真実を少しだけ知ることはできない

夕べは久しぶりに両親と家内とで外食をして、帰宅してからしばらく4人で話し込んでいたのですが、ほんの少しだけこのブログで日々綴っているようなことを話してみたのです。

結果は、惨敗ですね(笑)。災害などが来そうだということで、不安な気持ちがあるらしいので、少しでもそれを解消してあげられたらと思ったのが間違いでした。

やはり、私たちの本当の姿について、どうやっても伝えることはできませんでした。家族が相手だと、お互いに甘えが入るせいか、とても難しいと感じます。

自己探求というのは、今まで培ってきた様々な知識の上に、また一つ大切なことを追加するということでは全くないのです。

真実とはそういうものではありません。あの人はピアノが得意だけど、この人は科学に詳しい、というような類のものでもありません。

真実に詳しい人など、この世界には一人もいません。真実のエキスパートだとか、真実を伝える人というのも本質的にはいません。

なぜなら、真実とは言葉で伝えることのできるようなモノではないからです。真実について、少しだけかじっているとか、あの人よりは知っているなどという比較も無意味です。

真実は全体性であって、部分的に理解するということはできないからです。人生の中で、真実を垣間見るチャンスというのは、きっと誰にでもやってくるはずです。

それは、お金持ちになるチャンスやノーベル賞を受けるチャンスがやってくるということとは、全く違うのです。

真実に気づくチャンスがやってきても、それに気づかずにいる人が沢山いるというのも事実かもしれませんが、それはそれでいいのだろうと思います。

そう考えると、家族は家族の生き方を自ら選んでいるわけだし、自分は自己探求に熱烈なエネルギーを持っているというだけなのですから。

誰がどんな人生をどう生きようと、それらすべてが真実という器の中で育まれて推移しているだけなのですから。

真実は決して学べない

私たちの人生を通して、一貫した一つのテーマとして、何かを手に入れるということがありますね。それは、必要なものだったり、欲しいものだったり…。

その中には、物質的なもののほかに、情報として学習していくことも含まれています。知らないことを知ろうとする人間の知識欲というのはすさまじいものがあります。

誰もがかつては、毎日学校で、来る日も来る日も授業を受け続けたことを思い出すと、何であそこまで詰め込むのかと言いたくなるほどです。

成人する前後まで学業を通して学習し、また家庭や学校の生活での経験から様々なことを学習して大人になっていくわけです。

知るということについては、ただ知識を身につけるというだけではなくて、物事を理解していくということにも重点が置かれるのです。

そうやって学習することは一生続いていくのですが、そのことは人間に与えられたすばらしい能力であることは間違いありません。

しかし、そうした日常があまりにも当たり前になってしまうことで、私たちはどんなことでも時間と労力と熱意によって学んでいくことができると思い込むようになるのです。

残念ながら、本当に大切なこと、それはつまり真実のことですが、それだけは決して学習することができないものなのです。

なぜなら、学習して身に着けるということは、それが対象として存在するということが前提なわけですが、真実とは決して何かの対象ではないからです。

私たちは衣服や肉体をまとうことはできますが、私たち自身をまとうことは決してできませんね。つまりは、真実とは私たちの真の姿であると言ってもいいのです。

真実とはこうだと教えてくれている文献、経典や聖典などは沢山あるのですが、そういうものを何百年学習しても真実を知ることはできません。

真実は決して学ぶことができないということを認めるには、もしかしたら勇気がいるかもしれません。なぜなら、私たちは自分たちの理解力で何とかしたいと思っているからです。

私たちは勇気を持って、知らないことを知ろうとする長年親しんだやり方を一時的に放棄する必要があるのです。

本当に大切なことは、手に入れることができないと同時に、身に着けることもできません。いつも最も身近にある本当の自分を取得することは不可能だからです。

そして、知らないという地点にただ何もせずにいることです。その時にこそ、きっと知らないのではなくて気づいていないだけだったと知ることになるはずです。

二種類の土台

私は二十二年間の会社員生活を途中でやめて、今の仕事に就いたわけですが、サラリーマンの頃は会社を辞めて独りで何か仕事ができたら夢のようだろうなと思っていました。

そしてその願望はどういうわけか、全面的に叶ってしまいました。そういう経緯を思い返すと、確かに今の生活は夢のようです。

ところが、どうしたわけか、最も望んでいた夢が叶ったのに、何とも心の底からの幸福感を感じることができませんでした。

それに気づいたときには愕然としたものです。それは、セラピストの仕事をするようになって、慣れない仕事に自分が馴染んできて、収入も充分なものになったときに気づいたのです。

何かがおかしいと。長年の願望が叶っただけではなくて、心の癒しも進めてきて、もう幸せいっぱいになるはずだったのに…。

自分に正直になると、そうでもないと言わざるを得ませんでした。これは本当に謎でした。それで、自分のやっている仕事にも疑問を感じるようになったのです。

結論から言うと、人は至福という土台と、苦悩という土台の二種類の足場のどちらかの上に立っているということに気づいたのです。

そして、その足場が苦悩という土台であるならば、人生の中でどんなに願望が叶おうが、それはやはり苦悩を感じて生きることになるのです。

願い事が次々と叶ったとしても、一般的な心の癒しをどれほど進めていったとしても、この土台が苦悩から至福へと変わらなければ、本質的には人生は同じものなのです。

従って、自分が今どちらの土台の上に立って生きているかをまず見極めることが大切です。そして、もしも苦悩という土台の上で生活しているのなら、それを変える必要があります。

このブログを読んで下さっているみなさんなら、もうお分かりかと思いますが、苦悩を至福という土台に変えるためには、自分の本質の姿に気づかねばなりません。

自分とは一体何なのかという真実に気づくことなしには、至福の土台の上に立つことは不可能だと知ることです。

そして、自分の本質に気づくことができれば、たとえ人生が過酷なものであろうと、痛みがたくさんやってこようと、土台としての至福は微動だにしません。

私たちが本当に求めているものとは、そうした至福という土台の上に立つことであり、それはなにものにも影響されない奥深い心の平安を手に入れることなのです。

今年こそは、努力することなしに、みなさんとご一緒に自己探求の年にしていきたいですね。

視点のシフトは画期的な変容をもたらす

私たちは、幼い頃から努力しただけ成果が出るし、そうすることにこそ人間としての価値があるということを教えられて育ちます。

確かにそれは大切な教えかもしれません。自分の願望を達成するために、それなりの努力を惜しまない生き方というのは、素晴らしいと思います。

しかし、どんなことでも常に努力をしなければ、何事も達成できないということに縛られてしまうと、楽をして手に入れることを否定することになってしまいます。

つまり、あまりにシンプルで簡単なことは、容易に実現してしまうので、あまり価値を見出すことができないということになるのです。

こういったことは、考えるということをベースにした信じ込みであるということに気づく必要があると思います。

人生において、本当に大切なことはたった一つ、自分は何者なのかということに気づくことです。間違った思い込みで自分というものを認識している限り、何を為し得たとしても結局意味がないからです。

本当の自分とは誰かということに気づくためには、実は努力など一つもいらないのです。もしかしたら、その気づきは神の恩寵によってもたらされるのかもしれません。

最も大切なことに気づくために、我々が慣れ親しんだ努力と時間を投資するということが、全く必要ないというのはなんと皮肉なことでしょう。

それはほんの一瞬のちょっとした視点のシフトによってもたらされるのです。この人生という物語の中で、前線部隊の兵隊のようにして生きてきた人にとって、それ以外の生き方があるという気づきはまさに青天の霹靂かもしれません。

しかし、本当の自分とはその人生の登場人物ではないのです。ただただ、そうした自分を見る側にいる自分、その視点があるということに気づくチャンスは必ずやってきます。

それに気づいたときに、人はどんな努力も必要としないで、ゆるやかに変容していくことができるのです。それは、まさに奇跡ですね。

それまで、どれだけ頑張ってよりよい自分になろうと頑張ってもどうにもならないままであったものが、ただ視点が変わっただけで変化は起きてくるのです。

そのチャンスは、きっと誰にでも訪れるはずです。多くの人に、そうしたチャンスがやってきているように感じるのです。本当にいい時代に生まれたと思います。

輪廻転生について一言

私はセラピストの仕事をするようになって、私の個人的な好みを別にしても、過去世を見たいという人向けに催眠療法を沢山やってきました。

その結果、人には現在の人生とは明らかに異なる人生、それも多くは過去における人生の記憶があるということが分かりました。

その記憶が本当のものだということを証明することはできないのですが、私自身の過去世の記憶も含めて、なんらかの過去の人生の記憶というものがあるということは間違いありません。

しかし、そのことと輪廻転生ということとは必ずしも同じものであるということにはならないというのが、私の個人的な見解です。

というのも、輪廻転生のベースには、魂というものの存在を認めなければならないからです。つまり、ある人が死んだ後、その人の魂が肉体から離れて、また別の肉体に宿るということを繰り返していくのが輪廻なわけです。

しかし、魂の定義の詳細は分かりませんが、個であることは確かです。この魂とあの魂という具合に、個別性があるのですから。

私の感覚では、純粋な意識が、とある肉体とそれを同一視することで、「私」という想念が作られるように思っているので、肉体が消滅すれば自ずと「私」という個別性も消えていくはずです。

肉体がなくなった後の個別性とはどんな意味があるのでしょうか?私には魂の存在する余地を考えることができないのです。

仮に、私の肉体が滅んだ後に、私という個別性が残っているとしても、私は身体がなければ自己防衛を続ける理由がまったくなくなるので、完全なる無防備の状態になれるはずです。

そうなると、自動的にエゴは消えうせて愛の状態に戻るため、個としての想念は完全に消え去ることになるはずです。(もっとも、肉体の消滅からエゴの消滅まで、若干の時間がかかることはあるかもしれませんが。)

だとしたら、過去世の記憶とは一体なんだろうかということになるのですが、私は個人的には次のように考えています。

この宇宙のすべてのシナリオの源には、あらゆる鉱物、植物、動物、そして過去から現在に至るあらゆる生の経験の記憶が詰まっています。

そのシナリオの一部として、ある人が生まれて人生がスタートするときに、膨大な生の記憶のいくつかがセットされるのではないかと。

それらの生の記憶がプリセットされると、新たな人生において何らかの影響を与えるように働くことになるのだろうと思うのです。

歴史上の有名な人物の生まれ変わりだという人が、同時に複数いることがあったりするのも、このように考えれば説明がつきます。

勿論、所詮は私の理性が考えていることなので、真実とは程遠いのは間違いないですが、いろいろな解釈を持っていてもいいのかなと思っています。

とにかく、私の肉体が消滅したら、この私にまつわるあらゆる一切合財が完全に消滅すると思いたいのです。魂はおろか、ほんの少しでも何かが残存するとは決して思いたくありません。

自由であるために必要なこと

今年に入ってすぐの事だったと思うのですが、オーム真理教元幹部の容疑者が自首して逮捕されるということがありましたね。

突然のことでその記事を見たときには、意外な感じがしました。どういういきさつで自首することになったのかは分かりませんが、逃亡生活17年(?)というのは大変な束縛だったはずです。

一見すると、捕まって留置場に入れられているよりは、自由があるんじゃないかという気がしますが、よく考えて見るとそんなことはないと分かります。

自由とか不自由、つまり束縛というのは物理的なこともさることながら、心理的な要因の方がはるかに大きいのではないかと思うからです。

監獄に入っているのは、外に出られないという点では束縛されていますが、何からも逃げずにいることができるという点では、圧倒的に心は自由なはずです。

そういう観点で見れば、私は逃亡生活ほど心に堪(こた)えるものはないのではないかと思います。常に捕まらないように注意を払っていなければならないのですから。

ところで、逃亡生活というのは、何も、逃げ続けている容疑者に特有のことではなく、私たち一般人であっても心理的逃亡を常にしている可能性があるのです。

一体何から逃亡しよう、あるいは逃亡しているのかと言えば、それは自分にとって恐ろしいもの、とても正視したくないようなもの、などです。

もしも、私たちが何からも逃げずに、日々何がやってこようとただそれをありのままに迎え入れることができるのなら、これほど自由な人生はないはずです。

実際、私たちが感じるあらゆる苦悩というのは、何かから逃げようとすることが原因であると言ってもいいのです。従って、自由である人とは、苦しみとは無縁なのです。

自由であるとは、あらゆる痛みに背を向けずにいること、傷ついてもいいという思いでどんなものにも対峙することでのみ、得られるものなのですね。

思考は意識ではない

誰しも物心ついた頃には、もうすでに自分は身体だと信じてしまっていたわけですから、この洗脳を払拭するのは大変だとの思い込みを持っています。

しかし、何かしらの目覚め体験をすると、一瞬にして自分と身体はまったく関係なかったと気づくものなのでしょうね。私はそういう体験をしたことがないので、分かりませんが…。

ところで、自分は身体ではないということが明確になったら、自分とは一体何なのだろうかと探求すれば、それはすぐに意識であるに違いないと分かります。

意識と身体では、まったくもって通ずるところがないですね。それなのに、その二つの認識が同時に私の心の中にあるということが今もって不思議でなりません。

ただし、この自分とは意識だという認識ですが、よ~く見つめてみると、どうも思考と混同しているようなところがあるかもしれないと気づきます。

ここは明確にしておかなければならないと思うのですが、意識と思考は全く異なるものですね。思考や感情と自分を同一視している人は、この辺りをざっくりと見ているふしがあります。

思考も感情も、意識の上にでっち上げられたものに過ぎません。ちょっと細かく言えば、思考は往々にして感情を発生させます。

思考について追い詰めていくと、思考の主な役目は自己防衛だということが分かります。したがって、その自己防衛の成功不成功に応じた感情が生まれることになるのです。

私たちは身体ではないばかりか、思考でも感情でもありません。意識の上に思考や感情が渦巻いている経験が豊富なために、思考や感情と意識を混同してしまうだけなのです。

思考も感情も伴わない状態でも当然意識はあります。その意識に注意を向けていると、それこそが全体性をもった私たちの本質であるということを感じることができます。

しかし、意識とは本当に謎ですね。この世界のことで、最も理解できないものの一つが意識であり、それこそが真の私たちの姿だというのも皮肉なものです。

死について真正面から見据える その2

昨日のブログを読み返していたら、関連することで少し書いて見たいことが出てきました。それは、自分は死を目前にしたときに、どんなふうになるのかなということです。

死ぬ理由はともかくとして、それまで生きてきた人生を振り返ったりするのだろうかと想像すると、そうした真面目な自分をイメージすることがイマイチできません。

よく、人は死ぬ直前に、過去を振り返って、もっとこうしておけばよかった、ああもしていればよかったと後悔すると言われます。

そして、そういうことがないように、毎日を精一杯生きるべきだと言われたりしますね。確かにだれも取り返しのつかないことを後悔するのはいやですから。

しかし、よくよく考えて見ると、死んでしまえばすべては終わりです。完全なる終焉です。これほどの真実はありません。

真実というのはいつも冷酷なまでに無情なのです。どれほど、もがいて抵抗しても絶対にどうしようもない終わりがやってくるのは何よりも確実です。

それならば、一体何を悔やむことがあるというのでしょうか?完全なる終焉という事実を心の底から迎え入れるなら、そこには何もないのではないかと思うのです。

それは、悔やもうが悔やまずにいようが、そんなことはぶっ飛んでしまうくらいの絶対的な終焉なわけですから、これほど小気味いいことはありません。

それこそ、何も残らないのです。きっと、そのときに自分は人生で何も所有していなかったということに気づくと思うのです。

ただ始まったものが終わりを迎えるということ、ただそれだけなんだなと思えるような気がします。それこそ何もない静寂に包まれているような、静かで安らかな気持ちになれるのかなと…。

そうだとしたら、それは肉体の死を待つことはないと分かります。そう、今この瞬間にもその気持ちになることはできるはずです。

あらゆるコントロールを放棄して、すべての終焉と同様に、精神活動を停止すればいいだけのことです。すべての闘争をやめて、ただあるがままに在ればいいのですね。
.

死について真正面から見据える

まだ娘が幼いころに、寝かしつけてしばらくしてから、寝たはずの彼女が起きてきて、泣きながら「お婆ちゃんが死んだらどうしよう?」と言って訴えてきたことが何度かありました。

寝ようとしているときに、ふと大好きなお婆ちゃんの死というものを意識して、ものすごく怖くなってしまったのだと思います。

私の母は当時いたって健康でしたので、なぜ娘がそのようなことを急に訴えてきたのか不思議な気がしたものです。

彼女の場合は、自分の死ではなくて大好きな人の死についての恐怖だったわけですが、それでも大切な人を失うという想像は、幼い子供にとっては自分の死と同等くらいの怖さを感じたのでしょうね。

私自身も小学生のときに、何となく死ぬということについてとりとめなく独りで考えていたら、何だか真っ暗な奈落の底に落ちていくような恐怖にかられたことがありました。

そのとき、母親に向かって「死んだらどうなるの?」と恐怖を露にしながら聞いたのですが、きっと顔面蒼白になっていたように覚えています。

母親は、自分の息子が何だか思い詰めたような態度で、真剣に死について聞いてきたので、「そんなこと考えなくていいの!」という言葉で包んでくれました。

本当はそんな言葉では勿論納得などしてないはずなのですが、何か母親に大丈夫だからと受け止めてもらえたような気がして、安心したのを記憶しています。

そのときの死に対する恐怖感が自然消滅したはずはありませんので、今でも心のどこかに隠し持っているのは確実です。

しかし、いくら捜してもそれを今見つけることは無理のようです。そのくらい、自分にとって二度と体験したくない感情だったということですね。

人はそのようにして、無意識的に死の恐怖を封印してしまうのです。よほど、身近に危険が迫ってくるような環境であれば別ですが…。

死ぬということにまつわる話題ですら、あまり人はいい顔をしないものですね。本質的には、私たちの誰もが死と隣り合わせの生を生きているというのに。

生きることと、死ぬことを同じくらいに意識の中で位置づけておかなければ、それは本当に生を楽しむことのできない人生になってしまうと思います。

なぜなら、それはやはりご都合主義だからです。都合のいいことも悪いことも、それらを丸ごと同じようにして受け止めることでしか、自由を得ることはできないのです。

本当の自由は、何事からも目を背けずにいることができなければ、すぐにどこかへ行ってしまいます。エゴの自己防衛こそが、自分を束縛する根本原因だからです。

肉体を自分だと思っている個人としての自分が死ぬ前に、是非とも本質の自分への気づきと共に、「私」という想念の死を迎えたいと思っています。

誰もが自分という意識

昨日、空いた時間に何とはなしに自分以外の人がいるって何だろうと思っていたら、ふとある考えが浮かんできたのです。

そのことについて、書いてみようと思うのですが、文章表現能力の問題でまったく意味不明になるか、あるいは当たり前過ぎる内容になってしまうかもしれません。

それでも誤解を恐れずにチャレンジしてみようと思います。突然ですが、輪廻転生があるとしたら、過去生における自分という存在がいたわけです。

その過去生の自分と今の自分とは、DNAも違えば育った環境も違うし、何一つ共通であることはないはずなのに、それでも自分だとどうして言えるのか。

沢山の過去生があって、沢山のそれぞれの人生での自分がいて、互いに時間がずれているために同時には生きていなかったということです。

だとしたら、なぜ今同時に生きている自分以外の70億の人たちだけは、他人だということが言えるのでしょうか?

いや、言えないのではないかと思うのです。なぜなら、今生きている他人と自分の違いとは、やはりDNAや育った環境が違うという点で、過去生の自分と同じわけですから。

誰かと自分の違いとは、肉体、つまりDNAの違いと育った環境の違いによる体験の違いであって、意識そのものにはバリエーションなどないと思うのです。

意識そのものに一体どんな違いがあるというのでしょうか?意識とは何かということがまったく謎に包まれている以上、本当のことはわかりませんが、それでも直感的に意識は意識でしかないと感じます。

ただ、その意識が肉体とその体験というバリエーションと手を繋いだときに、違う人間だということになるだけなのではないかと。

自分のことを身体ではなく、意識だといつも見ているためにこのような感覚がやってきたのではないかと思います。

意識とは、思考や感情ではなく、そうしたものが現れては消えていく土台なのです。その土台である意識は、きっと70億人を串刺しにして貫いているものなんだろうと。

誰もが同じ自分という意識なのだということですね。