これはペンです

日本語で、「これはペンです」というのを英語で表現すると、This is a pen. と言う場合と、This is the pen. というのがありますね。

This is a pen. の方は、これはペンというものだとか、これは沢山世の中にペンというものがあるが、その中の一つだというニュアンスがあります。

それに対して、This is the pen. と言った場合には、これがそのペンです、これは私が前から気に入って使っているペンだとか、先ほど話題に出ていたそのペンです、のような特定の一本のペンのことを指すという意味あいがありますね。

どちらの場合にしても、これはペンですという場合にはもう一つの隠れた意味が含まれているのです。それは、これはペン以外の何物でもない、というものです。

この私がこれはペンですと主張している裏には、ペン以外の消しゴムや定規などではないという主張も込められています。

つまり、ペンだという肯定と同時にペン以外ではないという否定も一緒に併せ持っているということなのです。

ここで主張が込められていると言われても、そんなことはない、客観的事実としてペンだろうと思われるかもしれませんね。

しかし、ここには大変な思い込みというものがあります。人は自分と同じ知覚を持っているのだから、自分と同じ解釈、判断をするに違いないというものです。

これは私の知覚ではペンのように思えるが、あなたがどう判断するかは分からない、などと言わないし、そんなことをいちいち確認しようとも思ってないわけです。

従って、これはペンだと主張したときに、それはペンではないと主張されたりすると、相手を否定したくなるのです。その心の裏には相手もペンだと主張するに違いないという期待が隠されているからです。

ペン以外の何物でもないと言うはずの相手が、ペン以外のものだと言うのですから、このままでは自分の心が矛盾してしまうため、相手の主張を却下することになります。

これが自立しているようでいて、その実自立できてない人間の本当の心の姿なのです。一般的な常識に照らしてみたら、確かにこれはペンですということには概ね食い違いは生じないでしょう。

しかし、この色が好きだとか、このクルマは嫌いだとかいうような個人的な好みや物事の考え方などの範疇においては、人によって自分と相手の違いを受け入れられない人が増えてきます。

自立できてない、つまり分離を認められてない度合いが大きければ大きいほど、依存が強くなると同時に、自分と相手の分離が曖昧であるために個々人の違いを認められないのです。

みなさんは、自分の心の世界とは違う相手のワールドをどのくらい認めることができますか?そうした明確な分離というものを認められて初めて、分離を手放していくという新たな癒しの道が待っているように思います。

諦めること

私達はいくら必死に望んでも、どんなに強く願っても、どうしても叶わないことについては諦めるという心の状態になります。

好きで好きでたまらない相手から交際を断られたら、絶望的な気持ちになってしまうかもしれませんが、最終的には諦めるしかないですね。

誰の人生であろうとも、何でも思い通りになるということはあり得ないわけで、必ず生きていれば諦めなければならない経験を何度となくするわけです。

場合によっては、どうしても諦めがつかないという体験をすることもあるかもしれません。そういう場合は、諦めがつくまで本当に辛い思いをするはずです。

本人の自覚としては、もう諦めたよと思っている場合でも、実は次の二つのケースがあるのです。一つ目は、願いが叶わないということを認めることができた場合です。

これは、そのことにもう未練が残ってない状態であって、これが本当の意味で諦めがついたということなのです。

この場合は、もうくよくよ悩むことからは開放されて、気持ちは案外すがすがしい感じになれるものです。諦めたという言葉よりも、ふっきれたとか、どうでもいいことになったというニュアンスかもしれません。

そして二つ目の場合ですが、これがいろいろと問題を引き起こす原因となるのですが、諦めたつもりでいて、その実、諦められないという本心を抑圧している場合です。

本人の自覚としては諦めたつもりになっていますので、諦め切れなくて苦しいという感覚はなくなります。しかし、心の奥には諦めていないという執着が燻っているわけです。

本人が諦めたと言っても、大抵の場合がこのケースであるのです。この場合の方が諦めたという言葉を使うようです。

ですので、私は諦めたと本人が表現している間は、諦めていないんだなと思うようにしています。勿論100%そうではないですが。

この隠された諦めてない本心は、それを本人に知らせたくてそれ以降の人生においてさまざまなネガティブな現実を引き起こすのです。

どうしてもこの人と結婚したいと思っていた人に断られて、自分はもう完全に諦めたつもりになって、また他の素敵な人を探そうと思っても、いつまでたっても別の人を好きになれないような場合、心の奥ではもしかするとその人のことを諦めきれずにいるのかもしれません。

そのことがブレーキとなって、新たな恋人を作れないでいるということもあるわけです。このように、思ったように人生が進まないなと感じることがあれば、次のようにしてみることです。

自分が今までに諦めてきたと思っているものを一つひとつ洗い出してみて、さて本当に心の底から諦めているのだろうかと疑ってみるのです。

そうやって、うまくすると気づかずにいた過去の執着に気づいて、それを手放すことができたら人生のブレーキが解除されるかもしれません。

頑張り屋さん

世の中にはどうしてそこまで頑張るの?という人がいますね。何でも全力でぶつかって行くというのは、とてもすばらしい生き方だと感じます。

こういう人はどんな仕事に就いても、また何をしても相当にすばらしい成果を出すことができるでしょうし、みんなから賞賛されることにもなります。

オリンピックで金メダルを獲る人、会社で多くの並外れた貢献をする人、一生懸命相手に尽くす人、環境は違えどそういった人たちは大抵充実した人生を送っているように思われます。

しかし、頑張ることで自分が本当に情熱をかけてその過程を心のどこかで楽しんでいるというような能動的な場合はいいのですが、頑張らざるを得ないという心の状態の場合には問題があります。

端から見ているとその違いをあまりはっきりと判別することはできないかもしれません。なぜなら、それは目には見えない本人の意識の問題だからです。

もしも、頑張る目的が、何かそれによって困っていることが解決するかもしれないというような場合には、その作業を本当には楽しむことはできません。

親を喜ばせるため、人に褒めてもらうため、認めてもらうため、お金を儲けるため、寂しさを紛らわすため、こういった受動的な目的のために頑張るのでしたら必ず自己犠牲を伴ってしまいます。

つまり頑張らなければ先行き真っ暗なことになってしまうと感じる場合には、本人が気づいていようといまいとそれは脅迫的な要素が含まれているということになるわけです。

そういう場合には、大抵が少し頑張ることを緩めようかなと思っても、自分で自分をコントロールすることができなくなっているはずです。

こうなると、その頑張りによる自己犠牲がいずれはあだとなり、なんらかの形のつけとなって人生を悪化させてしまうことになります。

自分が頑張り屋さんだという自覚がある人、あるいは自覚がなくてもそういったことを人から言われた経験がある人は、自分のそうした行動を一度は疑ってみることをお勧めします。

そして、もしも自分は頑張ることで精神的にも肉体的にも消耗してしまっているという感じがあるのでしたら、人生を立ち止まってしっかり心の癒しをすることです。

翻訳本が出版されない功罪

「奇跡のコース」という本を読むことをライフワークにしているのですが、残念ながらまだ正式な翻訳本が出版されていません。

原文は英語なのですが、もうすでに各国語に翻訳されたものが全世界的に出版されているそうなのですが、どういうわけか日本ではいまだにそれが実現していないのです。

ただこれこそ奇跡的なのですが、ある人が自力で日本語訳したものがあって、それを手に入れて勉強会でも個人でも利用して読み進めています。

しかし、各国から遅れて日本語版だけが未だに出版されていないことをただ残念がるだけよりも、そのことの功罪というのがあるということに気づきました。

まず困ったこととしては、当然のこととして日本語の本が出版されていないのですから、日本での認知度が上がらないということです。

本屋さんに行って誰もが普通に手にとってパラパラとページをめくって見ることもできません。出版社さんも、英語版だけでは商売として期待することは不可能に近いはずですから、販売促進などに力を入れることもできません。

いわゆる市場性ゼロなわけです。ごく限られたある種マニアックな人たちだけが原書を買うのでしょう。しかし、私の個人的なレベルでは功罪の功の方が勝っているのです。

何と理想的な環境にあるのだろうと最近つくづく思えるようになりました。まず、個人翻訳された日本語の文章も英語の原文もどちらもネット上で見ることができます。

つまり、ファイル化されているということですね。これは一般的な本についてはあり得ないことです。ファイルになっているということは、必要に応じてプリントアウトすることもできますし、パソコンの画面上で読むことも可能です。

単語の検索もできるし、カット&ペーストでいかようにも編集することが可能です。また日本語と英語を同時に見ながら作業することもできるのです。こんな便利な環境は出版されている本ではあり得ないことです。

そして最後に、最大のメリットは、個人翻訳されたものを読んでいるために、ある種この翻訳は正しいのだろうかといういい意味での疑いの目を持ちながら読むのです。

そのために、少しでも意味が分からない部分についてはすぐに英語の原書でその意味を確認するという読み方になったのです。

英語が初めから得意な人は原書で読めばいいのでしょうけれど、そうでない私はもしも正式な日本語の本が手元にあったとしたら、原書を読むということはなかったかもしれません。

こうした読み方を繰り返していると、ただ日本語の文章を読むことに比べて自動的により深い読み方ができるのです。

そういうことを総合して考えてみると、今自分に与えられている環境は恐ろしいくらいに理想的だということが分かります。本当に感謝ですね。

七転び八起き

このブログでも今までに何度もお伝えしてきたことですが、我々の意識というのは100%がエゴなのです。エゴは本当の愛を知りません。

何と過激なことを書いているのかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、我々が愛だと思っているものは、実はエゴが勝手に作った言わばニセモノの愛なのです。

自分と相手は別の心を持っていると認識しているということは、そこには本当の愛はありません。なぜなら、愛はすべては一つという想念だからです。

私たちエゴの意識でも、大好きな人とは身も心も一つになりたいと願うわけですが、しかし願っているという事自体、一つではないと信じているということを意味します。

では私たちに本当の愛は使えないのかというと、確かにそうです。ですが、ニセモノの愛でもホンモノの愛に近い愛があります。

それを使うことはできます。愛に真実の愛に近いとか遠いというレベルがあること自体が、ホンモノの愛ではないと言う証拠でもあります。

でも、ホンモノの愛に目覚めるためには、ニセモノの愛であろうとそれをできる限り使って生きることがとても大切なのです。

ニセモノの愛の特徴は、無条件でもなければ、永遠でもないというところです。どんなに純粋な愛で相手に接しようと頑張っても、相手の態度に辟易してしまったりするわけです。

それがニセモノの愛の特徴です。自分の心がとても穏やかないい状態であると使えて、自分の状態が悪いと使えないというのも、ニセモノの愛の証しですね。

しかし、そのことを否定的に思う必要もありません。自分はエゴだからです。そのことをしっかりと認めてしまえばいいのです。

何度愛で接する事に失敗したとしても、また次は成功させようと続けることが大切です。そうした、七転び八起き的な意欲を持ち続けることです。

そのことを楽しむ姿勢も大事かもしれません。私は年中失敗しながらも、そのことを楽しんでいますし、そうすると次はうまくいく可能性が高くなるのです。

成人の日

今日は成人の日らしいですね。我が家では、もうすでに二人の子供はとっくに20歳を過ぎてしまっているので、特別関係がなくなりました。

自分が20歳の時はというと、大学の後期試験の直前だったこともあって、成人式には出ることもなく焦ってやっつけ的に勉強していた記憶があります。

20歳になると成人したと認められるのはなぜなのかといつも思います。私は自分で言うのも何ですが、内面的には18歳くらいのような気がしています。

学生のころから精神的な成長をしていないということかもしれませんね。だから社会人として世の中に出て、仕事をして人並みに生きていくことが結構困難に感じていました。

それは心のどこかで大人になることへの恐怖、あるいは拒絶があったのかもしれないと思っています。表面的には何も問題なく毎日を過ごしているように見えても、心の中では葛藤があったということですね。

そういったことは本人が自覚しているかどうかは別として、それほど珍しいことではないかもしれません。昨日もブログで書きましたが、分離不安を乗り越えていない幼い心は、そのまま大人になっていくことに待ったをかけるのです。

成人して立派な大人になることは、自立して親から分離することを意味するからです。いつまでも子供として親との一体感を持ち続けたいという隠れた願望があるのです。

立派な大人になることを拒否する理由は、そのほかにも沢山考えられます。例えば、抑圧された親への怒りなどから、自分の人生を失敗させることで復讐を図ろうとするという場合があります。

また、子離れできない親に育てられたようなときにも、そういう親の気持ちに応えるために自分を子供のままでいさせようとしてしまうといったケースもあるのです。

いずれにしても、人から見て立派な人物になる必要はありません。大切なのは、真の幸せにできるだけ近づくことです。

そのためには、分離不安を心の奥にわだかまったまま残してしまったということも、自分のエゴの作戦でしかなかったということに気づくことです。

つまり、親の育て方のせいにして被害者の立場でい続けることをやめると決意することです。それと同時に、分離不安を作り出してしまった過去を見直して、少しずつ抑圧されたままになっている感情を開放することです。

分離不安 その2

昨日は精神的な苦悩の根本には分離不安が潜んでいるというお話しをしました。そして誰でもが分離不安を持っており、単に人によってそれぞれ自覚する大きさの違いがあるだけだとも書きました。

幼子が親との精神的な分離をし出すときには、相当な心の痛手を負うことになるのですが、日常生活がその子にとって親から安心をもらえているような環境であると、うまくその痛手をすり抜けられるのです。

しかし、親との関係に問題があるとそれだけでも不安を強いられる毎日を送ることになってしまうため、精神的な分離は計り知れないほどの恐怖となってしまいます。

そうなると、自立を期待されているこの世界においては、依存に執着することになりますので適応障害というレッテルを貼られてしまうことになるのです。

だからといって、分離不安を強く持っているとしても、そのことを否定的に考える必要はありません。それは単に自立して立派な自分を目指すエゴの成長が充分になされないということだからです。

私たちの真の幸せは自立することではありません。自立してこの世界で認められて成功したとしても、そこで得られるのは一過性の安心でしかありません。

分離不安とは当たり前すぎるほど当たり前の恐怖なのです。なぜなら、愛はすべては一つという想念であり、分離はそれと真反対の状態を意味するからです。

分離するということは、愛のない状態であり、それは恐怖を意味します。したがって、分離したことを何の不安もなく受け入れられるということの方が間違っているとも言えるのです。

強烈な分離不安から孤独感が強く、依存し続けてしまっているとしても、それはある意味当然のことなのです。ですからそのことを嫌悪する必要はないのです。

それよりも、分離からすべては一つという状態に戻すためにどうしたらいいかを考えるべきですね。自立したとしてもそれはより深く分離することになるだけです。

依存の問題点は自立できないことではなく、愛を与える側に立っていないということです。自分の心に愛を感じることができれば、自動的に分離感から開放されていくはずなのです。

分離不安

世の中には様々な病気がありますが、その中でも特に精神的に病んでいるという状態にある人は概ね分離不安を強く持っていることに起因すると思われます。

我々は本来自分と周りの区別がない状態のまま生まれ落とされます。しばらくすると、肉体的には自分と親とは違うものだという区別ができてきますが、それでも精神的には漠然とした一体感の中にいるのです。

それがエゴの発達に伴って、自分と自分以外の人とは明らかに違う心を持っているのだという認識をしていくことになります。

この心理的な分離をしていく大切な時期に、何らかの失敗をしてしまうといつまでもその時の分離にまつわる強烈な不安を持ち続けることになってしまいます。

それは不安と言うよりは正確には死と隣り合わせなくらいの大きな恐怖感と繋がっています。それが大人になって様々な神経症などの精神疾患を発症したりすることになるのです。

そうした要素を心の中に全く持っていないという人はいません。そうした不安を抑圧して感じないようにしているか、常に心のどこかで自覚してしまっているかの違いがあるだけです。

分離不安を強く持っていると、無意識のうちに分離しないでいられる方法はないものかと探し続けることになってしまいます。

そうすると、自立することから逃避しようとすることになり、それは大人になることへの拒絶感を生み出します。いつまでも子供のままで親の世話になって一体でいたいと思い続けるのです。

それは結果として強い依存症状を引き起こす事になるでしょうし、発達不全、あるいは発達障害というものまで起こしかねないのです。

とても一人では生きていくことなどできないとして、親にまとわりつこうとします。親がダメなら親の代わりになってくれる人に激しく依存しようとするはずです。

分離不安をなくしてしまうことはできませんが、受身の生活から与える側に意識を変えることができたら、少しずつでもそうした不安感を小さくしていくことができるはずです。

密接に係わる

マザーテレサは次のような言葉を残しています。

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誰かに愛をもたらしたいと思うなら、
その人に密接に係わらなければなりません。
もし、数を求めるなら、
ただひとりの人に愛と尊敬をもって接する代わりに、
数の中に自らを失ってしまうでしょう。
私は、人と人との間に起こることの存在を信じます。
一人ひとりの人は私にとってキリストです。
そして、その人のうちには、
ただ一人のイエス様がおられるのですから、
今まさに出会っているその人が、
そのとき、私にとって、この世界におけるたったひとりの人なのです。
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まさに奇跡のコースの教えと全く同じことを言っているのでびっくりさせられてしまいます。一人ひとりの心が癒されていくということは、人と人との係わり合いの中にこそその過程があるのです。

心と心の係わり合いには相手の人数は関係ありません。どれだけ深く、心の中を分かち合うことができるかということにかかっているからです。

相手と密接に係わることで、自分の中にある隠された部分が相手に投影されていることに気づくことができ、そこに許しの入る隙間ができてくるのです。

相手と深く係わることは、自分の内奥を見つめることでもあるからです。そして、相手の心の奥に真実の愛の部分を見出すことで、自分の心にも同じものがあると気づくことができるのです。

自分の周りにいるどんな人との間の関係性においても、愛に気づくチャンスが静かに手を広げて待っていてくれるのです。

帰省

この年末年始のお休みを利用して、実家に帰省された方も多かったのではないでしょうか。日本では、夏休みよりもお正月を実家で過ごすという人の方が多いのかもしれませんね。

しかし、今まで沢山のクライアントさんと接してきた経験では、長い間実家に帰ってないという人や、帰るとしても決まりだから仕方なくという人が意外にも多いのです。

つまり、帰省したくないと思っている人が沢山いるということですね。帰省したとしても、何となく居心地が悪くて早々に引き揚げてきたという話は今までに何度も聞いてきました。

一般的には自分が生まれ育った親の元に帰るわけですから、一番自由で居心地のいい時間を過ごせるのだろうと思いがちですが、現実はそうでもないということです。

それは親に育てられていた時期が、その人にとってどのようなものであったかということに深く関係しているのです。

親との関係に問題があったり、何らかの犠牲を強いられてきたという場合には、実家に帰るということは本人にとって苦痛以外の何物でもないのかもしれませんね。

癒しを進めていくと、まず最初に幼い頃の親との係わりを見直すことになります。そこで、過去溜め込んできたさまざまな感情を開放したり、自分の本心に気づくことなどでわだかまりを手放していくことになります。

ある程度それが進むと、もう帰省しても穏やかな心で過ごせるのではないかという自信がついてきます。そうして実際に帰省してみると、概ね次の二つのパターンが待っています。

一つ目は、久しぶりに会った親兄弟などの家族の自分に対する態度が以前と変わっているということに気づいて、自分の癒しが進んだことを自覚できるのです。

この場合には、それまで心の中で敬遠していた実家が思いがけず居心地のいい場所に感じることができるようになったなと嬉しくなるはずです。

二つ目は、やっぱり家族は変わってなかったと失望して戻ってくるというケースです。自分は癒しを進めてきたはずなのに、実家に戻ると従来の自分に戻ってしまうという経験をするのです。

この場合は、まだまだ心の奥に隠しているものが残っているということですから、あきらめずに癒しを続けていくことですね。

いずれにしても、ときどき生まれ育った環境に自分を戻してみるというのは、自分の癒しのバロメーターになりますし、これから先の癒しのヒントを与えてもらえる大切な経験になるということを覚えておいて損はないと思います。