自己防衛を忘れるとき

20数年前のことですが、東京狭山市の入間基地に戻ろうとしていた自衛隊の練習用ジェット機が墜落した事件がありました。

操縦していた二人は、相当地位の高いベテランのパイロットだったのですが、脱出を試みたにも関わらず助からなかったのです。

事故を詳細に調査した結果分かったことは、二人はもっと高度の高いところで脱出することもできたのに、わざと遅らせたらしいのです。

なぜなら、その墜落現場周辺は入間川の河川敷近くで、家屋や学校が密集している地域だったのだそうです。

そこで墜落させるわけにはいかないと思って、自分達が助からないことを覚悟の上で高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近したらしいのです。

ジェット機を墜落させても大丈夫なところまで操縦した上で、ほんの少しの可能性に賭けたということですね。

つまりは、自分達の命よりも周辺住民の命を守ることを優先したわけです。どれほど訓練していたとしても、本当にそんな犠牲的行動を取れるのか?

私は人間とは本来そういう生き物であるように感じています。追い詰められた究極の状態では、自分の本質である愛が発動するのだと。

普段の自己防衛を忘れてしまうとき、その時こそ真の自分のエネルギー、つまりは愛が発動するように、私たちは作られているということですね。

死という超常現象を見届けたい

私が10代の頃ですが、ユリゲラーという超能力者がやってきて、テレビで盛んにスプーン曲げを披露して見せたものでした。

そういう類の話にとても興味があって、UFO や宇宙人を扱っている番組もとても楽しみに観ていました。

いわゆる超能力とか、超常現象といった普通ではありえないような出来事や奇跡と呼ばれるようなことに、惹かれるものがありましたね。

物理学的なことにも興味があったのですが、同時に非科学的なことを疑うことなく楽しむことができていました。

そして今はどうかというと、一番興味深く見ているのは死ぬということです。死というのは、一種の超常現象だと思うからです。

その最も魅力的な超常現象である死を体験するのに、それを自覚できずに通り過ぎてしまったとしたら、これほど残念なことはありません。

ちょうど素晴らしいUFO と遭遇しているのに、居眠りをしていて気づかなかったというのと同じだからです。

一生で一番貴重な体験を見逃さないようにするためには、普段から意識的であることを練習しておく必要があるのです。

そうしておけば、いざ死にゆくときにもしっかりと意識を持ったまま、眠りこけたり危篤になったりせずに死を通過する様を見届けることができるはずです。

だから今日も何をしていようとも、意識的であろうとする練習をしつつ、眠りにつこうと思います。

分裂&成りすまし

このブログ内において、「親2世」で検索すると、過去に書いた3つの記事が出てきます。何のことなのか、ご興味があれば是非検索してみてください。

ところで、この「親2世」が作られる幾つかの理由の中で、最も強力で圧倒的な力を持つのは何かというと、「分裂&成りすまし」なのです。

理屈は至って簡単です。例えば、イジメに遭っている子がそのイジメから脱出するために取る方法として、イジメる側に回るというのがありますね。

それと同じことを自分自身で、つまりは一人二役でやるのです。一人二役なので、自分という一人を二つに分裂するのです。

そうして、片方をイジメられているままの自分として残しておいて、もう一方の自分がイジメる側に回る(成りすます)ということです。

こうして自分一人の中で、イジメられる子とイジメる側の子とに分かれてしまうのです。もちろん人生の主役は、イジメる側の自分にします。

イジメられる自分は都合が悪いので、無意識の中へと抑圧してしまうわけです。こうして◯◯2世が誕生するのです。

◯◯の中には、あらゆる人物が入ります。親でもいいし、父、母、兄、姉、その他全ての自分を否定したり裁いたりイジメたりしてきた人物です。

大人になっても自分をずっと酷く否定しているなら、幼い頃に作り上げた◯◯2世と一体となって生活していることを物語っているのです。

癒しを進めていって、2世との距離を取ることができるようになったら、かつて分離されて潜在意識の中に抑圧されてしまった、あの可哀想な子と会える時がやってくるでしょうね。

そうなったら、否定的な自己イメージは小さくなって、あるがままの自分を丸ごと認めることができるようになるはずです。

遠心的 or 求心的?

感度の良し悪しはあるにしても、私たちは誰もがアンテナを持っています。それは、外向きに情報をキャッチするためのアンテナです。

視覚は外側にあるものを見、聴覚も外側からやってくる音を拾い、嗅覚も触覚も味覚も全ては外向きのアンテナです。

そのように生まれながらにできているので、知らず知らずのうちに外側からやってくるさまざまな情報を収集することを当然のこととしているのです。

そしてそれに連動するように、内側で作られたあらゆる思いや感情を外向きに放出するのです。つまりは、遠心的な流れができてくるのです。

ところが、どうしたわけか人によっては遠心的だったエネルギーの流れを内向きに変えて、求心的になることがあるのです。

この変化がとてもとても大切なのです。充分に意識的になっていくことで、エネルギーの向きが求心的になるのです。

あらゆるものが内側へと吸収されるようになるのです。そうなったら、そこに個人はいません。

全体性が入り込んでくるのに、個人などはお門違いもいいところ。その結果、誰もいないということに気づくようになるのですね。

自己否定を受容する

昨日のブログでは、自我を見守るというお話をしました。自我を見守る立場になることで、自我から離れて自我が持っているあらゆる苦悩から解放されるのです。

より具体的に言えば、世界で一番身近なこの自我の思い、気持ち、感情、その他の全てをつぶさに見るのです。

その嫉妬深さをみるのです。その愛嬌のなさ、その惨めさ、その意地汚さ、それが離そうとしない憎しみ、だらしなさ、くだらなさ、不機嫌さ等々。

そういったものをしっかりと見守るのです。特に自我がやっている自己否定、自己嫌悪、自分いじめ、そういったものを見守るのです。

これが一番重要かなと思っています。とにかく自我というのは、そういった否定的な部分がこれでもかとてんこ盛りなのです。

それはどうしようもないものと理解することで、ただ見守ることができるようになるはずです。

逆に、肯定的な部分や誇らしい部分もそれなりにあるのですが、それを褒めることはしません。それもただ見守るのです。

自我からの超越は、自我をどのようにも判断せず、裁かず、肯定も否定もせず、賛成も反対もせずに、ただ見守ることですね。

自我を超越する

昨日のブログでは、人生のあらゆる問題の根っことなる二元対立からどうすれば解放されるかということを書きました。

二元対立がなぜ問題を引き起こすことになるかというと、自我はそのどちらかを選択しようとするからなのです。

憎しみと愛なら愛を選ぼうとするし、怒りと慈悲であれば慈悲の方を選ぼうとするわけです。

ところが現実はどうかというと、憎しみの方を選んでしまうし、怒りの方を選んでしまうことが往々にして起きるのです。

これが問題となるわけです。選ぼうとした方を選ぶことができなかったという否定が入り込むからです。

私たちは思考が作り出した二元性の世界で暮らしているので、あらゆるところに二元対立が起きているのです。

その両方を受容すること。もしもあなたの身近に味方と敵がいるのであれば、味方を選ぶ代わりに、双方を受容するということ。

これが超越を起こすことになるのです。戦えば、必ず勝つことを選んでいるわけで、それでも負けることも起きるのです。

ここから解放される唯一の方法は、どちらも受容するということ。勝敗から解放されるためには、受容しかないということです。

自我と戦う代わりに、自我を受容することができれば、自我を超越することになり、生の問題は消えていくことになるのです。

自我を受容することでそれを超越する方法は、それを観照するということ。見守ることに徹するということ。これ以外にありませんね。

二元対立から解放される

月並みな表現ですが、怒りは悪いものだと思っている人いませんか?強欲もみっともないものだと思っていませんか?

逆に、慈悲深さは素晴らしいし、非暴力も良いものだと思っていませんか?その気持ちは充分に理解できます。

私自身の中にも同じように思ってるマインドの部分があるのを知っています。けれども、それだけではありません。

私の中のどこかには、これはもう非常に明確になっているのですが、そうした全てを善悪や美醜に分けて考えるのを、もうやめようぜという部分があるのです。

もう少し解像度を上げれば、悪いものと良いものがあると考えている部分についてもそれをそのまま受容するということです。

そうしなければ、またいつものように改善病にはまり込んでしまうからです。自我としての「私」が持っているものをそのままに見守るのです。

そうすると、自我からの距離を保つことができて、結果として善悪や美醜のようなあらゆる二元対立からも解放されることになるのです。

「私」を優しい眼差しで見守ることができるようになれば、解決しなければならないことが消えていくのが分かります。

習慣は人を無意識にさせる

私たちは「習慣」と共に生活しています。良い習慣もあれば、悪い習慣もあるのですが、習慣そのものについて深く考えたことはあまりないかもしれません。

早寝早起きを習慣にしている人もいれば、夜更かしを習慣にしている人もいますが、ここでの主題はどちらが健康にいいかと言うことではないのです。

習慣というのは、いちいち意識せずとも身体が勝手に動いてしまうということもありますね。

例えば、朝起きて歯ブラシを手に取って、歯磨き粉をつけて歯を磨くという動作をしているときに、どれほどの人が意識的であるのか?

毎朝の習慣になってしまっていると、完全に無意識状態で上手に歯を磨き終えることができてしまうのです。

もっともっと身近な例で言えば、歩くときに私たちはほとんど無意識で歩いていると思われます。

ひとりでに右足が前へ出て、そのあとすかさず左足が出るという具合に、完全に自動的に歩くことができるし、ほとんどがそのようにしているはずです。

ああ、今右足が前へ出た、今度は左足という具合に意識して歩いている人は少ないはずです。

このように習慣というのは、日常生活の上では非常に便利なものですが、その一方では意識的であることを忘れさせる大きな要因の一つになっているのです。

習慣そのものが悪いということではなく、どれほど習慣づいていたとしてもできる限り意識的であり続けるように訓練することが大切なことなのですね。

信頼により全体が味方だと気づく

宗教といえば信者さんがいるわけですが、信者というのは教祖や教壇のことを信じている人のことを言うわけですね。

信じなければ信者にはなれません。けれども、そこに信頼があるかどうかは全く別の話になるのです。

信じることと信頼することとは、ある意味次元が異なるくらいに違うものだと言ってもいいくらいなのです。

信じることはたやすいことです。なぜなら信じることで、もう思考停止状態になってその先のどんな検証も何もせずに済むからです。

自分に都合のいいことを言ったりやったりしてくれる人のことを私たちは信じてしまうのです。

だからこそ、その人が自分にとって都合の悪いことを言ったりしたりした場合には、あっという間にひっくり返って信じないと言う状態になるのです。

信じることと信じないことは、このようにしてコインの表と裏のように一対になっているのです。

それに対して、信頼はまるで別次元のようなものです。信頼には理由(思考)が必要ないのです。

都合の良し悪しも関係ないし、ただただ信頼するのです。だから自我からすると信頼は不思議なものに映るかもしれません。

どんな理由もないと言う点では、愛と同じようなものです。もしもこの生を信頼することができたら、一瞬にして全体が味方をしてくれていることに気づくようになるでしょうね。

自我を見守ると上手く行く

ちょうど5年前の2月1日に、突然ホームページが閲覧できなくなったことがあって、調べたら借りていたサーバーが使えなくなることを知らずにいたのです。

大慌てで別のサーバーを契約してホームページは閲覧できるようにしたのですが、アドレスが変わってしまったために皆さんからはホームページを探せなくなってしまったのです。

あんなことはもう二度と起こしたくないと思っていたのですが、今日ホームページの一部を改訂しようと思ってサーバーにアクセスしたところ、index ファイルが壊れてしまい、またもやホームページが閲覧できなくなってしまいました。

現在調査を依頼しているのですが、自分ではどうすることもできないのが何とももどかしいですね。おまけにコロナ禍で電話相談も不可。

考えてみると、2月の初旬はあまり良いことがないようです。22年前に癌の手術をしたのも2月7日でしたから。

私の自我の立場からすると、非常に嫌な感じが続いていて、きっと波動がずっしりと下がっているだろうなと思うのです。

こういう時こそ、自我をしっかり見守るという実践をして、その効果を実感する大切なチャンスだと思い直しているところです。

ホームページのトップのページからこのブログを読みにきて下さっている人は、ブログにもアクセスできないことになりますね。

ご面倒をおかけします…。

…と思ったら、ダメ元でipadにftpを入れて試して見たところ、復旧してくれました。助かった〜。