとしないこともあるのです。

惨めさを隠す手っ取り早い防衛方法は、怒りという感情を生み出してそれで惨めだという思いに蓋をするのです。

つまり怒りというのは、惨めさを隠すものとして機能するということ。このことは、このブログでも何度も繰り返しお伝えして来ています。

更にこうした惨めさが繰り返されることで、怒りだらけになると共に、怒りという感情と思考をくっつけることで、憎しみや復讐心を作り出すのです。

こうなってしまうと、怒りをただの怒りとして味わって解放するということが、なかなか難しくなってしまうのです。

今起きている壮絶なロシアによるウクライナへの侵略も、ロシア民族あるいはプーチン大統領の復讐心によるところが大きいのでしょうね。

一度純粋な怒りを憎しみや復讐心へと歪曲させてしまうと、そのエネルギーは世代を超えて何百年単位で継続することになるかもしれません。

まさにそれが人類の絶えざる戦争の歴史を作り出して来たとも言えるのではないでしょうか。

惨めという思考と怒りという感情の癒着を解くためには、思考を見て、感情を味わうという方法が一番なのです。

それができれば、未来に向けて憎しみや復讐心を伝搬せずに済むのですが、それを個人個人でやっていく必要があるので、絶望気味になるのは私だけではないはずです。 

お為(ため)ごかし

「お為ごかし」という言葉をご存知でしょうか?実は私自身はうろ覚えのレベルだったのですが、割とよく頭に浮かんではきていたのです。

辞書で調べてみると、ああなるほど…。表面的には親切に見せかけながら、本心では自分の利益を優先する、そんな意味なのです。

これ、実は多くの人が無意識的にやっていることと言っても過言ではありません。たとえば、こんな口癖を言う親がいます。

「これはお前のことを思って言っているんだぞ!」こんな怪しい言葉を、皆さんもきっとどこかで聞いたことがあると思います。

たとえば、娘が大学生になっても厳しい門限を設定する親がいます。お前のことを心配するからこそ門限を与えるんだぞ!

これ、完全にお為ごかしです。なぜなら、この門限というのは親自身が安心したくて子供に課するものなのだからです。

親はそんなことは自覚がありません。とにかく子供の身の安全を願ってのことだから正しいのだと思い込んでいるのです。

ロシア側がウクライナ側との停戦協議で人道回廊を作ると約束しておいて、現実にはその道はロシアへ続く道だったなんて、あまりにも馬鹿げています。

この場合は、無意識ではなく明確な意図を持った提案だったわけで、お為ごかしも甚だしいというしかありません。

自分の言動も、お為ごかしになっていないかどうか、よくよくチェックしておくことが必要だと思いますね。

否定的な疑いを養わない

「疑い」には二種類あると思っています。一つ目は、子供が純粋に持つ問いかけるものであり、ここには否定が含まれません。

そしてもう一つは、最初から否定的なニュアンスを含んだ疑いです。違うんじゃないの?とか、嘘じゃないの?と言ったような疑問です。

前者の方はとても大切なものであり、それは自然なものでもあるのですが、後者の疑問に対してはその取り扱い次第で、結果に大きな違いが出てきます。

後者の疑いに対しては、飲み込まれてしまえばそれまでですが、それと戦わないこと、それから逃げようとしないこと。単にそれに対して無関心であればいいのです。

かつて私の内側が理由のない感謝で満たされたときに、耳元でさまざまな否定的な疑いの言葉が囁かれるのを聞きました。

偽善者だとか、感謝で満たされているふりなどするなとか、くだらない等々、とにかくそう言ったニュアンスの言葉がやってきていたのです。

その時にその言葉に対してずっと無関心を通したのを覚えています。もしも、その言葉に注目してしまったら、それに食糧を供することになってしまうのです。

逆に無関心であり続けることができれば、それへの協力は崩れることになるのです。そしていずれは静かになってしまうはずです。

自分がこれだと思ったものがやってきたなら、それに対してできる限りの信頼を寄せることであり、疑うマインドには無関心を貫いていればいいのですね。

過去に囚われるマインド

私たちのマインドというのは、自分に都合のいいように勝手に物事を解釈してしまう習性を持っていると言えます。

たとえば、イジメられた方はその事を決して忘れないのですが、イジメた側はすっかり忘れてしまっていたりするものです。

つまり加害者としての記憶は都合が悪いので忘れてしまい、被害者としての記憶は決して忘れないのです。

ロシアの歴史を垣間見るだけでも、周囲の国々から侵略された血生臭い、そして惨め極まりない無数の悲惨な出来事があるのです。

それは国民的なトラウマとなって残っていても不思議ではありません。特に、過去に囚われてしまうマインドを持っていれば尚更です。

旧ソ連が崩壊して、西側諸国に歩み寄った旧ソ連の人々は割と過去は過去として、前を向いて生きていくタイプだったのでしょう。

けれども、ロシアに残った人々は忌まわしい過去のトラウマがしっかり残っている傾向が強いのだと思います。

トラウマは大きな恐怖を生み出すのです。それは外部から見たら理不尽に思えるのですが、本人からしたら当然の戦闘態勢となってしまうのです。

ロシアに詳しいある人物が、プーチンはタイムトラベラーだと言っていました。要はトラウマを提げたまま過去に戻って、今度はやり返すぞという現在を自作するのです。

こうなってしまうと、普通の心理療法で癒しを進めようとしても、なかなか歯が立たないように思いますね。

マインドとは欲望するプロセス

昨日のブログでは、選択することこそが心(マインド)の働きであるから、選択しないでいられたら、すぐに悟ることができるということを書きました。

この一つひとつの選択というのは、それぞれは小さいことかもしれませんが、それは欲望からやってくるのです。

あれは欲しいけれど、これはいらないという選択、どう考えても欲望がベースにあることは間違いありませんね。

つまり、心(マインド)というのは欲望することを指すのです。マインドは実体があるわけではないのです。

私たちは自分の中に一つの心(マインド)を持っているように感じていますが、そんなものは存在してはいないのです。

マインドというのは、欲望して選択するというプロセスに過ぎないと osho は伝えてくれています。

あなたが欲望すればそこにはマインドというプロセスが生み出されるということです。逆に欲望しなければ、マインドはないのです。

そしてマインドというプロセスがなければ、そこに悟りがあるということになるのですね。

選択肢があるように見えるだけ

osho の言葉で次のようなものがあります。

『悟りは、あなたのすぐ目の前にある。 選り好みをしたら、あなたはそれを逃してしまうだろう。というのも選り好みをするということは、心がはいり込んだということだからだ。選択というのは心なのだ「私はこれを選び、あれは選ばない」と言うときあなたはすでに世界をふたつに分けている。』

なるほど、選択が心(マインド)を活性化してしまうということですね。けれども、一切選択せずに生きていくなど想像もできません。

朝起きたら、今日の朝食は何にしようか、から始まってどの服を着て行こうか、どの仕事を先に済まそうか、誰と何を話すか等々。

考えたら1日のうちのほとんどは選択し続けていることに気づきます。人生とは選択の連続で出来ているとも言えますね。

選択をしないというのはどういうことなのでしょうか?これは私なりに思うことなのですが、人間には自由意志がないということを思い出すのです。

選択することが問題なのではなく、自分が選択していると思い込むことが自我から抜け出せない本当の理由なのだと思うのです。

私のことで言えば、今日のブログは何を書こうか、これにしようと決意するのも一つの選択だと言えますね。

けれども、それは選択ではなくそのように現象が起きているというように見ることもできるのです。

それは決して選択ではありません。無数の選択肢がある中からたった一つが選ばれたと見ることはできますが、そうではないと気付けばいいのです。

この見方をするだけで、人生から選択が消え失せていくはずです。私がまだ覚醒していないのは、私の自我が自分が選択したという手柄を手放せずにいるからでしょうね。

子供時代との接触を取り戻す

子供の頃から自分が進むべき道をはっきり見据えていられる子は幸運ですね。けれどもそれはごく一部で、一般的にはそんな事はありません。

まだ社会というものを知らないし、自分がどんな大人になって行くのかと言ったイメージも明確には持っていないのが普通です。

それでも時間は待ってくれないので、何とか社会に順応すべく仕事が決まって行くのです。絶対にこれをやって行くという、明らかな夢もなしに。

それとは別に、子供時代に興味を持って見ていた事柄というのはあるはずです。それが社会で役立つかどうか、あるいはそれで生計を立てられるかも考えないままに。

だからこそ大人になって行く途中でそんな事は忘れてしまうのですね。でもそういった子供時代の純粋な興味は決してなくなる事はなく、あなたの奥深くに残っているのです。

もしも人生に不満があるなら、子供時代のそれを思い出すことです。そしてもう一度それとの接触を取り戻し、勇気を持って人生の中で展開できないかを検討することです。

私は子供時代、目に見えないもの、この宇宙の果てに想いを馳せると、不意にそれが自分自身に返ってくるという感覚があり、それに興味があったのです。

その感覚の意味が今では分かるようになって、それが現在の仕事と深く結びついているのです。そういう意味では、子供時代の自分が毎日興味津々で生きていると感じます。

子供時代があまりにも辛く苦しいと、そことの接触を絶ってしまうのが普通です。そうなると、当時の純粋な興味を思い出す事が難しくなってしまいます。

子供時代との接触を取り戻して、どんな純粋な興味があったのかを見いだすためにも、しっかりと癒しを進めて行く必要がありますね。 

戦争は惨めさの克服が原因

osho によると、人類の過去何世紀にも及ぶ歴史を見ると、二つの時期しか生きたことがないとのこと。

戦争、つまり実際の戦時と戦争のための準備期間。この二つが全てだということ。大雑把に見ればそれが歴史の真実だと納得できますね。

ということは、人類は相当に問題を抱え込んで生きているということを物語っているのです。

どれほど世界平和を声高に叫んだところで、一人ひとりのマインドの闇が深ければどうしようもないことだと気づくことです。

戦争はいつもこのブログでお伝えしているマインドの自己防衛が原因であることは明白です。

領土争いにしても、宗教争いにしても、あるいはエネルギー争いにしても、どれもこれも防衛をやめられない人類のマインドが根本にあるのです。

幼い頃の耐え難い己の惨めさを封印して、自分は決して惨めなんかじゃないということを証明しようとするのが人生です。

そのためにはあらゆる防衛力を駆使するのです。それが個人のレベルを超えて国家のレベルになれば戦争が起きるのです。

もうそろそろこんな簡単なカラクリに気づいて、愚かなことを繰り返さないようにしたいですね。