「分からない」ということが心の平和を生む

人生においては、物事を理解する、把握する、分かるようになるということが一つの重要なテーマとしてありますね。

それはきっと、分からないということが恐怖を生み出すことに直接的に繋がっていると思っているからなのかもしれません。

幼い子供は、迷子になれば大抵は泣きじゃくりだしますが、それもどこへ行けばいいのか分からない恐怖を感じるからですね。

逆に、分かっているということが一つの安心感に繋がるとも言えるわけです。けれども、分からないということそれ自体が恐怖であるかというと、実はそうでもないのです。

例えば、何も知らない赤ちゃんは、すぐそばに大蛇がトグロを巻いていても、大きなサソリが身体の上を這っていたとしても、何も怖がったりしません。

つまり、知らないことが怖さの直接の原因ではないのです。本当は、自己防衛、自分を護ろうとする気持ちこそが恐怖の原因なのです。

赤ちゃんには、まだ大人の私たちのようなエゴによる自己防衛が芽生えてないので、恐怖が少ないと言えるのです。

残念ながら、エゴを発達させて成人した私たちは、自分を護ろうとする必要以上の自己防衛を持ってしまうために、知らないことや分からないことが恐怖を生み出してしまうのです。

分からないことは、自己防衛にとっては確かに不利に働くはずだからです。私たちが、なかなか今この瞬間にい続けられないのは、それが一つの理由としてあるかもしれません。

過去から切り離された「今」というのは、本質的には何も分からない状態になるからです。何も分からない、何も知らないというのは自分を護ろうとする意志からすれば、とても危険な感じがしてしまうのです。

だから、これだけのことを自分は知っているよ、という過去にいつも生きていたいのです。けれども、何も分からない状態となってしまう「今」というのは、突き詰めれば自己防衛すら不可能だと気づきます。

それは恐怖を感じることさえも不可能にしてしまうはずです。万が一、感じたとしてもあっという間に消えていってしまうはずです。

なぜなら、今は常に瞬間瞬間新しい今を生み出し続けているので、いつも新鮮な状態でいられるからです。

瞑想中に、自分は何も分からないという「今」を体験しだすと、初めのうち何となく不安がやってくるかもしれませんが、そのうちには平和が訪れるのはこのためなんですね。

賢者は知覚の遅延がないはず

先日、人間の知覚には、最大で0.5秒の遅延が起きているということについて書きました。ただし、そのままだと不都合が起きて、とてもじゃないけど普通の生活ができなくなってしまいます。

そのために、実際にはアウェアネス(気づき)のレベルでは、自動的に0.5秒時間を前に戻すということをやっているそうです。

それで、つじつまが合うようにしているのです。本当に驚くべきことですね。ところで、では何でそれほどの長い時間が気づくために必要となるのかということを考えてみたいと思います。

奇跡のコースでは、私たちのやるべきことは、歪めてしまっている知覚の仕方を、聖霊の知覚のように正していくことだと伝えてくれています。

つまり、この0.5秒の間にあるがままの知覚情報を改ざんして、自分(エゴ)にとって都合のいいようにしているということです。そのための0.5秒だったということです。

生物学的には、きっと本能的な自己防衛の手段として使われているこうした機能を、エゴは異常に発達させてしまったのだろうと推測できます。

したがって、私たちが聖霊に明け渡すにしたがって、この0.5秒の遅延が徐々に必要なくなっていくはずだということになります。

そして、完全に明け渡されたとき、つまりエゴが消滅してしまったそのときには、知覚にまつわる0.5秒という遅延もなくなるのでしょうね。

脳神経科学者たちは、インドやその他の地に赴いて、覚醒した賢者を被験者にして詳細な実験をするべきだと思うのです。

きっと彼らだけは、0.5秒の遅延が起きないはずです。この知覚にまつわる実験によって、誰が本当の賢者なのかを見分けることができるということになりますね。

勿論、見分けることなどには何の意味もありませんが、誰もがあるがままを知覚することができない状態だということを科学的に明確化するということに価値があるように思います。

「私」の弱体化

先ほど、たまたまなのですが、YouTube で東京を上空からヘリコプターに乗って撮影した映像を見ていたら、それが沢山あって止まらなくなってしまいました。

その流れで、気がついたら UFO の映像を見出して、これまた止まらなくなって…。最近、本当にリアルでびっくりするような映像も沢山あるんですね。

実は、私自身も、つい3週間ほどまえに、クルマで自宅へ帰る途中に信号待ちしているときに、暗い夜空にとても怪しい物体を目撃してしまいました。

それは、片側がきれいな黄緑色で、もう片方がオレンジ色をした細長いもので、ス~っと下の方に流れていって、あっという間(たぶん2~3秒だった)に消えてしまいました。

自分がイメージしている、いわゆる UFO とは違う形だったので、その時には何だろうなというくらいで終わったのですが、その鮮やかな色が今でも脳裏に焼きついています。

暗い夜空にはまったく似つかわしくないものを見たなあという、そんな感覚なのですが、これまでそれほどはっきりとした目撃経験がなかったので、ちょっと嬉しいです。

けれども、一方ではまるで夢がないことを言うようですが、所詮自分の知覚に起こったことに過ぎないという認識でもあるのです。

不可解なものを見ても、あれは一体何だったんだろうと思うのは当然のことですが、それがいつまでも続かないのが、自分でも残念なことです。

要するに、どんな謎があろうと、それを謎だと思っている自分とは何なんだというところへ、結局行き着いてしまうのですね。

それ以上の謎など他には何もないわけですから。この謎の張本人である「私」が発生したのは、私の肉体的な誕生日ではなくて、それから数年が経過したころなはずです。

そして、「私」が死ぬのはきっと肉体の消滅よりも前になるだろうと思うようになりつつあります。「私」は少しずつ弱体化してきているのかなと思えば、思えなくもありません。

決意はやってくるもの

毎日の終わりに、その日一日の自分の行動を思い出して、どんなことをしたのか、どんな気持ちになって、何を選択したのかを追う作業をするようにしていました。

自分の外的な行動や内的な動きというものを、見つめるクセをつけてしまうと、この作業は意外と簡単なものとなるのです。

そして、単なる流れの中で自分が生活していることがほとんどだと気づかされます。それはもう、自分が主役というよりは流されて自動的に次々と物事が起きているということです。

そこには、自分独自の選択というものを見出すことはできません。けれども、ほんの少しだけ自分が決意して、次の行動を起こしたという感じがする場面もあります。

そこをよく見つめてみるうちに、自由意志による選択、決断て何だったっけ?という感覚になってしまったのです。

あれほど、自分は誰とも違う自分固有の意志を持っていて、自由に決意することができるはずだと思っていたのですが…。

今の感覚を素直に表現すると、あの選択がやってきた、あの決意が起こったというようにしか言えないということがわかったのです。

それは、例えて言えば「所有する」ということを当たり前の概念として、取り扱っていたものが、最近では所有という事実はないとしか言えないと分かったのに似ています。

所有とは、みんなで共有する「申し合わせ」に過ぎません。みんなで、示し合わせてこれはあなたのもの、あれは私のものと決めているだけです。

真に所有するとは、それと一つになる以外に方法はありません。したがって、この世界には真の所有というものはないということです。

それと同じようにして、自由意志による決意とは、そうした決意がやってきただけということになってしまいました。

どれほど重大な決断をしたとしても、それは単にそうした決断がやってきたということです。みなさんはどう思われますか?

理解から信頼へ

何か自分にとって、本当に大切なことを深く深く自分のモノにするためには、まず初めに理性によって理解することが必要となります。

それを本当には受け入れられなくても、否定的に思えたりしても、とにかく理解することができなければ、先へ進むことはできません。

しかし、頭で理解できたとしても、それを信用する必要はありませんし、むやみに信用することのないようにするべきです。

もっと言えば、信用せずに疑ってかかるということの方がいいのです。疑いを晴らすためにも、自分でそれを検証しようとする姿勢が大事なのです。

それを分析し、それを体験していく中で、少しずつ信頼を深めていくのです。信頼が一気に100%になることを期待しないことです。

焦らずにじっくりと腰を据えて、体験しながら検証を重ねていくのです。そして、自分の中でそれへの疑いがなくなっていけばいくほど、信頼が益々深くなっていきます。

そしてとうとう100%の信頼を得られるそのときに、検証し続けてきた主体である自己と、検証され続けてきた対象とが一つになるのです。

真実とはそういうものだと思います。一つになるということは、信用するかどうかという概念が消滅して、直接体験だけが在るということになるはずです。

完全なる信頼と、真の所有とは同じことを指しているのです。そこには、もはや主体と客体という関係は見当たりません。

もしも、「行為者はいない」ということに対して、上記のような検証をできる限りすすめていくことができたなら、きっと検証する行為者としての自己はいずれ消滅することになるのでしょうね。

観察と観照の違い

科学の基礎とは、人が対象を観察するということです。つまり、直接的であろうと間接的であろうと、人間の知覚による対象物への認識が基本なのです。

それに対して、観照というのは、非常に主観的なものであり、第三者からみた客観的な事実とは無関係であるということです。

したがって、観察と観照とはまったく似て非なるものであるということが言えます。科学で何かを証明するという場合には、観察による厳密な実験によって結果を導き出すのです。

この結果に対して、こう思うというような主観をできるだけ排除しなければなりません。一方で、観照は常に主観的なものであって、その正しさを証明することは不可能です。

観照には、観察のような主体と対象という関係はありません。つまり、観照している観照者はいないということです。

観照が起きているときには、観照される対象、つまりそれは現象ですが、その現象と観照とが一つになっているのです。

このような観照の感覚が分かれば、観照というときに、それが自分を客観的に見る、第三者的に観察する、ということとは全く違うということに気づくでしょう。

観照が起きているときには、自分と周囲の世界との境界というものが曖昧な感じがしてきます。これは、究極の主観は全体性と等しいということから説明できるのかもしれません。

観照とは、明け渡しでもあるのです。なぜなら、観照が起きるときには、過去や未来が消えてしまうからです。

今この瞬間にしか、観照は起きません。これは、過去や未来にのみ生きている「私」という名のエゴが消えている状態です。

言ってみれば、ありもしない過去や未来を、今この瞬間に明け渡しているということです。これこそが、本当の明け渡しです。

そして、この明け渡しは実際いつどんな場合にでも、一瞬の視点のシフトによって起こるのです。何とシンプルなことなのでしょう。

ニセモノを暴くには、ただ見ること

私たちは、大抵興味のないものは真面目に見ようとしないし、自分にとって都合の悪いようなものも、無視してしまう傾向を持っています。

そんなことは当然だし、どうということはないと誰もが思って、気にもかけていないというのが実情かもしれません。

誰だって、関心を寄せているものや人のことは、逆に言われなくてもじっと見つめてしまうものです。それでいいと思っているのです。

けれども、見ないで済まして来てしまったことによる影響というものが、過去から現在の自分に対して追ってくるのです。

なぜなら、無視してきたこと、見ないようにしてきたことというのは、いつまでもしっかりと見て欲しいという願いを込めて、見てもらうチャンスを狙っているからです。

自分は逃げているという自覚も、そんなつもりもないのですが、実は無視したということは間違いなくそこに恐怖があるのです。

自分に無視されたものというのは、ネガティブな感情だったり、ネガティブな感情を誘発されそうな外部の事象などです。

それらは、単にしっかり見てあげるだけで、追いかけてきて迷惑をかけるようなことはなくなります。見てあげれば、それは消滅してしまうからです。

それらはちょうど影のようなものだと思えばいいのです。見なかったばっかりに、ただつきまとって追ってくる影のようであり、見るために光を当てればすぐに消えてしまうのです。

それらに実体などあるはずもありません。つまりは、ニセモノだということです。ニセモノをニセモノだと見破るためには、ただ正面から見ることです。

それらから逃げようとしたり、闘って乗り越えようとしないことです。闘うと、ニセモノのくせに力をつけることになるのです。

あなたのすぐ背後にも、それは迫って来てませんか?ニセモノは所詮ニセモノであって、それには力などありません。しっかり見ることができた人にだけ、それは明白なのです。

いついかなるときでも、見ることはできます。ただ見るだけなのですから。それ以外の何もする必要もなく、しないほうがいいのです。

これが理解できれば、もっと気楽に生きれるはず!

セラピストの仕事をするようになって、それ以前よりもより一層強く感じるようになったことがあるのですが、それは私たちは誰もがみな無意識の操り人形だということでした。

それは例えば、明日は絶対に遅刻したくないと切実に思っていても、どういうわけか明日の朝になると、決まって遅刻してしまうといったことです。

こうした謎の言動というものは、その人の「無意識」によって、突き動かされているといって間違いありません。

無意識なので、表面化することがないために、本人は自覚することができないのです。したがって、あまりに深刻なものになるとセラピストの助けが必要となるのです。

気づいている表面意識の意志と、潜伏している無意識の意志とか合致している場合は問題ないのですが、意外にもかなりの頻度で互いに真逆である場合があるのです。

相手に優しく接したいと思っているのに、すぐに怒りをぶつけてしまうとか、やろうと思っていることをずるずると先延ばしにしたりとか、まったく反対の方向を向いているケースをいくらでも思いつくことができるはずです。

それが人間というものですね。まさに無意識にいいように翻弄されて、いいように突き動かされてしまうのが、我々のさがなのです。

ところで、私たちを強烈に動かす原動力である無意識は、自発的な意志を持っているのでしょうか?無意識の意志こそが、我々の本当の主人なのでしょうか?

実はそうではないのです。無意識は、ただ真の源泉からの情報を取り込んで、それに従って所定の処理を行う言わばコンピュータのようなものだと考えられます。

そして、その源泉こそが言わずと知れた、私たちの真の姿であるということです。つまり、

唯一の源泉(真の自己) → 70億個の無意識 → 70億個のアウェアネス(気づいている私)

という順番でシナリオが伝播していたということです。勿論、私たち一人ひとりは地球上のその70億個のうちの一個人というわけです。

ですから、この宇宙は源泉の一人天下なわけですから、我々人間は真の責任を持つことさえできないということです。それならもっと、人生を気楽に生きてもいいはずですね!

先に寝る派?それとも待ってる派?

サラリーマン時代が長かったのですが、その頃毎日のように深夜に帰宅するわけですが、当然奥さんは先に寝ていることが多かったです。

自分としてはそれは当たり前ですし、もしも起きて待っていたりされたら、逆に相当に困ってしまいますので、よかったのです。

けれども、人はいろいろなんですね。男性は、先に寝ていて欲しい人と、できれば寝ずに待っていてもらいたいと思う人がいるようです。

女性にしても、先に寝てしまえる人もいれば、何時になっても寝ずに待っているという人もいるということを知っています。

男性と女性の組み合わせが、うまく合致している場合はお互いに都合がいいのですが、その組み合わせが反対のペアだとひどい不満が発生することになります。

私の場合には、相手を待たせるということ自体が苦手の性分のようで、待ってられると思うだけで、いやな気持ちになってしまいます。

逆に、自分のことを思って待っていてもらえると、とても嬉しい感じがするという男性の気持ちも分からないではありません。

自分は受け止められているんだなという自覚を持てるので、二人の関係がうまく行っているように感じるのでしょうね。

待つ側の女性の気持ちにしても、愛する彼が遅くまで働いて帰ってくるのに、先に寝ては申し訳ないという気持ちを持っている人がいるのも分かります。

相手が帰宅するのを待って、少しでも会話をする時間を持ちたいという思いもあるのかもしれませんね。

いずれにしても、沢山の男女の組み合わせがあるわけで、その辺りがうまく行っている場合もあれば、ギクシャクしてしまうこともあるのでしょう。

どんな組み合わせにしても、二人が互いの気持ちを尊重しあって、うまくやっていって欲しいものです。そのためには、不満を隠さずに、相手に率直に言うようにするのがコツだと思います。

本当の自分とは何なんだ?

「本当はねえ、自分ていないんですよ~」と言うと、ほとんどの人がびっくりすると同時に、信用してはもらえないし、馬鹿にされるのがオチですね。

それはそうだと思います。この言い方では、随分と言葉が足りないんですね。もう少し丁寧に表現すれば、これが自分だと思っているような自分はいないということです。

これでもやっぱり、信じてはもらえないばかりか、拒絶されてしまうかもしれません。それは尤もなことで、人は自分が消滅することが一番怖いのですから。

自分がいないというのは、到底耐えられないことなわけです。だから、こうした話題というのはそもそもご法度なんですね。

でも、怖いのを一時脇へ置いておいて、冷静に考えてみるとそれほど理不尽なことでもないという気もしてくるものです。

それというのも、本質的なというか、本当の自分はいないと言われているわけではないからです。あなたという本質は消えることはできないということでもあるのですから。

あなたが単に、これが自分だと信じているだけなのだと言っても、いいや信じているのではなくて、れっきとした事実だと言い張るのが普通です。

けれども、真実は他にあると囁かれて、それを完全に無視したり、バカバカしいことだと決め付けるのは勿体無い話しだと思うのですが、いかがでしょうか?

ここで、人が二手に分かれてしまうように感じています。真実を知りたいという人と、そんなことよりも明日の幸せを手に入れることが大切だという人に。

しかし、真実を知りたいと願っている人だって、自分の幸せはどうでもいいなどと思っているわけではありません。

それどころか、真実を知ることによって、どうもがいても手に入れることができなかった真の幸福を得られるかもしれないという期待があるはずです。

話しが逸れてしまいましたが、とにかく本当の自己というものが消えてなくなるということはないということを前提にすれば、恐怖は減るはずです。

そして、これが自分だと信じ込んでいるとするなら、どのようにそうなったのかを見つめ返してみることが必要だと分かります。

それには、実はそれほど時間がかからないのです。それは、少しやってみれば感覚として分かるときが誰にでも来ます。

これが自分だと思っている自分を、とにかく疑ってかかってみることです。私は疑うのが大好きです。エゴはエゴによって、それ自身を暴くきっかけを作ることができるんです。