イルカに感動

先日テレビを見ていたら、イルカがこんなことをして人命救助に大変な貢献をしているという番組をやっていました。

ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?人命救助ができるといっても、いくら賢いイルカだからといっても高々知れたものだろうと思っていました。

しかし、内容を見て正直ちょっと感動して涙さえ滲みました。イルカはソナーといって音波を発信してその反射波を検地することで遠くにある物体でもその存在を確認できる能力を元々持っています。

これは釣りなどでつかう魚群探知機と同じ原理のものです。肉眼で見ることができない場所にある物体を認識するための装置です。

以前、ネス湖に生息していると噂されているネッシーの存在を船の上から調べようとして、そうした探知機で調べた人たちのことも知っています。

話はそれましたが、その番組で紹介していたのは、そうしたイルカの能力をフルに活用して、海底に沈んでいる目には見えない無数の地雷を撤去しようという作戦なのです。

そのために特別に訓練を受けたイルカを海底に調査に行かせるのです。そして、もしも地雷を発見したならイルカは船に戻ってきて地雷を見つけたとサインで知らせてくれます。

それを受けて、乗組員がイルカにブイのようなものをからだにつけて再度潜らせます。イルカは地雷のある場所まで泳いでいって、その場所に持っていったブイを置いて戻ってくるのです。

こんなことをイルカにやってもらおうと思い立った人もすばらしいですが、それを見事にやってのけるイルカって、何なのだろうと本当に感動しました。

しかもイルカは(私の主観も入っていますが)、そうした作業を嬉々としてやってくれているように思えたのです。私の独りよがりかもしれませんが、イルカの純粋な愛を感じました。

沢山の本音 その2

少し前に、元々人の心のなかには複数の互いに相容れないような本音というものがあるんだというお話しをしました。

そして、その複数の本音を無理やり一つに絞る事自体が無理なことなのだと知ることがとても大切なことだともいいました。

それは例えて言えば、複数の人が集まって一つの議題について意見を出し合うようなときのことを想像すれば明らかです。

勿論全員の意見や気持ちが一致して一つにまとまることができたらそれは一番いいでしょうが、現実には人それぞれ違う考え方を持っているのが普通です。

それでも会議の結果、ある一つの結論を出さねばならないとしたら、実際にはいくつかあるうちの一つの方法を選ぶことで最終結論を導き出すことになるはずです。

しかし、どんな方法であろうと、共通して必要なことは、まず充分にみんなで議論を重ね、つまり互いに納得行くまで各々が自分の言いたいことをみんなに伝えることですね。

聴いてもらいたい気持ちをそのままにせずに、どんな意見であってもとりあえず全員が全員の発言に耳を傾けるのです。

そして最後に、最終的な結論を導き出す方法を選択します。多数決で結論をだすのか、すべてを総合的に判断して結論を出す責任者に任せるのか、いろいろな方法があるはずです。

そうしたことと全く同じように、自分の心の中で複数の人がいて、それぞれの本音を持っているわけですから、とにかく全員の本心を聞くことが大切なわけです。

それをせずに、短絡的に一番発言力のある人の意見をそのまま自分の唯一の本音だとしてしまったりすると、あとで遺恨を残すことになってしまいます。

無理に自分の本心はこうだと決め付けるのではなく、なるべく多くの心のそれぞれの声を拾い上げて聴いてあげることです。

そういうことを繰り返して習慣にしていくことで、そうした聞き役の自分というものが成長するのです。そうなると、自分の心の中には沢山の本音があって、それは当然のことなんだなという気持ちが出来上がるのです。

どんな自分の気持ちや感情もすぐに責めたりしなくなっていきます。そうやって自責の念から少しずつ開放されていくことができるのです。

それと同時に、後々こうすればよかったというような後悔の気持ちを持つことも少なくなるはずです。是非、聞き役の自分を育てるように日々気をつけて生活してみてください。

自責の念

クライアントさんとお話ししていると、時々どうしてそれほどご自分を責めるのだろうと思うことがあります。伺っていると、どんな些細なことでも自責の気持ちに変えてしまっているように感じてしまうのです。

幼い頃から親や周りの大人から教わってきた、人はこうあるべきというルールに照らし合わせて自分を裁くのでしょうが、それが驚くほど多岐に渡っているのです。

そして決して容赦をしません。もしもその人が裁判員制度の裁判員として選ばれて、裁判で自分自身を裁くとしたら、世界一厳しい罰を与えるでしょうね。

自分のこういうところが最低なのだという話しをじっくり聞いたうえで、それと全く同じようなたとえ話を第三者から聞いたらどんなふうに感じるかを聞くと、ものすごくやさしい思いやりのあるコメントを言ってくれます。

そのくせ、自分のこととなると鬼のような厳しい態度で自分を責めるのです。その違いのことをいくら指摘しても一向に分かろうとはしてくれません。

こうなってくると、何が何でも自分の事を責め続けていなければならないような事情でもあるのではないかと感じてしまいます。

自分を責め続けるメリットとは一体どんなものなのでしょうか?一番分かりやすいのは、本当は誰かを思い切り責めている自分の本心を隠す効果があるというものです。

わき目も振らずに一心に自分を責めていると、誰かを憎んだり恨んだりしている見たくない自分の本心に気づかずにいることができるのです。

自分が悪いんだという気持ちは、外側へ向かう怒りを抑える力があるからです。つまり、自分のことをいつも責め続けている人は、誰かに対する激しい怒りや憎しみを隠し持っているということになります。

もしも自責の念が沢山あると自覚している場合には、その奥に隠された本当の怒りについて感じてみることがとても大きな癒しのきっかけになるはずです。

見捨てられる恐怖 その7

見捨てられる恐怖を味わいたくないがために、快不快だけで生きているような素の自分をないものにしようとします。

無邪気な自分、人の都合を考えずに自分の好き嫌いのままに生きようとする自分を危険因子とみなすわけです。

そんな自分の言う事を少しでも聞いてしまったら、必ず見捨てられて自分は暗黒の孤独の中に放り込まれて独りで死んでいくことになってしまいます。

そうならないように、その危険因子を心の中から抹殺しようとして、深くて暗いところへと押し込めてしまうのです。そこは光の当たらない真っ暗な海の底のような場所かもしれません。

沈めただけでは飽き足らず、手足を鎖でがんじがらめにして文字通り身動きができないようにしてしまうのです。

その上で、自分の人生の目標を見捨てられないでいられることに置いて、こうするべき、こうしなければならない、というルールの中で生きていくことになるのです。

しばらくして、その危険因子を海の底に沈めたことなど忘れてしまい、表面的に見捨てられないように生きる自分こそが本当の自分だと自分を騙して生きていくのです。

しかし、そんな生き方がいつまでも何の問題もないまま続くわけがありません。隠したものは必ず何らかの形で暴露されることになるのが人生のおきてです。

本能のままのような自分の願いや思いがいずれは表面に上がってきて、今の自分の人生の邪魔をするようになっていきます。

その時に初めて、自分の人生は何かがおかしいと気づくことになるのです。それが心を癒していくきっかけになるのかもしれません。

自分の心に湧き上がってくるどんな感情や思いにも、しっかりと目を向けて拾い上げて受け止めてあげることです。そうすることで、隠された自分の本心に気づくことができます。

そしてそれを認めることで、犠牲を強いてきたそれまでの人生から、自分や人への愛で生きる新しい人生へと変えていくことができるのです。

見捨てられる恐怖 その6

見捨てられる恐怖を強く内在していると、相手の期待に応えようとする人生になるという話しは以前にしました。

それは一般的に誰であれできることなら相手の期待に応えたいと思うものですが、そのレベルが尋常ではないのです。

どんなことがあっても、どんな犠牲を強いようとも、何とかして期待に応えなければと頑張るということです。

ところが、本人は自分が想定していることが間違いなく相手の期待に沿うものであるという勝手な思い込みに基づいているということに気づきません。

こうすることが相手の期待に沿うものだという判断は、実は数十年前の幼児の頃の親の気持ちに沿うのはこうだからという前提から導いているに過ぎません。

そんな昔の、しかも特定の人、母親や父親が相手の場合に作り上げたルールを基にしているのですから、大人の現在の自分の環境ではそのまま使えるとは限らないのです。

しかし本人はそんなことはおかまいなしに、きっとこれが相手の期待に応えられるやり方なんだとの独りよがりを貫こうとしてしまいます。

結局それは、相手にとっての本当に期待通りのものではないのですが、本人にはそれが分かりません。

ですから、相手に何でそんなことするの?と不満を言われたら、びっくりしてしまうのです。それだけでなく、大抵の場合には怒りがこみ上げてきます。

なぜなら、誠心誠意相手の意向に沿うようにとがんばった結果が不満を言われてしまうわけですから、これ以上どうすればいいのという気持ちになるからです。

そうやって自分一人で悪循環の中で困り果ててしまうのです。相手の本当の気持ちはその都度聞かなければ分からないし、聞いたとしてもその答えが相手の本心かどうかも分かりません。

結局、相手の期待通りに行動することは不可能であるということです。一番勘違いするのは、相手がありのままの姿を見せて欲しいと願っているということに気づかないことです。

いくら相手がそう言ってもその言葉を信じられないのです。子供の時に作ったデータベースにはそんなことは一言も書いてないからです。

自分は相手の期待に応える必要はないと分かることがとても大切です。その先にこそ、本当の意味で相手への献身という愛を与えるという幸せが待っているのです。

見捨てられる恐怖 その5

見捨てられる恐怖の強い人のバリエーションとして、他人を人とは思わないようにするというものがあります。

こうして言葉で書くとどうも理解しにくいかもしれませんが、要するに生身の人であって人でないというような勝手な作りこみをしている場合があるのです。

人でなければ何なのかと言っても、これといった言葉でうまく表現するのは難しいですが、例えば人の形をした張りぼてとか、マネキン人形とか、そういった類のものをイメージしたりしているということです。

どうしてそうなるのかというと、相手が生身の人間であるということを認めてしまうと、周りの人たちに自分がいつなんどき見捨てられてしまうかということをずっと気にしながら生活していかなければならないからです。

それは本当に骨の折れる、気苦労の絶えない毎日になってしまいます。ところが、この人であって人でないという作りこみはある意味見捨てられる恐れから開放されるのです。

そうした自己防衛の仕方を合理化と呼んだりもします。客観的にみたらこんな馬鹿馬鹿しいことはないのですが、自分の中では理屈は合っているのです。

そうしておいて何も疑問を感じずに生活していくのです。何かの拍子に気づきそうになったとしても、それはすぐに却下してしまいまた周りは人形だという作りこみに戻ることができます。

もしもそのことを誰かに指摘されたとしても、簡単にはそれを認めようとはしないはずです。本人がそのことから逃げずに、じっくり向き合うことができれば合理化に気づくことができます。

気づくことで癒しは進むのですが、気持ちとしては見捨てられ感が表立ってくることによって、本人はかえって辛くなってしまう場合もあるかもしれません。

それでも、その恐怖感から逃げずに少しずつでも向き合って繰り返し体験することで、見捨てられる事はないという自信が育っていくのです。

見捨てられる恐怖 その4

見捨てられる恐怖を強く持っていると、それがあまりにも恐ろしいために、どんな手段を使ってもそれを感じないようにしようとしてしまいます。

それがひどい自己犠牲の蓄積につながることは何度もこのブログで説明させていただいている通りです。

そういった毎日を送ってしまうと、ふと気がついたときに自分は一体何のためにこうして生きているんだろうかと思うことになるかもしれません。

なぜなら、その恐怖を避けるためにあらゆる我慢や努力を繰り返してしまうからです。そうすると人の心は、いくら隠したところで必ず本当の自分が文句を言ってくるのです。

本心をしっかりと抑圧して全く気づかないようにしていられる間はいいのですが、ちょっとしたきっかけで心の奥深くに隠していた本心が顔を出すと、大変なことになってしまいます。

気持ちがどーんと沈んで立ち上がれなくなってしまったり、あまりの虚しい感覚にどうしようもなくなってしまうこともあります。

長い間作り上げたニセモノの自分を生きてきてしまったために、オリジナルの自分が顔を出した途端にどうしていいか分からなくなってしまうのです。

見捨てられてしまったら大変なことになる、生きてはいられないかもしれないという恐怖を持っているのは幼かったときのあの自分なのです。

ですから、現在の大人の自分は仮に人に嫌われてしまったとしても、実際どうなるわけでもないということを知っているのです。

そのことを恐怖におののく幼い自分の意識に教えてあげることです。そして、今まで抑圧してきてしまった幼い本心に対して、気持ちや感情や思いといったものをできるだけ聞いて受け止めてあげることです。

それを繰り返し続けていくことで、恐れは徐々に減っていくものです。そうすると、恐れと向き合いたくないばっかりに目をそむけていた自分の本当の気持ちに正直に生きていくようになります。

それはきっととても清清しい気持ちなはずです。

不確かな記憶

日々のセッションでは、クライアントさんの心の奥に抑圧された幼いころの様々な感情や思い違いによる苦悩などに気づいていただくために催眠療法などを試みます。

その場合、クライアントさんによって幼い自分のその時の記憶を明確に覚えていることもあれば、あやふやではっきりしないような事もあります。

また、思い出すことができなくて、ただ自分の中にあるイメージのような類のものだけしか出てこないということもあります。

昔に見たことがある写真のワンシーンが思い出されてみたり、自分では辻褄が合わないような思い出し方をすることもかなりあるのです。

例えば、思い出しながら、この年齢の自分はこの家にはまだ引っ越してきてないはずなのだけどとか、自分と兄弟などの年齢の差が現実とは合わないということもあります。

生まれてすぐの赤ちゃんのときの記憶が出てきたとしても、もしかするといつか親などから聞いたことのある内容が映像化されて記憶としてしまわれただけのものかもしれません。

実は人間の記憶というのは私達が通常考えているよりもかなりいい加減なものだということです。それなら、思い出したことを元にしてセッションをする意味がないのではないかと思われるかもしれません。

しかし、記憶の正確さというものはセラピーにおいてはあまり重要なことではないのです。言葉を変えると、実際に起きた事かどうかということには大して意味はないのです。

もしも全く事実としては起きてなかったことであったとしても、本人の心の中に記憶として印象深くそのことが残っていれば、それは癒しの対象になるということです。

ですから、セラピーはクライアントさんの記憶を頼りに進めていくようでいて、実はそれが事実と符合するかどうかはどうでもいいのです。

だからこそ、不確かな記憶を使っても問題なく癒しを行っていくことができるのです。ご本人の妄想であっても、単なるイメージであってもどんなものでもそれが本人の心から発生したものであれば、正しい記憶と同じように癒しのネタとして使うことができるのです。

ですので、今後セッションを受けてみようかと思われている方で、自分の記憶に自信がなくてどうしようかと思っていらっしゃる場合は、何も気にせずにセッションにいらして下さいね。

沢山の本音

セッションでクライアントさんとお話ししていて、よく聞く言葉が「自分の本音が分からなくなってしまっている」というものです。

例えば、自分は○○さんのことを大好きなはずなのに、急に嫌いな気持ちが出てきてしまったりして、このまま結婚してしまっていいものかどうか悩んでいるというような場合があります。

また、ある人に相談してなるほどと納得できたはずなのに、別の人から真逆のことを指摘されたら今度はそれが正しいような気持ちになってしまったというようなこともありますね。

そんな時、自分の本当の本心が知りたいと思ってしまうものです。そういった場合、私がいつも思うのは、一つの心の中に本心、本音は沢山あるということです。

そしてその複数の本音は互いに正反対の主張をし合っている場合だって充分あるのです。というよりも、人の心とは右に行きたいと思えばどこかで左へ行きたいという反対の意見が必ずあると思った方がいいくらいなのです。

本音を一つに絞ること自体が無理なことだと知ることはとても大切なことです。同時にいくつかの異なる本心に気づいている場合もありますし、ある事象が起きた事で隠れていた本音に気がついてしまうということもあります。

実は自覚している気持ちとは真反対の本音を隠し持っているということが沢山あります。それは、人は自分に都合の悪い本音を隠すという習性があるからです。

見たくない、知りたくない、いやな気持ちや本心といったものを隠しておいて、それだけでは飽き足らずにそれとは反対のニセモノの気持ちを作ってそれを信じてしまうのです。

そして、それを自分の本当の気持ち、本音だとして生活することになるのです。何事もなければそれが作り上げられた本音だと気づくことはありません。

しかし、何かきっかけがあると隠した本音が表面に上がってきてそれを自覚した瞬間にびっくりするということになるのです。

少なくとも自覚のできる範囲でも二つ以上の気持ちがあるのでしたら、そのすべてが本音なんだと思ってその一つひとつを解釈せずにじっくり味わってみることです。

偏った見方をせずに公平に感じてみることです。そうすると、一つに絞られるというよりも、一つをしっかりとした気持ちで選択できるようになります。

そしてまた、気持ちが変わってしまうことをそんなにいけないことだと思う必要もないと理解することも大切なことだと思います。

手放す事の意味

セッションや講座で、この手放すという言葉をよく使います。ぎゅっと握り締めている手を緩めて、手を放すという動作を意味しますが、精神的な意味で使えば握り締めている執着を取るということですね。

私達は何かに執着して、それにすがりついていると一時の安心を得ることができるのですが、裏を返すともしそれにすがりつけなくなったら大変なことになると分かっているのです。

だからこその執着心なわけです。従ってそれは恐れの感情がベースになっているということが分かります。

愛着という言葉がありますが、それはこの執着心をうまく修飾してオブラートに包んだ表現に変えているだけで、言ってみれば程度の軽い執着であるとも表現できます。

ではなぜ癒しにおいて、この手放すということがとても重要なことになるのかというと、それは執着し続けようとすることで大変な自己犠牲を払ってしまうからです。

あの人に絶対に捨てられたくないというしがみつきが、相手のいいなりになったりお金を貢いだりするようなことになったりするわけです。

従って執着を手放せばおのずとそうした犠牲を背負わなくて済むようになるのです。しかし、元々どうしてもそれが必要と思っているものを手放すのは至難の技ですね。

つまり、手放すためには執着する原因を突き止める必要があるのです。もしも、その原因を知ることなく無理やり手放したとしても、それはまた次の執着のターゲットを探すことになってしまいます。

それでは何も解決したことにはなりませんね。 執着の根本原因を見出して、それを認めて味わって開放することがどうしても必要なのです。手放すとはそういうことです。