起きている事態を許す

「奇跡のコース」では、許しの実践をすることが自分やこの世界を救うことになると繰り返し教えてくれています。シンプルなことですが、実践するのはなかなか難しいですね。

一口に許しと言ってもいろいろあります。一般的には罪深い誰かの言動や目には見えない誰かの考え方や観念を許すということをあげることができます。

これは人が関係することに対する許しなわけですが、それ以外に直接人が絡まないような、起きている事態そのものを許すということもあります。

例えば、渋滞にイライラするのは渋滞という事態を許していないことになりますね。逆に言えば、渋滞を許すということは、その事態に何の反応もしないでいられるということです。

何かの買い物に出かけて、その品物の値段を見て何でこんなに高いんだろうといやな感じになるとしたら、その価格設定を許してないということになります。

おろし立ての新品の靴を履いて出かけたのに、急にどしゃぶりの雨に見舞われたら、まったくもうという気持ちになってしまうかもしれません。

それは自分の不運を許してないということになりますね。許すということは言葉を変えるとその事態を受け入れるということです。

起きている事態を許せない、受け入れられないという心とはどういったものでしょうか?それは、やはり自分を守りたいという欲求なのです。

今起きてる事態によって、自分という存在が傷つけられる、あるいは攻撃されるということはないのだということに気付く事ができたら、防衛しようとする必要はなくなります。

そうなると、どんな事態に遭遇したとしても、それをただ受け入れるということが可能になります。それが、その事態を許すということです。

毎日の生活のあらゆる場面で、この「起きている事態を許す」という実践をすることです。それを忘れないで生活することが大切です。そこから、他の許しも次第にできるようになっていくからです。

不思議な話し

考えてみると自分は昔から不思議な話が大好きです。心霊的な怖い話しやUFOやとにかく常識ではあまり考えられないような物語や話しに惹かれます。

子供のときに、潜在意識というものがあって自分の行動を裏から支配しているということを知って、人の心の奥深さに興味を持ったこともありました。

今はそれが仕事にとても役立っていると言えば言えるので、まんざら無駄なことでもなかったのかなと思っています。

しかし、何でそういった超常現象のようなことに興味があるのかなと考えると、それはどうもこの世界の常識をとにかく覆したいという欲求があるらしいです。

何かを暴いてやりたいという気持ちがあるのです。そうした気持ちは、この世界は実在するものではないというコースの教えにまで繋がってしまいました。

話しとして興味があるというだけではなく、エゴが作ったこの世界の法則から逸脱した経験をしたいのだろうとも思っています。

私自身このブログでも確か書いた、時間に対する不思議な体験も実際していますし、それ以外にも詳細には説明していないことも含めると、そこそこ摩訶不思議な経験をするようになってきました。

そういう体験は、大抵が子供の頃に集中するものだと思っていたのですが、私の場合はその逆で、子供の頃はいたって普通の経験しかしていないのに、大人になってからいろいろな体験をしています。

そうした常識では考えられないような体験をするたびに、おもしろいことに自分の中に二つの相反する見方があることを感じる事ができます。

体験したばかりのときには、ああやっぱりこういったことは起きるのだというシメシメという感覚が来て、それはずっとなくなることはないのですが、一方で時間が経つうちにあれはやっぱり勘違いだったのではないかという疑いの気持ちが起きてくるのです。

その気持ちに気付くと自分でもとてもおかしくなります。エゴが一生懸命に、この世界は実在するということを言い聞かせようとしているのだろうなと分かるからです。

そんな常識的なエゴの声を聞きながらも、毎日もっと不思議な体験したいなあと期待して生きています。エゴに一泡吹かしてあげたいと思うのです。

実年齢

新聞やテレビのニュースなどで、人を紹介するときに必ずその人の年齢が出ますね。括弧で数字がくくられていたら、大抵は年齢を意味すると知っています。

また初めて会った人について、この人は大体何歳くらいなんだろうと無意識的に思う癖が付いているかもしれません。本来その人が何歳であろうが構わないはずなのに、すぐに年齢のことを考えます。

年齢を気にする理由は、いくつか考えられます。例えば、自分と比べて相手は年上なのか年下なのかとか、年齢が近いのか離れているのかとか。

それによって、相手に対する自分の態度を幾分変えて見たり、あるいは相手の自分への態度はこれで問題ないのか等をチェックすることもあるかもしれません。

つまり上下関係の厳しい文化では、自然と年齢を気にせざるを得ないという面があるのでしょうね。日本は、相手に失礼があってはいけないと思うことが強い文化かもしれません。

自分の言動に気をつけるという意味で相手の年齢を気にするだけならいいのですが、相手の態度を年齢から相応しいかどうかを判定しようとすると、さまざまな反応をしてしまうものです。

そして多くの場合は、その反応はネガティブなものであるといえます。例えば、幼い子供だからと思って接していたら、とても大人びた態度や言動をされたらあまりいい気持ちはしないものです。

自分と同じくらいの年齢だと思っている人から、上から目線の態度をとられたらこれもムカッとくるかもしれませんね。

逆に、自分よりも随分と年上だと思っている人から、子供じみた言動をされたら、これもまたやっぱり腹が立つかもしれません。

私たちはいつも歳相応ということを気にしているからです。しかし、実年齢と精神年齢は必ずしも一致しないということは経験から知っているはずなのですが、それを許すことができないのです。

物理的な年齢というものをとても重要視している証拠ですね。心を学ぶと、誰の心にも実年齢とは全く異なるさまざまな年齢の心の断片があることがハッキリ分かります。

実年齢と異なる自分の心を許していないので、相手のその心も許すことができないのです。こうしたことにも、許しのネタはあるということですね。

実年齢も心の年齢も実は本質的な我々の存在とは関係ないと分かる事です。なぜなら、ここでいう精神年齢とは、エゴの年齢のことだからです。愛の心には年齢はないのです。

それはなぜかというと、愛には成長するという概念が当てはまらないからです。愛は永遠に変化しない想念だからです。相手の奥にある愛だけを見つめたら、年齢などどうでもよくなるはずですね。

一人は気楽

ずっと一人でいて全く寂しくないかと言えばそんなことはないのですが、自由気ままで過ごせる一人の時間というのはとても快適なわけです。

ということは、逆に言えば人と一緒にいると気を使ったり自分勝手はできないと思うと、疲れることにもなり、うっとうしいなと感じてしまうと言う事です。

私たちは、一日のうちでその両方をうまくバランスをとりながら生活できている場合には、そこそこ不満を感じないし、それほど疲労することもありませんね。

しかし、それはあくまでも何とかやり繰りし続けているというだけで、根本的なことは何一つ解決しているわけではありません。

そもそも人と一緒にいて疲れるのは、そこで自己防衛をしているからに違いありません。防衛が必要だということは、自分は傷つけられる可能性があるとの思い込みがあるということです。

そして傷つけられるとの思いは、人と自分が対立していることに起因します。対立を維持するために、相手に対して攻撃的な心をいつも忍ばせているのです。

その投影として逆に傷つけられる恐れというものが発生するということです。こうした心のメカニズムは、自覚できるような強いものの場合もあれば、全く気付くことができないような場合もあります。

もしも、自分は人と一緒にいても傷つけられることはないという自覚ができたなら、自分独りでいる時と誰かと一緒にいることの違いはなくなるはずです。

そればかりか、人と一緒に過ごすことが楽しみ以外の何物でもなくなってしまうはずです。なぜなら、他人は自分を決して傷つけることなどできないと分かったら、相手に対して隠し持っている怒りは全くなくなってしまうからです。

そして、相手への感情は愛だけが残ることになるのです。愛しい人たちと一緒にいる時間はすばらしい体験でしかありません。

もうそうなったら、一人は気楽などとは決して思わなくなるでしょう。すべての人がそんな心で生活できたらこの世界は天国になるでしょうね。

共通無意識

かつて、フロイトは人間の心には潜在意識や無意識といった、表面から隠された部分があって、そこが意識の大部分を占めているということを唱えました。

そして更に、フロイトの弟子であったユングは後に無意識のまたその下には集合無意識、あるいは共通無意識と言われる部分があると言いました。

その部分はすべての人類に共通する部分であると同時に、互いにつながっているということも示しました。こうしたことに興味があれば、読みやすい本が沢山出ていますので読んでみてもいいですね。

ここで大切なことは、この共通無意識という考え方は、すべては一つという愛の想念に通じるものだということです。すべての人が深い部分で互いに繋がっていると言っているからです。

一般に知能が高いと言われているクジラやイルカは、我々が表面意識と読んでいる通常の自覚的な意識よりも、この共通無意識の部分が突出していると聞いたことがあります。

真偽のほどは確かではありませんが、人類が更なる精神的な進化を遂げると、クジラやイルカと同じように共通無意識の部分が大きくなって、逆に個人としての表面意識は小さくなっていくことになると聞いたことがあります。

確かに、この自分が自分なのだと認識している表面意識は、自分の個別性を維持しているエゴと考えられるわけですから、心の進化と共にエゴが衰退すれば、自然と共通無意識の領域がメインとなっていくはずです。

現在の私たちの常識では個性を大切にしようとする傾向がありますが、これはエゴを助長させることになるのは明白ですね。

自分は他人とは違うとする意識、自分は特別なのだと思おうとする意識がエゴなのですから、エゴは共通無意識などを否認しようとするはずです。

没個性は絶対いやだと思うのは今までの常識では当然の反応だと私も思います。ですが、許しの実践を通して裁くということを完全に手放していくことは、結局自分と人は一つに繋がっているという境地に戻っていくことだと思うのです。

そしてそれが本来の自分たちの姿であるし、それこそが恐れや憎しみから開放されて愛の自分を取り戻す唯一の方法であるとも思います。

合理化

何年も前のコラムに、「合理化」について書いたことがあります。自分にとって都合の悪い言葉、考え、事態などに遭遇したときに、そこから何とかして逃げようとする心の働きのことを言います。

それは勿論、その都合の悪いモノから自分を守ろうとするまさにエゴの防衛のさせる技であるわけです。人の心が持つ合理化のパワーというのはすさまじいものがあります。

後催眠効果というのをご存知ですか?催眠中にいろいろな暗示を与えておいて、催眠から醒めた後でも本人は無意識的にその暗示どおりに行動してしまうというものです。

例えば、催眠中に「自分の名前を言おうとすると、喉がつかえて言えなくなる」という暗示を与えておいて、催眠から醒めたあとにあなたの名前は?と質問されて、それに答えようとすると確かに言葉に詰まるという状態が起きるのです。

被験者は、自分の名前を言えないなどという経験が今までないわけですから、必死になって言おうとするのですが、どうしても声がでない状態になってしまうのです。

それ以外の言葉は普通に話せるし、自覚としては催眠から完全に醒めているはずなのに、自分の名前を言おうとしたときに限って、言葉が出てこないという経験をするのです。

こうしたことは、表面意識に逆らって、暗示を受けた潜在意識がその暗示どおりの行動を本人にさせてしまうことから起きるのですが、それが「合理化」ととてもよく似ています。

後催眠効果というのは、他者からの暗示によってその通りの言動をさせられてしまうのですが、「合理化」はエゴが自己防衛のためという大義名分を使って潜在意識に命令をするのです。

どちらのパワーもすごいものがあります。しかし、他者からの暗示の場合には、私が知る限りでは本人が不利益になるような場合には暗示に従わないでいられるのですが、「合理化」の方は客観的にみて本人に不利益になると思われるようなことでも、「合理化」が優先されてしまいます。

例えば、どんなに一生懸命上司の言うことを理解しようと頑張っても、「合理化」によって理解力を低下させられてしまうと、何も理解できないという状態になってしまいます。

「合理化」も後催眠効果も、共通していることは本人の理性を超越してしまうということです。 そしてそのために、本人としては自分の言動に不信感を持たないでいられるのです。

「合理化」が起きると、それに気付かない限り、防衛をやめることができません。それはエゴの思う壺なのです。自分の言動をいつも注意深く見つめていることが、「合理化」を見破る唯一の方法かもしれませんね。

伝えるということ

人は自分が信じていることを知らず知らず相手に伝えながら生きています。それは拡大すれば教えるということにもなります。

例えば、親が子供に対して、特別何も言葉で伝えてないとしても、仕事は辛いとか、人生に不満があるとか、これはこうあるべきだとの信念などは、知らぬうちに子供に伝播してしまいます。

友人に対して、はっきり明言しなくても自分が日頃思っていることや信じていることなどは何となく伝わっているものですね。

そして実は明示的に伝える、あるいは教えるということは、知らぬうちにそうしている時以上に自分の信じていることを更に固く自分自身で信じるようになるのです。

このことはあまり知られていないかもしれません。私はこの仕事をするようになってすぐの頃、ふとした時に、「自分の身に起こることは自分が起こしている」という考えが浮かんできました。

そしてそのことを心の中に置いて、いろいろ思考してるうちに、その考え方がとても気に入ってきて、次第に信念に変わってきました。

そして、気が付くとクライアントさんとのセッションの時に、この考え方をお伝えするようになっていました。伝えることを繰り返していくうちに、出来上がったばかりの信念はどんどん確信へと変化していきました。

伝えることは自分の信念をより確固としたものにしてくれるということです。しかし、まだその先があります。それは、伝えたことが相手の心の中でもそれを認めるようになると、それを互いに分かち合うという状態になりますね。

そうなると、確固としたものは更に互いの心の中で強められて、一般的な信念以上のものに成長してくれます。

ただし、互いの心で分かち合えるものというのは、愛に基づくものでしかあり得ません。愛を含まない思考は決して分かち合うことができません。

今、私は自分たちの本質は身体ではなく、スピリットなのだということをできるだけ多くの人たちと分かち合いたいと思っています。それがすべての人の心から恐怖や怒りを消滅させることになるからです。

都合の悪い事

一週間ほど前に、都合の悪い人というのは、自分自身の都合の悪い部分を否認して、それを外側に投影した相手のことだということを書きました。

自分自身の都合の悪い部分とは、自分で認めたくない自分の部分ということです。それは例えば、幼いときに両親が自分にやさしくしてくれないと悲観して、本当の親は他にいると思い込もうとするようなものです。

現実が辛すぎて受け入れがたいようなことが、都合の悪いことなのです。最愛の人を失った直後などは、それを認めることができないなどはよく聞く話しですね。

このように自分の身に起こった辛く苦しいことが、自分にとって都合の悪いことであるのは明白ですが、それとは別に自分自身についての認めたくないことも都合の悪いこととして人は沢山持っています。

例えば、自分は弱くて意気地がない、全く駄目な人間だというような思い込みは、自分にとって都合が悪く、自分自身でそのことを認めたくはないわけです。

同性愛の人がそんな自分を受け入れられずに、大人になってもずっと悩み続けている場合もありますね。そういったことも都合の悪い自分ということになります。

この都合の悪さというのは、一口で表現すれば認められるかどうかということです。そして、認めるかどうかというのは、その判断の元となるある基準があるわけです。

その基準というのは、一般に正しいか正しくないか、あるいはいいか悪いかという見方であるのです。したがって、物事を解釈するときに、正不正、善悪といったことをベースに判断することをやめてしまえば、都合の悪い自分というのがなくなっていくのです。

それが自分を否認しない、つまりどんな自分でも認めることができるという状態なのです。それは、どんな自分でも許すことができるということと全く同じですね。結果として、自分の罪悪感を手放していくこととも一緒です。

みなさんは、都合の悪い自分をどのくらい持っているでしょうか?それを洗いざらい表面化した上で、一つひとつを許して認めることができたら人生はこの上なく幸せなものになると思います。

季節の移り変わり

最近長袖が恋しい季節になりました。毎年、夏が去って行ってしまうのが惜しくて、それに抵抗する気持ちなのか、できるだけ半袖で過ごそうとしてしまいます。

どちらの気持ちが自分の中で強いかによって、その日に長袖を選ぶか半袖を選ぶかが決まります。10月後半ともなると、もう大抵長袖を選ぶようになってしまいますが。

こうした季節の変化は毎年同じように経験しているはずなのに、いつもこの変化が自分にとって初めて体験するかのように新鮮なのはなぜなのでしょうか。

季節の変化というのは、体調を悪くする要因にもなりますが、情緒的な趣きがあっていいものですね。人はみな変化を好むのです。恐れを伴う変化という一つの例外を除いてですが…。

なぜ変化を好むかというと、これにはいろいろ異論もあるかもしれませんが、根本的には変化するものに人は注意を向けていることができるからです。

つまり、自分の周りに変化するものがあれば、それだけ自分の内面よりもその外側で変化するものの方に意識を向けていることができるからです。

ということは、内面を見つめることを恐れているということですね。これは、いつも多忙にしていたり、絶え間なく何かを考えていたり、じっとして落ち着いていることができなかったり、瞑想が苦手だったりということと同じなのです。

変化がないとすぐに退屈してしまったり、何もしないでいると手持ち無沙汰であったりしてしまうのも同じことですね。

「コース」では真実は永遠であって、変化はしないものだと言っています。逆に言うと、変化するものはすべて真実ではないということになります。

赤ちゃんは生まれてすぐに自分の周りの動くものや変化するものに興味を持って、この世界を学習し始めます。そうやって次第に大人になっていくことも自分の変化ですね。

その変化が真実ではないと言われても納得できないかもしれませんが、突き詰めて物事を見つめてみると確かに真の愛は不変だと分かるし、本当の幸せは永続的な心の平安ですから、やはり真実は変化しないのです。

そしてこの世で変化しないものはありません。だからこの世には何一つ真実と言われるものはないということになります。この世界を物質世界として認識してしまうと確かにそういうことになってしまいます。

そして変化するということから恐怖が発生するということも事実です。死は生きることからの変化ですし、病気や怪我で苦しむのも、健康な状態からの変化に他なりません。

時間が経過するという変化、場所を移動するという変化、こんな根本的な変化も真実ではないということです。つまり、時空は作り物だということが分かります。

自分が何を信じるかは自由ですし、信じたものがその人にとっての真実と思えるようになってしまいますが、真実そのものが変わることは決してありません。

何が真実で、実在するのかということを本当の意味で理解することは自分が何者かということの理解と深く結びついているとても大切なことなのです。

感じる心 その2

昨日のつづきです。

何かを美しいと感じる心は誰の心にもあり、それは愛を感じているのと同じことだという事を書きました。ですから、不安や恐怖を強く感じているときには、何を見てもきっと美しいとは感じなくなってしまうのだろうと思います。

楽しいと感じること、嬉しいと感じること、喜びを持って生きること、そうしたことはすべて、上記の何かを美しいと感じるのと全く同じように、みんな愛を感じているのです。

同じ「楽」という漢字であっても、楽しいのと楽なのは少し意味が違います。というのは、自分が肉体的に楽でなかったとしても愛を感じていられることは可能だからです。

それは例えば、誰かのために愛をもって何かをしていて、自分の身体がきつくなってしまうことがあるかもしれません。それでも愛があれば、決して不満な気持ちにはなりませんね。

また逆に言えば、楽な状態にいるからといって愛を感じているとは必ずしもいえないということです。ジャグジーに浸かりながら、よく冷えたシャンパンを飲んでいい気分になったとしても、誰かを憎んでいることを思い出したとしたら、その瞬間愛を感じることはできません。

敢えて言えば、身体ではなく心が楽であるのなら、それはやはり愛であるとは言えるかもしれませんね。

心が楽ということは、不安や恐れや怒りがないということが言えそうだからです。心が楽とは、平安な心の状態というニュアンスと通ずるところもありますね。

また楽という文字については、快楽という言葉があります。快楽と言ったときには、大抵は肉体的な快適さや麻薬的な心地よさというものを連想させます。

ですから、そこには直感的に愛があるようにはあまり思えません。こうして考えてみると、やはり愛は身体とは何も関連しない心の中でのことだということがあらためて分かります。

自分の心のうちで、どのようなことを感じているときこそ、愛の状態になれているのかということを日ごろから分かっているといいと思います。そしてその逆である愛でない状態についてもしっかり把握しておくことが大切ですね。