文句を言いたい自分 その2

昨日のつづきです。

誰の心の中にも文句を言いたいという部分があり、それは相手を否定することが本当の目的ではなく、自分の正しさを証明して自分をまもりたいがためだというお話しをしました。

「文句を言いたい自分」をはっきりと表現するかどうかとか、そうした自覚があるかどうかなどはその人の生まれ持った気質や育った環境などによって違いが出てきます。

文句を言うためには、文句を言うことが正当化されるような立場が必要となります。仮に自分の周りにいる人がみんな親切で愛に溢れているような人ばかりだったら、文句を言いたい自分には都合が悪いわけです。

従って、「文句を言いたい自分」にとって都合のいい状態とは、幸せよりも不幸、豊かで満ちたりるよりも貧困で不足、加害者よりは被害者の立場だったりするわけです。

つまり、自分の人生が思うようにいかない方が、それだけ「文句を言いたい自分」にとってはおあつらえ向きであるということです。

もしも、自分の心の中の比重として、「幸せになりたい自分」よりも「文句を言いたい自分」の方が大きければ、確実に不幸な人生になるということです。

「幸せになりたい自分」と「文句を言いたい自分」はちょうど真反対であるし、それらが心の葛藤を起こしているのです。

そしてここで投影のことを思い出してください。私たちは誰でも例外なく、自分の心の中にある望みどおりの人生を作る事ができるのです。

ですから、「文句を言いたい自分」が心の中の主導権を持っているとすれば、その心の部分に最も都合のいい、つまり文句を言い続けられるような現実ばかりがやってくるということになるのです。

皆さんは、自分の心を静かに見つめたときに、この「文句を言いたい自分」に気付くことはできますか?もしもそんなものはないと思うのでしたら、それはとてつもなく癒しが進んでいる場合か、あるいは抑圧が強くて自覚できない場合のどちらかです。

もしも自覚できるのでしたら、その自分はどんな望みを持っているのか、じっくり見つめてあげることです。そんな自分は情けないと否定してしまうのではなく、しっかりと正面から向き合うことです。

その上で、その自分を選択しないで生きることを決意することです。そうして、「幸せになりたい自分」を心の中で優勢にしてあげることです。

文句を言いたい自分

自分は昔から何に対しても評論したがる傾向があったようです。今でもそうした部分は残っています。学生のときの仲間にも、同じような友人がいました。

今思い出しましたが、社会人になりたてのときの先輩に、評論家と呼ばれている人がいました。どこにでも、一人や二人、そうした「うるさがた」的な人はいるものですね。

またどんなジャンルにも評論家と言われるような人がいるものです。例えば、政治評論家、映画評論家、スポーツ評論家など、本当に様々です。

そうした人たちは勿論それで生計を立てているわけですから、私や職場の先輩のような素人評論家とは比べ物にならないくらい、知識も豊富ですし分析の能力もすぐれているのでしょう。

そして、私たちはプロの評論家と呼ばれるような人たちの言った言葉や書いたものなどを参考にして、それを便利に活用しているという面がありますね。

しかし、評論というものは少し間違えば批評や批判につながります。そうなったら、冷静な評論というよりも文句の類とほとんど同じになってしまいます。

人は誰でも心のどこかに、自分の外側の何かに対して批判したい、文句を言いたいという欲求を持っています。実際に態度に出すかどうかは別として、そうした気持ちがあるのです。

それは生まれたときから死ぬまで、一生を通して持ち続けてしまうものなのです。文句は、自分以外を批判することで反対に自分は正しいということを証明することに繋がるからです。

文句を言いたい自分というのは、実は誰かを否定することが本当の目的ではなく、それによって自分を守ろうとする行為であるということに気付くことです。

幼いうちは、それが表面化しやすいため、子供は親によく文句を言うのです。駄々をこねるというような表現があるのも、文句を言う表現の一つです。勿論子供と言えども、何かの理由でそういう子供っぽさを出せずにいる場合も沢山ありますが。

しかし、いずれにしても成長するにつれて、そうした文句を言いたい自分を抑えて表現しなくなるようになっていきます。そうやって、本音と建前のような二重構造になっていくのです。

つづく

夜空の星

久しぶりに夜空に星が戻ってきたので、双眼鏡でいつもの場所を見ていたら、垂直に上から下に真っ直ぐに落ちる流れ星を見ました。

私の双眼鏡は倍率がそこそこ高いので、結構視野が狭くなります。オリオン座の真ん中にある三つの星がちょうど視野に収まるくらいです。

そのため、双眼鏡越しに流れ星を見ることは今までなかったのですが、まったくの偶然がとても嬉しいことを起こしてくれたわけです。

オリオン座やシリウスの少し左側には肉眼ではまったく見えない天の川があるのですが、双眼鏡で覗くと無数の星ぼしが集まっているさまが見て取れます。

それはそれは美しい星たちなのです。星は首と目が痛くならないなら、いつまでも見続けていたいと思えるくらい、本当にきれいだと思います。

これは趣味の問題ですから、誰もがそう感じるかどうかは分かりませんが、美しいと感じるときというのはその対象が何であれ、自分の中の愛が発動しているはずです。

だからこそ気持ちがいいし、何ともいえない穏やかな気持ちにもなるわけです。でも、そんな美しい星も自分の心の内面の投影だと思うと不思議な感じになります。

え、星も投影の一部なの?と思われるかもしれませんが、それは勿論です。自分が知覚するもので投影ではないというものは一つもありません。

そう思うと、自分の投影がすべて恐れからくるものだとばかりは言えないかもしれないなと思うのです。あれほど美しいものを自分に見せてくれるわけですから、投影も捨てたものじゃないなと思います。

自分の心って本当にすごいなあというのが星を見たときの本当の気持ちかもしれません。みなさんは何を見ると、感動しますか?美しいと思えるものが沢山あるほど、心が豊かになれますね。

今のうちは夜遅くでもまだそれほど寒くもないので、思い切って夜空を眺めてみてはいかがでしょうか?自分の投影に感動するかもしれませんよ。

景気の影響

毎年今くらいの時期になると、卓上用の小さなカレンダーを買います。いつもまったく同じものを購入して、セッションの予約を記しておくために使っていました。

昨日そのカレンダーを買うためにいつもの本屋さんに出向いたのですが、いくら探しても同じ種類のものが見あたりませんでした。

気のせいか、売りに出ているカレンダーの種類そのものが毎年の自分の記憶と比べて、とても少なくなっているように思いました。

仕方なくまったく違う種類のもっと大きめのカレンダーを買って帰ってきたのですが、やはり景気の悪さがこうしたところにも影響を与えているのかもしれませんね。

景気悪化の影響といえば、モータースポーツの最高峰であるF1世界選手権から、トヨタが突如撤退してしまいました。昨年はホンダも撤退し、来年はブリジストンも撤退が決まっています。

ご興味のない方にとっては何の問題もないことのように感じられるかもしれませんが、日本の自動車業界もアメリカ同様に赤信号が灯っていることの証明だと思います。

経済のことについては、まったく無知なのですが、一つ分かっていることは景気の良し悪しは人々の気持ちによって左右されてしまうということです。

私たちの心に不安が広がってくると、間違いなく景気は悪化すると思われます。いやいや、景気が悪くなるから人々の心が不安になるんだと言われるかもしれませんね。

仮にそうだとしても、私たち一人ひとりが景気の良し悪しに気持ちを左右されないようにすることができたら、きっと悪化した景気はあっという間に回復するはずなのです。

景気の低迷を長引かせているのは、間違いなく我々の心のあり方が原因だと言えます。ですから、自分の身の回りに起きていることに心を奪われないようにすることが大切ですね。

何が起ころうとも、心を穏やかな状態に保つことは本当はそんなに難しいことではないはずです。なぜなら、そもそもその心自体が周りの事象を起こしているのですから。

みずから起こした事柄によって自分自身の心を揺さぶられてしまうということは、本末転倒もはなはだしいと思うのです。常に自分が原因だし、景気の悪化も含めてすべての出来事はその結果に過ぎません。

どんなときでも、こうしたことを忘れずにいることができたら、常に心を穏やかに保つことができるはずですね。

愛のセラピー

セッションをやっていてセラピストとして一番困るのは、幸せになりたくないと思っている人がいらした場合です。幸せになりたくない人がなぜ、わざわざセッションにやってくるのか不思議に思うかもしれませんが、これは紛れもない事実です。

仮にからだの病気を治したくないと思っている患者さんが来たとしても、医師はその病気を治すことができるでしょう。本人が病気を治したいか治したくないかに関わらず、物理的な病気は治療できるからです。

しかし、明らかに心因性の症状については、本人がそれを本気で治したいと思わなければ治すことができないのと同じように、幸せになりたくない人を幸せに向かわすことはできません。

一般的に言えば、私たちは誰でも心の中に幸せにはなりたくないという部分を持っています。しかし、その部分は通常心の奥に隠されていて表面に出てくることはありません。

ですから、そうした心があるとは自覚していないのです。ところが、稀にそれをはっきりと自覚している人もいるのです。それは、あまりにもその心の部分のパワーが強いために、隠しておくことができなくなってしまっているからだと思われます。

そうした人は、例えて言えば薬物中毒患者に似ているといえます。禁断症状が出てしまっている人に幸せを求めてくださいと言っても到底聞いてはもらえないのは当然ですね。

そういう状態では、今その瞬間に渇望しているものを満たせればそれだけでいいという切羽つまった心のありようであるわけです。

そういう人にセッションをすること自体に所詮無理があるのかなと思ってみるのですが、そうした場合いつも思うのは、自分が小手先の技術を使ってセラピーをする方向に行き過ぎてしまっていることに気付かせてくれようとしているのかもしれないということです。

クライアントさんとのセッションで一番大切なのは、セラピストの愛です。クライアントさんを愛の塊であると見ると同時に、自分の愛を与えることなのです。

そのことを思い出せば、どんな心の状態のクライアントさんがいらっしゃっても、セラピストがするべきことは悩むことなく一つであるはずなのです。

講座

今年の7月から午前中の時間帯を利用して始めたヒーリング講座が今週で無事終了します。全10回の講座の中で、予定通り二種類のヒーリングスタイルの実習を終えることができました。

初めの頃は、どうなるものかとやや心配もあったのですが、みなさんすぐに上達されてしまい、ヒーリングを受ける側としてもヒーリングをする側としても、生まれ持った感性を最大限生かされたと思います。

受講された方々はどの人もみなさんまじめに取り組んでいただいたという印象を持っています。残念ながら、様々な事情もあって全員の方が卒業できたわけではありませんが、約20名の方々に修了証書をお渡しすることができました。

講座では毎回みなさん一人ひとりの過去二週間のレビューから始まるのですが、それを全員でシェアすることもとても参考になり、大変有意義だったと思います。

この場を借りて、受講されたみなさん全員に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました!

来月からまた、第二期のヒーリング講座をスタートいたします。講座名も、「ヒーラー養成講座」と新たにし、心機一転してより意義深い講座にしたいと思っています。もしも、ご興味がおありでしたら、HPの更新情報をご覧下さい。

また、そのほかにも以下のような新しい講座等も開始する予定です。

○不登校児を持つ親のための講座 3,000円×10回=30,000円 各曜日ごとの定員4名

○カウンセラー養成講座 3,000円×10回=30,000円 各曜日ごとの定員4名

○ヒプノセラピスト養成講座 6,000円×5回=30,000円 各曜日ごとの定員2名
 上記カウンセラー養成講座を修了している必要がありますので、開始は来年になります。

○よりよく生きるための座談会 2,000円 MAX6名(3名以上集まったら開催します)

ドッペルゲンガー

みなさんはドッペルゲンガーという現象をご存知でしょうか?自分と瓜二つと言っていいほどそっくりな人が自分の知らない場所で目撃されたりすることを言います。

世の中には自分にそっくりな人が○人いるというような事を聞いたことがありますが、それとはまったく別の話です。

他人の空似ではなく、完全に自分がもう一人いて、違うところに出現するという現象です。ある種の都市伝説のような感じで言い伝えられているようですが、そのことについて少しお話しします。

私は以前あるヒーリング・スクールのような場所に通っていたことがあるのですが、その授業はホールのようなところにみんなで輪になってすわり、瞑想することから始めるのです。

ある日、私は遅刻しそうになって時間に間に合いそうにないなと多少焦りながら、その場所に向かっていました。程なく、そのホールに着いたときにはもうほとんどの人が着席して瞑想を始めていました。

空いている席を見つけてそこにすわり、みんなとおなじように瞑想に入ってしばらくしてから、隣に座っている女性からこう言われました。

少し前に私に似た人が今私が座っているこの席に急いで座ったのを見たというのです。そしてしばらくすると、今度は私が先ほどの人とまったく同じように急いでこの席に座ったらしいのです。

つまり彼女は同じ光景を二度目撃したというのです。ただ、最初に入ってきた私のそっくりさんは全体的に銀色に光っているように見えたと言っていました。

きっと、遅刻するんじゃないかと思う気持ちが肉体よりも先にその場所に行ってしまっていたのではないかと解釈できます。そういう意味ではいわゆる生霊のようなものですね。

本人の思いとしてのエネルギーが肉体を離れて、その場所に行くのだろうと思うのです。以前私は、自分のすぐそばに友人が直立不動で立っているのを見たことがあります。

その時は、そこに肉体を持った友人そのものがいるというよりは、そこにいるのをはっきりと感じたと言ったほうが近いかもしれません。ただ、目で見たというよりもそこにそうしているのはしっかり分かったのです。

自分の気持ちが外側の何かに強く向かっているような場合に、このようなことが起き易くなるのではないかと思います。また、心が辛くて自分の中にいたくないようなときにも、こういったことが起きるような気がします。

皆さんは経験があるでしょうか?グラウンディングをしっかりして、心を自分の内側にしっかり据えていれば、こうしたことは起きないはずですね。

緊張

面接試験の時とか、人前で何か話しをしなければならないときとか、そういったときに人は大抵緊張するものですね。緊張の反対は弛緩、つまりリラックスです。

緊張し過ぎてしまって、思ったように話しができなくて困るといったことでセラピーにいらっしゃる方もいます。本人にとっては切実な問題なわけです。

勿論、緊張する事自体が悪いことではありません。適度な緊張はかえって気持ちがひきしまり、しっかりとした態度で事を成すこともできるからです。

緊張が困るのは、二つのことです。一つは、緊張の度合いが強すぎて、正常な精神状態ではなくなってしまい、大失敗をしてしまうということ。

そして、もう一つは緊張する理由がなくなった後からも、緊張が続いてしまうということ。つまりずっとリラックスすることができない状態が続くことです。

そして概ねこの二つのことは、おおいに関係があるためどちらか一つというよりも、両方を同時に経験することが多いのです。

緊張は防衛からくるものです。つまり、ダメな自分を見せてはいけない、だから失敗やそそうをしてはいけないという気持ちが強いとひどい緊張状態になってしまいます。

つまり緊張は自分をうまく守れないかもしれないという不安や恐れによるものでもあると言うこともできますね。

従って緊張を緩和するためには、ダメな自分という独りよがりの思い込みをまずしっかりと把握することです。そうして、その思い込みがどこからやってきたものなのかを特定します。

ほとんどの場合は、幼い頃の親からの肯定される経験の不足によるものです。幼いときには、自分で自分を認めるすべを知らないため、親から認めてもらうという体験がぜひとも必要です。

それが十分になされないまま成長してしまうと、自分はダメな存在だというレッテルを自分に貼ってしまいます。その思い込みが放っておくと一生付きまとうことになるのです。

そのことをしっかりと理解して、馬鹿げた幼い頃の自分への思い込みをご破算にしてあげるのです。つまり、それが自分を許すということです。そうすることで、強い緊張で自分を守る必要もなくなります。肩が凝って仕方がないという人はこのことを疑ってみることをお勧めします。

否認 その2

昨日のつづきです。

自分にとって都合の悪い自分を、「それは自分ではない」として自分から分離することを否認というというお話しをしました。

そうやって自分の心には沢山の都合の悪い断片が出来上がってしまいます。それと同時に、その都合の悪い部分を見えなくするために、自分の心の奥深くに隠してしまいます。これを抑圧といいます。

これで表面にいる自分の意識は都合のいい自分だけになって、気持ちよく毎日を生活できるというわけです。

そして、日々の生活の中で、あらたに都合の悪い自分が出現しようとするたびごとに、やはり「それは自分ではない」として、心の奥深くにしまい込み続けてしまうのです。

この否認による自己防衛はうまく機能しているようにみえて、実は限度を超えると大変なことになってしまいます。

それは、あまりに抑圧し過ぎたものは、その下向きの力に反して上向きに逆襲してくることになって行ってしまうからです。

そうすると、今まで理性的に生活していた自分が、いきなり幼い子供のような言動をしてしまったり、急に泣き出したり、怒り出したりしてしまうことになるのです。

何か自分の中に別の自分がいて、それが心の中で暴れているような感じがしてしまうかもしれません。実際、そのようなことが心の中で起きているのです。

これは、都合の悪い自分を見ないように否認して蓋をしてきたことの「ツケ」が回ってきたということに他なりません。これを解決するためには、否認を解除するしかありません。

それには、何を否認し続けてきたのかということをしっかり確認する必要があります。ところが、否認してきてしまった自分の心の断片を直接心の奥に探しにいくことは相当に難しいことです。

それはもしかしたら、苦行難行を積んだ修行僧のような人なら可能かもしれませんが、凡人である私たちにとっては至難の技です。

しかし、そんな難しいことをせずとも自分が無意識に否認してきたものは探さずとも見えるところに実はあるのです。

人の心のメカニズムとして、奥深くに抑圧した都合の悪い自分の部分は、必ず自分の外側へと投影されます。その投影されたものこそ、私たちの身の回りに起きているこの現実であるということです。

従って、目の前にいる都合の悪い人たちを見れば、それがそのまま自分が今まで否認してきた都合の悪い自分であるということです。

誰かを許すとは、否認してきた自分を認めるということと同じであることがこれで理解できたと思います。周りを許すことで分断されていた自分の心が一つに戻るのです。

否認

否認とは自己防衛のもっとも基本的な方法です。自分を守るために、自分の心にある自分にとって都合の悪い自分を人は否認します。

否認することを具体的な言葉に置き換えるとすると、「それは自分ではない」ということになります。自分であるものを自分ではないと思い込むのです。

そうすると、当然の結果として自分であり続ける心の部分と、自分ではないと切り離された心の部分とに分裂することになります。

自分にとって都合の悪い自分とは、たとえば罪悪感を感じさせる自分、自己否定や自己嫌悪を思い起こす自分、つまりダメな自分、あるいは情けない自分、惨めな自分、恥ずかしい自分、無価値な自分など、数え上げたらきりがありません。

たとえば、怒りを感じる自分はダメだと思えば、怒りを感じた瞬間に、その怒っている自分は自分ではないとして否認するのです。そうすると、冷静な自分と怒りを持つ自分とに心は分断されます。

一度それに成功してしまうと、毎日の生活において感じるあらゆる怒りは、瞬間的に自分ではないとされる自分の心へと横流しすることになります。

ですから、表面的な自分はいつもおだやかで、心のやさしい自分でいられるわけです。その分、怒りを受け持たされた心の部分は知らず知らずのうちに激しい憎悪の塊と化していきます。

自分は物事に腹を立てているという自覚がないですから、我慢しているということも分からないままに、怒りの感情だけが、自分ではないとされた自分の心の部分に溜められて行ってしまいます。

怒り以外にも、ありとあらゆる不都合な自分は、自分以外の別のものとして分裂した状態で実は自分の心の中に保たれるのです。

俗に言ういい人というのは、多くの場合こういったことを心の中で無意識的に行っている人であると言えるかもしれません。