楽しいと楽の違い

普段私たちが使っている漢字の種類は膨大にあるにもかかわらず、「楽しい」と「楽(らく)」を同じ漢字で書くというのは不思議なことです。

というのも、楽しいのと楽なのは根本的に違うからです。突き詰めて考えることがなければ、何となくニュアンスが違ったとしても似たようなものなんじゃないかなと思ってしまうかもしれません。

しかし、実際には楽しいというのは、そこに喜びが一緒にあるように思います。しかし、その時に同時に楽だなあというニュアンスはあまり見当たりません。

楽の逆にキツイとか、苦しいなどということが楽しいと共にあってもいいように思います。楽しいというのは、100%心の状態を表現しています。

ですから、仮に心が楽しんでいたとしても、身体がきつかったり苦しかったりすることはいくらでもあるのです。

例えばスポーツ全般に言えることですが、マラソンが趣味で楽しんで走っているときに、身体が楽という事はあり得ないですね。

一方、楽というのは主に身体に対しての表現である場合が多いように思います。なので、楽な状態であっても、必ずしも心が楽しんでいられるとは限りません。

お風呂に入ってゆったりくつろいでいる時は、確かに満員電車の中で汗をかきながら到着を待つよりも楽です。

でも湯船の中で明日の仕事のことで心配ごとをあれこれ考えていたら、それは決して楽しい時間ではなくなってしまいます。

結局、楽しいと楽の違いは、心と身体のどちらに意識が向いているかということに深く関連しているということかもしれません。

身体がいくら楽な状態でも人は幸せを感じることはありません。幸福感は楽しさや喜びなどの心の状態からくるものだからです。

あなたは楽しい人生を送りたいですか?それとも、楽な人生でしょうか?きっと自分が目指すほうの人生になっていくはずです。

許さずにいる心

この世界のありとあらゆる不幸、苦悩の根本的な原因はたった一つ、それは許さずにいる心です。このことが本当の意味で分かるのに随分と人生のいいところまでやって来てしまいました。

もっと早くに分かっていれば、という気持ちも許すことですね。誰の心の中にもある、この許さずにいる心の部分は相当に頑張って突っ張っているようです。

ほとんどの人がこれを持ったまま死んでいくところを見ると、それは相当に頑固だし命をかけても許さずにいることを守り抜こうとしているように感じます。よほど根が深いと言わざるを得ませんね。

仮に、どんな自分でも丸ごと許してくれるという人が自分のそばに一人いたとしたらどうでしょう。にわかには信じられないでしょうけれど、よくよく相手を観察しているとどうも本当に常に許してくれていると分かったとしたら自分はどうするでしょう?

それは本当に救われると思いませんか?私たちは何かあったら許してはもらえないと信じて生きているのです。だからいつも心はヒヤヒヤしています。

なぜ許してはもらえないと固く信じ込んでいるかといえば、自分の中に許さずにいる心があることを知っているからです。相手だってそれと同じに違いないと思い込んでいるのです。

だからその思い込みが間違っていたということを知ったら、心が開放されて許さずにいる心からそのパワーが失われていくはずです。

それはちょうど、相手と激しく言い合いをして喧嘩をしてるときに、相手が急に謝ってきたとしたら相手をののしるパワーが一気に減少してしまうのと同じです。

それなら、相手が自分を許してくれるのを気長に待っている必要はないということですね。つまり、自分が相手を許さずにいる心を手放してしまったら、きっと相手も自分を許すということになるということです。

だからみんなに許してもらいたいのなら、まず率先して自分が周りを許してしまえばいいということです。本当は、許してもらう嬉しさよりも、自分が相手を許すことの方が1000倍も歓喜がやってくるのです。

作務衣

最近、時々作務衣を着てセッションをするようになりました。以前から、ヒーリングのセッションのときにできる限り身体をリラックスさせたいという思いがあり、できたら作務衣がいいかなと思っていたのです。

ただ、初めていらっしゃるクライアントさんと対面するときに、どう思われるかなという一抹の心配があったために、二の足を踏んでいたのです。

初めてお会いする人には、なるべくどこにでもいるごく普通の人という印象を持って欲しいと思っていたので、どこにでもあるシャツとズボンという格好でずっとセッションをやってきたのです。

それが今年に入って、講座を開くようになってから、講座でならいいかなという思いから作務衣を着るようになりました。

一度着てしまうと、これがとても快適でして、特にヒーリングをするときにはもうズボンを履く気がしなくなってしまったくらいです。腕を動かすときにも、とても自由な感じがします。

元々何か作業をする際に便利なように考案されたものなのでしょうから、快適なのは当たり前ですが、日本人の技というのはこういうところにも現れているのかもしれませんね。

最近、着心地のいい素敵な作務衣をプレゼントしていただいたこともあって、以前よりも増して作務衣を着たくなったというのもあるのですが、徐々にシャツとズボンという今までのスタイルから遠ざかっていくような気がします。

多少自分が開放されたのか、初めてのクライアントさんの時でも作務衣でお出迎えするようになるように思っています。

10年前の自分が、今こうして作務衣を着て仕事をしている自分の姿を見たら、どう思ったのでしょうか?そう考えてみるととても不思議だし、笑えてきます。人は変わるものですね。

なにげない幸せ

「女心と秋の空」ということわざがありますね。女性の心は日本の秋の天気のように変わりやすいということを言っているのですが、殊更女性についてだけ変化しやすいというのは信憑性に欠けますね。

実際、「男心と秋の空」ということわざもあるらしいです。男女問わず、人の心というのはそのように一定していないものであることは疑いようのない事実です。

さっきまで気分爽快だったのに、なんだか急にいやな気持ちがしてきてみたり、落ち込んで泣いていたのに、ゲラゲラ笑い出すなどということもありますね。

その変化の幅が少ない人は感情の起伏が小さい比較的静かで穏やかな人だし、変化の幅も時間的な変化の量も大き過ぎると、自分でもその変化についていくことができずに疲れてしまうかもしれません。

そうした気持ちの変化の中で、何があったというわけでもないのに、何となく自分は幸せだなと感じるときがあります。

宝くじが当たって嬉しいとか、欲しかったものが手に入って有頂天になるとか、そういった外的な事象が何もないにもかかわらず、ただ不思議となにげない幸福感を感じるのです。

それは大騒ぎしたいわけでもなく、それほど強く迫ってくるものでもないのですが、でも確実に自分の心の中でそれは起きています。

その時に、自分がいつも考えることは、○○で幸せだなとか、○○が嬉しいなとかいうものですが、その○○は実は常にあるものなのです。

例えば、自分は今穏やかな気持ちでこの本と向き合っている時間と意欲があって、何て幸せなんだろうというものだったりします。でもそれは毎日起きている当たり前のことなのです。

そんなことでも、その幸福感がやってくると、嬉しいことに思えてしまうわけです。こうして、このブログを書いている今も結構な幸福感がやってきてくれています。

それは人に説明したら、なんでそんなことと言われてしまいそうな事ですが、でも内的な満足こそが幸福感を作り出すのかもしれません。

このなにげない幸せは、時々やってきてくれるのですが、いつもというわけではないのが残念です。でも心の癒しをするなかで、そうしたことが少しずつ増えてきているのかなと思うこのごろです。

戦略的生き方

昨日のブログでは、心が満ち足りればそれだけ未来の計画に興味がなくなっていくというお話しをしました。愛は今だけが実在と分かっているからですね。

そのことと深く関連するのですが、計画的に生きるということをもっと進めてエゴ的な要素を増していくと、戦略的に生きるということになるかもしれません。

それは、これから生きていく未来の自分の人生で損をしないように、失敗をしないように、最も効率的に成功するようにと頭を巡らして計画することですね。

そして他人よりもなるべく自分が有利な状態になれるように常に考えながら生活していくということでもあります。

戦略的であろうとすると、どうしても取引的な考え方が強くなるようにも思います。何につけ、自分一人の力に頼るよりも他人の力も利用する方がはるかに効率がいいからです。

そこには愛の要素が足りないため、人を協力させるためには必ず取引という発想が出てくるということですね。

社会のメカニズムはこのようにして成り立っているのです。ですから、そこで成功しようとする人はどうしても戦略家としての手腕が必要になります。

取引をするにしても、なるべくなら自分が有利になるような取引を画策するはずです。あまりにもエゴ的要素が強くなりすぎてしまうと、いくら有能であってもやはり敬遠されてしまいます。

本人はそれでも自分は成功者だと誇らしい気持ちでいることができるのでしょうけれど、心の奥はとても寂しい状態になってしまうはずです。

今に意識を向けていられれば、戦略的になる必要は全くないことが分かります。愛は取引を知りません。ただ愛で人と繋がっているだけだからです。

身体と心の力を抜いて、今この瞬間に意識を向ける訓練をすることです。そうすれば、未来に気を揉むことも少なくなり、自然と周りに愛を与えることになっていくはずです。

未来の計画

私たちは程度の差こそあれ、大抵は自分の人生の未来を計画しながら生活しています。仮に人生に絶望して未来が真っ暗だと感じている人がいたとしても、それは計画ができないから真っ暗だと言っているのです。

なぜ、未来を計画するのかと言えば、今この瞬間に十分な満足をしていないからに他なりません。今もしも、完全な愛の中、完璧に満ち足りた心でいられたならば、一体何を明日以降に計画する必要があるでしょうか。

明るい未来を夢見て、人生の計画を立てようとするのは、今に100%の満足をしていないからです。そこには確実に未来に対する不安があるわけです。

完全に満足している平安な心には、未来に対する不安などこれっぽっちもあるはずがありません。あれば満ち足りてはいないということを意味するからです。

勿論完全ではないにしても、現在に満足していればいるほど、未来を計画することから離れていくはずなのです。愛は未来を必要とはしないからです。

私たちの人生は、大きな宇宙レベルでのシナリオ通りに推移していると思って下さい。些細な部分では小手先で変えることができたとしても、大筋ではすでに決まっているのです。

人生の未来がどうであるにせよ、今この瞬間の自分の心が平安でいられたら、それで完璧なのです。他には何も望むことはなくなるはずなのです。

未来の計画を立てることは、自分の心が愛に満たされていけばいくほど、興味のないこととなっていくでしょうね。

本当には、私たちには今日だけがあるのです。それは、人を助け、人を許し、自分を許すためだけに。そのためにのみ人生があるということです。

記念日

12月1日の今日は確か映画の日だったと思いますが、この日は自分の誕生日でもあります。いつの頃からでしょうか、自分の誕生日というものにあまり興味がなくなってしまったのは…。

子供の頃は、それでも何となく楽しみにしていたような感じは残っています。誕生日に興味があったというよりも、何か買ってもらえるということが嬉しかっただけですね。

人によっては、自分の誕生日や大切な人の誕生日をとても大事な日だと感じている方も大勢いらっしゃるのは知っています。

特に男性よりも女性の場合には、そういった誕生日やその他の記念日を重要なイベントとして捉えていることが多いのかもしれません。

誕生日以外にも、結婚記念日やクリスマスイブなど、何ヶ月も前から綿密に計画してパーティを開いたり、様々な催し物をするという人たちもいるわけです。

この記念日を大事にしたいと思う気持ちは一体どこから来るのでしょうか?それは勿論大切な人への愛の気持ちや感謝の気持ちを表現するチャンスということなのかもしれませんね。

そうした気持ちには、人との暖かな繋がりというものがベースにあるように思います。ですから、勿論必ずしも何かを盛大に企画するというようなことでなくてもいいのです。

日頃つい忙しさにかまけて相手に対する感謝の気持ちを忘れてしまっているような場合、記念日があることでそれを思い出すきっかけを与えてもらえるということもあるのでしょうね。

でも本当は常に大切な人たちのことを毎日心の中で思い出して、ありがとうの言葉をつぶやくだけでもいいのではないかと思います。

記念日に限らず、一日の最後の締めくくりとして心を静かにして、そうした大切な人たちのことに心をめぐらす時間を作ってみてはいかがでしょうか?きっと、それだけでも自分の心が穏やかな状態に戻ると思います。

期待値

自分がまだ赤ちゃんの頃、夜中に必ず目を覚まして、ぐずっていつまでも寝ないため、母親は積み木で遊ばせたそうです。それが習慣になり、しばらく遊んでからそれでご満悦して、寝るということがあったらしいのです。

恥ずかしながら、赤ん坊といえどもかなり我がままだったようです。母親は赤ちゃんの私を説得することは無理と判断して、敢えて夜中に積み木遊びをすることを許してくれたのでしょう。

幼稚園に通うようになったら、深夜の積み木遊びには母親も付き合ってはくれなくなるでしょう。でもまだ自分で洋服をうまく着れないとしても、許してはもらえたはずです。

そうやって、親は子供のそれぞれの年齢に相応しい対応の仕方を自然と心得てくれていたということです。つまり、親というのは子供の年齢に応じて許すことができる範囲、あるいはレベルというものを変化させるのです。

これはある意味、子供という相手に対する期待値というものをあらかじめ設定しておき、その期待値に照らして許すかどうかを判断しているということです。

幼い子供ほど期待値を低く設定してあるため、かなりのことでも大目に見てもらえるということです。それが、20歳を過ぎて大人扱いされるようになると、期待値も親自身と同等になるため子供の時のような許され方はしなくなりますね。

それなら、期待される側としたら期待値を低く設定してもらった方が気楽に生活できるということも言えますね。

ところが、それはそれで人は期待値が高いと感じるほうが自分の価値も高く思えるので、期待値が低いことは必ずしもいいわけではありません。

しかし、本当は人は期待されるよりも愛されたいのです。愛されるということをあきらめた人は、愛の変わりに期待されたいと思うのです。

愛は期待値ゼロです。なぜなら、期待するのは望むことであり、それはエゴの働きによるものなのです。愛ができることは、ただ愛するということだけです。

自分から相手に対する期待値も、相手から自分に対する期待値も、同じようにゼロになる世界がくれば、それはきっと理想的な世界になるのでしょうね。

感情の層

人には沢山の感情がありますね。気持ちがプラスに向くような嬉しい感情もあるし、逆にマイナスに行ってしまう否定的な感情もあります。

感情はその都度必要に迫られて心の奥から上がってくるものですが、それを通り過ぎるとなくなってしまうものと考えられがちですが、実はしっかり味わわずに済ますと心の奥に戻っていって溜まってしまいます。

そうやって様々な感情が溜まって行くのですが、それぞれの感情は大抵互いに関連して、絡み合って大きな塊、もしくは層を成しています。

我々が一番奥底に隠し持っている感情は、罪悪感です。一口に罪悪感といっても、広く捕らえると自己嫌悪や自己否定などの自分に対するネガティブな感覚も含みます。

幼いときには、大人に比べれば当然未熟なわけですから、惨めな自分や情けない自分というものを数多く感じるはずです。

そうした自分に対するダメ出しが心の底辺にある罪悪感を膨らましていきます。それと同時に、そんなダメな自分を知られてしまうことに恐怖を感じるようになるのです。

みっともない自分、恥ずかしい自分、役に立たない自分をできる限り、隠そうとします。その言動力が恐怖なのです。従って罪悪感と恐怖は切っても切れない関係にあります。

また自分が惨めな思いをさせられたと思うと、それを隠そうとして恐怖が出てくるだけでなく、その相手に対して怒りも感じるようになります。

そうやって、罪悪感と恐怖にさらに怒りという感情が絡んでくることになるのです。ただし、怒りは、罪悪感や恐怖によって上手に蓋をされてしまう場合もあります。

自分に非があると思うと怒りが引っ込んでしまう経験をしたことは誰でもあるはずです。それが罪悪感によって怒りを抑圧した瞬間ですね。

また、あまりに恐怖が強いと、それだけで怒りなど出て来れなくなってしまいます。刃物を持った人に脅かされたら、それがどんなに理不尽なことだろうと怖くて怒れないのはそういうことです。

このように、罪悪感と恐怖と怒りが幾重にも重なって複雑に絡んだ状態で心の中に溜め込まれています。そのパワーが人生に多大な悪影響を与えるのです。

癒しの一つの重要な作業は、このように絡んでしまわれている感情を一つひとつ丹念に見てほぐしていきながら味わって開放していくことなのです。

裁くこと その2

昨日のつづきです。

日々続けられている裁くという心の行為、それは対象となるものに罪を与えて、罪悪感を想起させるのが目的だというお話しをしました。

そしてこの裁くことは、勿論意識できることもありますが、その大部分が無意識的に成されているのです。意識して悪いものは悪いとして、何がいけないのかと言われる方がいるかもしれません。

確かにこの世界はそうした裁きによって、ある秩序が保たれていると見ることもできます。交通規則を破れば罰金を科せられますし、人のものを奪えばそれ相当の罰が与えられます。

しかし、ここで話題にしているのは、そういった規則や法律のことではなく、純粋な心の問題なのです。心の問題が一番幸せに関わる大切なことだからです。

どんなにすばらしい法律があったとしても、それで幸せになるわけではありません。話しを元に戻して、裁いた結果は罪を認めることであり、その結果として罪悪感が発生するのです。

もしも、電車の中でマナーを守れない人がそばにいて、その人を心の中で裁いたとすると、それはその人に罪があると断定することです。

そして、最終的にはその人がそのことを自覚することで、自らの心の中で罪悪感を味わって欲しいと思うのです。だからこそ、その人が何も悪びれる様子もないままでいたとすると、怒りが湧いてきます。

その怒りは、相手に罪を認識させてやりたいという攻撃的な気持ちなのです。もしも直接相手に注意することができずにいると、その怒りはやり場のないイライラ感として残ってしまいます。

逆になんらかの理由で相手が自分の非を認めるような態度をすれば、それは相手の中に罪悪感が湧いたという証拠であるとみなすために、穏やかな気持ちに戻れます。

このように、我々は常に対象となる人に罪悪感を感じさせておきたいという欲求があるということです。それは、実のところ罪悪感を持っている自分を隠す隠れ蓑として使おうとするからなのです。

だからもしも裁かないでいるとしたら、世界中で自分だけが罪深い人ということを認めることになり、こんな怖いことはないのです。

しかし、実際には周りを裁くことをやめていくことができるとしたら、それと同じようにして自分の罪悪感も減らしていくことができるのです。

なぜなら、自分がそれまで裁いてきた罪深い人たちとは、自分の罪深さの投影に過ぎなかったからです。我々が飽くことなく繰り返している裁くということを勇気を持ってやめることができたら、この世界は間違いなくユートピアになるでしょうね。