火のないところに煙は立たぬ

よく芸能人や有名人の人たちが、全く身に覚えのないことを記事にされたと言って憤慨しているシーンを見ることがあります。

一般人は週刊誌や芸能ニュースなどの情報を聞くと、丸ごと信じないにしても全くの出鱈目だとも思わずにいることが多いのではないでしょうか。

それは、「火のないところに煙は立たぬ」、つまりそうした噂のようなものが起こるには何らかの理由があるはずだと思うわけです。

そこに、ほんの少しでも事実として何かが見つかると、やっぱりね、ということになるのです。そしてまた次の記事を読んで同じように疑いの目で見るという習慣ができあがります。

また逆に、ある人に降りかかったネガティブな噂が、実は根も葉もないウソだったと分かったとしても、何となくその人に対するネガティブな感覚が残ってしまうものです。

その残った感覚というのは、実は見聞きした情報を元に自分が勝手に作り上げた相手に対する否定的なイメージなのです。そして、それは相手には罪があると思いたいという意識に他なりません。

この傾向は誰にでもあるものです。だからこそ、いいニュースよりも否定的な内容のものに世間の関心が集まるのです。

私たちは、こうして人を罪人にしたくて仕方のない心の部分を持ってしまっています。それは勿論自分には罪はないということを証明するためなのです。

言葉を変えて言うと、罪深い自分というものを隠そうと躍起になっているということです。それはとりもなおさず、自分に対する大きな罪悪感を持っている証拠なのです。

罪悪感を手放していけば、相手の中に罪を見ようとする力が小さくなっていくはずです。そして、最終的に人も自分も何の罪もないという地点に到達できるはずです。

そんな自分の心を想像してみて下さい。この上なく清清しい何とも言えないすばらしい気持ちになれるのでしょうね。

フットワーク

サラリーマンを辞めて今の仕事をするようになってからというもの、ほとんど出かけるということがなくなりました。

それは自分のセラピールームが自分の仕事場ですから、当然と言えば当然なのですが、それにしても外出そのものもとても少ないのが現状です。

そろそろ丸9年今の仕事をしていて、出張セッションのような形態で仕事をしたことは数えるほどしかありません。そのほとんども、依頼されて講義をするような形態でした。

出張での個人セッションとなると、もうほんの2,3回しかないと記憶しています。これは明らかに、自分自身が出かけることを好まないということの結果だと思っています。

確かに自分のセラピールームでセッションをするのが自分にとっては一番やりやすいのですが、しかしあまりにも来ていただくことを前提とした仕事のスタイルに偏りすぎているという思いは以前からありました。

マザー・テレサの言葉にこういうのがあります。

『お月様に貧しい人がいたら、私たちはそこに行かなければなりません。』

この貧しさというのは、勿論物質的なものだけではなく、すべてにおいて困窮している人のことを指すのでしょうね。

こうした言葉を聴くと、フットワークの軽さはある意味愛の象徴でもあるように感じてしまいます。誰かに愛をもたらそうとしたら、その人にできるだけ密接にかかわることが必要です。

物理的にここに来れない人たちのために自分が出向いて行くことは当然のことなのですが、まだそれができてないのが今の自分です。

来年以降は、少しずつ今の重いフットワークをなるべく軽快なものに変えていけるといいなと思っています。それには、呼ばれるのを待つのではなく自ら出向くという意識改革が必要ですね。

子供からのサイン

子供というのは、その家族の中にある目には見えないような家族間の心の問題を、様々な形で体現して見せてくれるものです。

その中でも誰もがよく知っている一番オーソドックスなものは、「おねしょ」ですね。おねしょは、寝ている間にしてしまうものですので、本人は全く意識できません。

しかし、それが逆に本人にも気付いていない潜在意識の中に抑圧されてしまってある、家族の間の人間関係の問題を表すことになるのです。

最も多いのは、おねしょをしてしまう子供本人と親、特に母親との心のつながりが、子供の側からすると満足のいくものではないと感じている場合です。

母親が忙しすぎたり、何か気になることを抱えていたりと、母親の気持ちが自分の方に真っ直ぐに向いていないと子供が感じると、そこに大きな不満が起きるのです。

母親の方としては、一生懸命毎日を送っていてこれといった問題はないと思っているのですが、そのことがまた子供にとっては自分の不満に気付いてくれないという感覚を生んでしまいます。

そうなると、何とかして母親の注意を自分に向けようとします。ただ、子供はこのことを表面意識で感じていない場合には、そのことに対する自己表現をしないために、仕方なく寝ている間のおねしょという形で訴えるという手法をとることになるのです。

親の心に余裕がある場合には、このことに気付くこともありますが、大抵の場合にはいつになったらおねしょが治るのだろうという不安の方に目が行ってしまい、子供の気持ちに気付いてあげられないのです。

場合によっては、両親の関係がうまくいってないなどの時にも、おねしょが起きることがあります。それは、子供から親に向けた身を挺したサインだと考えることができますね。

そして、子供からのサインはおねしょだけではなく、不登校という形をとってみたり、子供の人間関係の悪化という現れ方をするような場合もあるのです。

いずれにしても、子供は家族の問題をその言動によって親に知らせる役目をしっかり果たしているのだということを、冷静に見てあげる必要があるのです。

許さない理由

私たちの毎日の暮らしの中で、許しを実践するチャンスがない日はありません。出かけて忙しく動き回っている時でも、じっと部屋に篭っている日でも、例外なく許しを実践することができます。

許しこそが癒しの本質だし、真の幸せへのポスポートであることは明白になっているというのに、実践しても実践してもやっぱり思ったようにこれで完璧というようには許すことができないのはなぜでしょうか?

許すということを意図し続けながら心の中で人との関係を見つめていると、自分の本当の気持ちを曖昧にしてごまかすことができなくなってきます。

もっと簡単に言えば、許そうとしたときに何らかの抵抗が心の中に沸き起こるのを感じることができるのですが、そこにこそ自分の隠していた本心があるということです。

こうした隠された本音というのは、許そうとしない限りなかなか感じることはできないのです。そうやって沸き起こってきたものをしっかり味わっていると、ははあ、なるほどなと納得することがあります。

そこには大抵の場合、恐れが潜んでいます。その恐れから防衛しようとしている自分を発見できるのです。そして、その防衛のための方法が多岐に渡っているということも見えてきます。

その一つひとつを自分が相手を許そうとしたときに、代わるがわる出てきてくれるのです。それはもう面白いように様々なレパートリーを持っています。

つまり、許さない理由とは恐怖から自分を防衛し続けたいからなのです。潔く許してしまうと、自分を防衛できないと思い込んでいます。

ですから、どちらを選択するかといえば、考えるまでもなく結果は明らかなのです。かたや防衛して自分を安全に保つ、そしてもう一方は相手を許さず罪深いと断定すること。

この二つを天秤にかけるなんて、それこそナンセンスなわけです。だから生きてる理由は許すためだと理性でいくら分かったところで、許しの方を選択することが難しいと感じるのは当然なのですね。

何度繰り返しても許せないのは決して責められることではありません。私は許そうとする意欲さえあればいい、それだけでもいずれは必ず許しのエキスパートになれるはずです。

その時を楽しみにして、毎回許しの実践を心躍らせながら続けていこうと思います。

狂気の心

人は時として普通の常識では考えられないような言動をすることがあります。そういう人がもしも自分の近くにいるとしたら、それは最大級の癒しのチャンスなのです。

その人がある意味気違いじみた言動を取るときには、その人は自分にその人を祝福する機会を差し伸べてくれているのです。祝福とはただ愛を送ることを意味します。

私たちは大抵の場合、言葉と言葉で通じ合い、言葉を介して分かり合おうとしますね。でももっと深く分かり合おうとしたら、そこには言葉を必要としないだろうということを知っています。

相手が言葉を理解しない動物だったとしても、互いに心が通い合うことによって本当の意味での意志の疎通ができるものですね。

その人が必要とするものというのは、自分にとっても必要なものなのです。自分がその人に対して差し出せる祝福を自分自身が必要としているということです。

自分がその祝福を得る方法は、祝福を相手に与えることをおいて他にはありません。これこそが愛の法則であって、それに例外は無いのです。

自分が何かを否定してしまうと、自分自身それを欠くことになるのです。それは、その何かが不足しているからではなくて、だれか他の人のなかにあるのを否定してしまったために、自分自身のなかにあるのに気づくことができなくなってしまうのです。

自分が相手にどう応ずるかはことごとく、自分を何であると思うかによって決定されるし、自分がなりたいと思うもの、まさにそれが自分だと思い込むのです。

ということは、自分がなりたいと思うこと、それがその都度自分がどう応じるかを決定するに違いないのです。

味方という存在

みなさんには何人くらいの味方と言える人たちがいるでしょうか?味方というのは敵の反対ですが、だからといって、敵じゃない人は味方かというとそうでもありませんね。言ってみれば自分のことを理解してくれる人ということかもしれません。

たとえば、子供のころに友達とけんかして悔しい思いをしたときに、親がその気持ちを分かって、自分をかばってくれたら味方だと実感するはずです。

自分のことを親身になって心配してくれて、大切だと思ってくれるからこその助言をしてくれる人も味方と言えると思います。

しかし、実際には相手がどんなに自分のことを深く愛してくれてるとしても、相手が自分の気持ちを少しも理解してくれてないと思えば、もう味方とは思えなくなってしまうのも事実です。

つまり、相手が自分の味方かどうかというのは、相手が自分のことをどう思っているかということには関わらず、自分が決める主観的なものだということが分かります。

ですから、自分が誰からも受け入れてはもらえないと思ってしまったとしたら、その人にとっては決して味方と思える人は現れないことになってしまいます。

味方が一人もいないという心の状態とはどんなものかと想像すれば、それは一口にいってただ孤独であるということになってしまいます。

味方が誰もいないと思っている人は、もしかしたら本当の意味で味方がどんなものなのか実感を持ってないかもしれません。

それは何らかの理由により、自分の方から人を拒絶してしまった結果であるからです。自分には味方がいないと思うのは、実は自分こそ自分自身の味方ではないという思いが心の奥にあるからなのです。

それは自分に対する拒絶感、罪悪感によるものです。自分が自分を認めることができたら、必ず周りに一人や二人は自分の味方だなと思える人が現れるはずです。

本当の味方は人数の問題ではありません。たとえ一人でも真の味方だと思える人がいれば、心は安らかでいられるし、それでその人は孤独から解放されて心は救われるのです。

あなたの味方は誰でしょうか?一度じっくりと思いを巡らして見ることをお勧めします。

錯視について

みなさんは錯視というのをご存知でしょうか?錯覚を起こす視覚の特性のことをいうのですが、人間の視覚はものを正確に見ることができると思っていても、実際にはあるがままには見ていないのです。

しかも想像以上にひどい錯覚をしてしまうようにできているのです。同じ長さの線が違う長さに見えたり、同じ明るさのものが全く違う明るさに見えたりするのです。

動いてない図形が動いているように見えたり、見えていたものが突然見えなくなったりすることすらあります。

子供のころに、あるものをジッと見つめていると、周りのものが一瞬にして見えなくなってしまう経験をしていて、何だろうと思っていた記憶があります。

実は、人の目は静止している物体を見ることができないようにできているらしいです。しかし、それでは困るために、目自体が微振動をしながら静止しているものを捉えることで、見えるようにしているとのことです。

だから一生懸命見ようとして、凝視して眼球の動きを完全に止めてしまうと、逆にその静止しているものは視界から消えてしまうのです。

一体自分の視覚というのはどれだけいい加減にできているのだろうとびっくりしてしまいます。そういった人の視覚の特性を利用したおもしろいものがありました。

以前あるテレビ番組で見たことがあるのですが、ある人物画を近くから見るとアインシュタインの顔に見えるのですが、徐々に離れて行ってある程度の距離になってくると、次第にマリリンモンローの顔に見えてくるというのがありました。

ものをあるがままに見るというのは、自分独自の判断や解釈をしないで受け止めるという意味の比喩ですが、その前の段階ですでに物理的にもそのままを見ることすらできないのが人間なんだということです。

錯視について少し興味を持っていろいろ調べてみたおかげで、今まで以上に自分の感覚におごることなく、謙虚に何事も受け止めるべきなんだなと改めて思うのです。

諦めない

日頃、裁かない、分析しない、相手のエゴの作った土俵に上がらない、無防備に、ということを心がけているはずなのですが、そこそこうまくできる時と、どうしてもダメな時があります。

その違いがどこから来るのかはまだまだ検証できてないですが、自分の場合はやはり相手になんらかの期待をしてしまうと、分析が始まってしまうようです。

分析はよほど注意しないと裁くことに直結してしまいます。それは、自分の心が愛で満ちてないからこその分析ですから、裁いてしまう事になったとしても当然かもしれません。

そして、相手のエゴの作った土俵に…というのは、そそのかされて相手と同じ怒りに意識を向けてしまうということです。

分析すれば、そこから当然防衛に繋がるような結果が出てきてしまうために、怒りが防衛の手段として使われてしまうということです。

その場でその怒りを感じきるというのはとても難しいことです。それよりも、その怒りが出てきたことを承知しながら穏やかな自分を選択する方が懸命ですね。

自分の場合は、どうしてもダメな時にはもう一度、奇跡のコースを読むことにしています。そうすると、また心がリセットされるというか、期待のない状態に戻してもらえるのです。

そうなってしまうと、大抵のことには相手のあるがままを受け入れられるようになります。このときも、エゴはブツクサ文句を言っているのは分かります。

しかし、そういう愛の対応を自分ができたときは、必ず相手の態度がエゴから愛へ急変してくれます。人は助言よりも愛が欲しいのですね。

分かってはいるのですが、ついうっかり忘れてしまい、またいつものごとく分析してしまいます。諦めずに、この繰り返しから早く脱出したいと思います。

笑いに転嫁

私はお笑いが大好きです。仕事で海外に少し長めに行かなくてはならなかったときに、しばらくして何だか物足りないなと思い、そうだ日本のお笑いが恋しいのだと気付いたことがありました。

笑うというのはとても気分爽快にしてくれますし、横隔膜が振動することでそれだけで結構な運動になったりもするみたいです。

少しぐらい気分のすぐれないようなときでも、大笑いしてしまえばその後はカラッと元気になれたりもするのでとても便利です。

しかし、笑いの中にはちょっと変わった笑いがあります。ある意味、ホンモノの笑いとは違うニセモノの笑いがあるのです。

多くのクライアントさんとのセッションの中で、たまにあることなのですが、ご自身の過去の悲惨な出来事をお話ししているときに、泣いてしまうのかなと思いきや、逆にケラケラと笑い出す人がいるのです。

あるとき、あまりに不振に感じて、何か面白いことがありますかと聞くと、ご本人はなぜか分からないが笑いがこみ上げてきてしまうということでした。

これは実は本人も自覚のない無意識の中で、あまりに辛い体験を思い出してその時の本当の感情に触れるのが怖いために、その感情を笑いに転嫁してしまったのです。

そして笑いに転嫁されてしまう感情は恐怖だけではなく、悲しみや怒りなど、ほとんどのネガティブな感情に対して起こりえます。

催眠療法のセッション中にも、何度も同じような経験をしたことがあります。そして必ずご本人はなぜ自分が今笑ったのか聞かれてもはっきりと答えることができないのです。

困ってしまったり、降参するときなどもこの笑いを使う人がいますね。これも全く同じようにおかしくて笑っているのではなく、その時の本当の感情を味わうのがいやなので笑いというある意味逆の感情に変えてしまうのです。

本当は笑いたくもない状況であるにもかかわらず、気がつくと笑っているということがなかったでしょうか?もし、思い当たる事があるのでしたらその時どんな感情から逃れようとしていたのか見つめてみることは、癒しにとってとても大切なことだと思います。

迷惑をかける

多くのクライアントさんとお話しをしていると、みなさんに共通する心情とか信念のようなものがあるということが分かります。

その代表的なものが、「人に迷惑をかけない」で生きるというものです。それさえ守れれば、後は自己責任において何をしてもいいんじゃないのかということです。

自分も若い頃にそんなふうに思っていた記憶が確かにあります。だからその気持ちはとてもよく分かるのですが、今となっては人に迷惑をかけないでいても自分が幸せでなければ何の意味もないと思うようになりました。

人が一人生きていれば、それは自覚できようができまいが必ず何らかの迷惑をかけて生きているのです。これは避けられない事実です。

勿論故意に迷惑をかけてやろうとすることは論外ですが、そうでなくとも誰かに自分のせいで迷惑がかかってしまうというのは仕方のないことです。

迷惑をかけた最も初期の事といえば、例えば第二子が生まれる事でそれまでナンバーワンでいた第一子の立場は脅かされてしまうことになりますね。

つまり、弟は誕生と同時にお兄ちゃんに迷惑をかけているということです。人は誰でも、互いに常に利害が一致するなどということはありません。誰かが得すれば誰かが損をするというのがこの世界の掟です。

人に迷惑をかけたくないという思いは、実は思いやりの心からくるものではなくて、自分を防衛しようとすることから発生する思いなのです。

だからこそ、迷惑をかけないからといって幸せになれるわけではないのです。殊更に迷惑をかけることに過敏になるのは、エゴの反応であるということを知る必要があります。

それを最優先すると、必ず自己犠牲が発生してしまいます。迷惑をかけてはいけないという消極的な気持ちで生きるより、自分が相手を許すのと同じように相手も自分を許してくれるに違いないという思いが大切なのです。