奇行

人の不思議な行動、あるいは理由が分からないような言動というのは時々あるものです。そういったものを奇行と言いますね。

例えば、自分は下唇の内側を噛んでしまうという癖を持っています。勿論、唇の皮膚に傷をつけてしまうことになるので、理性としてはやめたいのですが、気が付くとやっていることが多いです。

何気なく髪の毛をぬいてしまう抜毛症と呼ばれる行動や、氷をボリボリ噛み砕いて飲み込むことがやめられないという人もいらっしゃいます。

こうした行為というのは、自分でもその理由が分からないばかりでなく、やめたいと思ってもなかなかやめられない場合が多いのです。

このように、奇行というのは見た目が常識から考えると理にかなってないような行為なわけです。そして、そうすることの目的や理由が他人からも自分自身にもはっきりと分からないという特徴があります。

だからこそ、奇抜な行動として人の目に映るのです。そしてもう一つ不思議なことに、そんな奇行をしている本人は、そのことを真剣には不思議だとは思っていないということです。

それはなぜかというと、そういった行動の原因となることを真剣に探るということは、実は自分にとってとても都合の悪い事実に気付いてしまうからなのです。

人のどんな行為であっても、そこに原因がないということは絶対にありません。必ず、その言動にはそれなりのきちんとした理由、源となる原因があるのです。

その原因のほとんどが、幼い頃の心の傷であるということです。その辛い傷を自分からも他人からも隠すように生活していると、その隠されてしまった心の傷が何とかして表面に出ようとします。

つまり、なんらかのサインを送ってきます。それが、奇抜とも思える言動として発生するということなのです。自分には、ちょっとした奇行があるとの自覚があれば、それが何からくるサインなのかを考えてあげることはとても癒しの助けになります。

自分の言動に注意を払ってあげて、奇抜なことをしていないか観察してみてください。もしかしたら、えっと思うようなことに気付いてあげることができるかもしれません。

重荷をおろす

私たちは時として、知らず知らずのうちに自分に対してとても過酷な重荷を背負わせています。一番代表的なものは、自分の人生にしっかりとした責任を持つというものですね。

どんなに辛かろうと、生まれてきてしまったからには、天寿をまっとうしなければならないとか、いつも正しくあらねばならないとか、いつもたくさんの重荷を背負わせてしまっています。

何だか頑張らねばならない、いい加減ではいけない、とにかく人に後ろ指をさされるようではいけない、など数え上げたらきりがありません。

何かというと、自分には○○するべき責任があるということばかりを主張する人や、それが自分の義務ですからと自分を追い込むタイプの人もいますね。

なんだか立派な人のように感じないわけでもありませんが、どうも堅苦しいし、そういう人と話しをしていると息が詰まる感じがしてきてしまいます。

いつも最も正しい判断をしなければならないと思っている人は、きっと気が休まることがないのではないかとこちらが心配してしまいます。

どうしてそんなに自分に重い荷物を背負わせておきたいのでしょうか?確かに手ぶらで気楽に歩いている人よりも、思い荷物をしっかりしょって一生懸命歩いている人のほうが立派なような感じがするかもしれません。

しかし、重荷を背負って幸せな人はいいのですが、もう辛くて肩が痛くてしかたがないというくらいに疲労してしまっては、人生から笑顔が消えてしまいます。

重い荷物を降ろして身軽になるということは、実は勇気がいることなのです。そのことに気付いている人は少ないかもしれません。

自分は何かわけのわからない重荷を背負っているかもしれないと感じるのでしたら、その重荷の正体をしっかり見つめてみることです。

その重荷は自分にはいらないと決意することができたら、きっとすがすがしい気持ちの毎日がやってくるはずです。

淡々と生きる

以前ハワイに数年住んでいた経験がある人から聞いたのですが、ハワイは日本のような季節による変化がほとんどないので、何かベターっとした数年だった印象があると言っていました。

確かに日本にいれば、数ヶ月に一度は大きな季節の移ろいというものを感じながら生活しているので、何かこう一年のめりはりのようなものがあると思いますね。

季節の移り変わりというのは、どうも身体にとってはこたえるもののようですが、気持ちの上では目に映る周りのものがいろいろな変化をするので、その変化を楽しむことができたりします。

女性の身になると、きっと季節によってさまざまなおしゃれができたりするでしょうから、そういう楽しみもあると思います。

サラリーマンの時には、週末は会社がお休みというのが一週間のけじめのような役割をしていてくれた部分があったと思います。その分、月曜日が何となく明るい気分になれない感じでしたね。

それと月の中で給料をもらえる日というのがありますので、それも月のどのあたりを自分が生活してるのかということの目安になっていたと思います。

それが、今のようなセラピストの仕事をするようになってからは、週末というものが実質ないようなものなので、今日が何曜日なのかという思いがものすごく薄れてしまいました。

それとボーナスは言うに及ばす、給料日というものがなくなってしまったので、月末なのかどうかというような感覚すら消えてしまいました。

サラリーマンのときのような出張というものもなくなり、毎日同じ部屋で、来て下さるクライアントさんを相手にセッションをする生活は、ほとんど年間通して変化がありません。

そういうわけで、本当にめりはりのない毎日というものを送るようになってしまいました。自分としては、実はそれが意外に心地いいのですが、いろいろな変化を求める人にとってはもしかしたら退屈な人生に感じてしまうかもしれませんね。

毎日を淡々と生きるということ、これは何物にも勝るかけがえのないもののように感じてしまうのは私だけでしょうか。

スピーカー

ある知人からネット上で簡単にできる姓名判断のサイトを教わり、試してみたことがありました。自分のフルネームをひらがなで入力するだけで、すぐにそこそこ細かな情報が出てくるものでした。

その占いのアルゴリズムはよく分かりませんが、どうやら入力されたひらがなから、その名前の発音のパターンを作り出して、それで分類するというものらしいです。

結果、自分は『スピーカー』という名前で分類されたグループの人間らしいのです。名前の通り、とにかく話したがり屋だということですね。

数年前でしたら、納得しなかったかもしれませんが、今ではなるほどと思わざるを得ない状態です。それというのも、セラピストという仕事をしていてつくづく感じるのは、自分が分かっていることを全部伝えたいといつも感じるからです。

初めのうちは、ただ自分が仕事に真面目に取り組んでいるからだと思っていたのですが、どうやらそれは伝えたい、話したいという気持ちが強いからではないかと分かってきました。

ただそれだけでしたら、このスピーカーという体質も仕事の役に立つと思えるのですが、困った点もあるのです。

それは、話したがり屋というのはおまけがあって、相手のことを思ってアドバイスをしたことに相手が従わなかったときに腹をたてたり、傷ついたりすることがあるということです。

こうしたことは、最近ではほとんどなくなったのですが、この仕事を始めたばかりのころは、かなり自分でもその自覚がありました。またこのことで、一つの疑問が解けた気がしました。

それはなぜ自分は一人でいることを好むのかということです。孤独が好きというのも何となくまやかしっぽい感じがしていたのですが、どうやら本当は人と一緒にいて話しがしたいけど、聞いてもらえない場合に自分がすごく傷つくということを恐れているせいだと気付いたのです。

できればあまり人とは関わりたくないというのは、そうした恐れが原因だったようです。人を誘ったりすることがほとんどないですし、独りは何と言っても気楽だと思っていたのはそうした隠された事情があったのでしょうね。

自分のことはなかなか分からないものです。普段、占いなどにはいっさい興味を持ってないのですが、こうして役に立つこともあるのだなあと再認識したしだいです。そして、こうして毎日ブログを更新し続けているのも、スピーカーだからかなと思っています。

骨身を削る

比較的楽な人生もあれば、苦労の多い、まさに骨身を削るような思いの人生もあります。どうも人は(特に日本人は)楽をしてはいけないというような潜在的な何かを持っているように思います。

辛く苦しいものを乗り越えてこそホンモノに出会えるというような気持ちを誰もが持っているのではないかと思います。人生は修行なのだということなのかもしれません。しかし、それはエゴの思いです。

人生の苦闘が人生の意義だとエゴが言い張るのですが、そういう声には耳を傾けないことです。エゴは何かを成し遂げて成長することに意義があるとも言います。場合によってそれには、名声を得たり、財を成すことが含まれるかもしれません。

楽して成功してはいけないとエゴは訴えてきます。苦労は買ってでもしろと昔の人は言いますね。しかし、苦労しないと本当に大切なことに気付くことができないでしょうか?

そんなことはありません。お釈迦様は何十年にも渡る苦行をしても悟ることができませんでしたが、菩提樹の下で何日間か瞑想しただけで、悟ることができました。その時にあの苦行は全部いらなかったと言ったそうです。

苦痛を乗り越えられたならまだいいのですが、苦しみの中にいてそれを耐えていることに意義があると感じるのでしたら、人生は辛くなければならないということになってしまいます。

こういった考え方はすべてエゴの作戦です。自分の骨身を削る必要など、何一つとしてありえません。苦しみには愛はひとかけらもありはしません。ですから、そんな愛のないところに意義などあるはずもないのです。

怠けるということとは別の楽をすることです。実は本当の怠け者というのは案外辛いものです。真から楽になれるというのは、防衛をしない心の状態になるしかありません。

忍耐や我慢というものを防衛の手段としていては、決して幸せになることはできません。 骨身を削る人生とは、自分を何かとトレードしている人生とも言えます。

そんな人生はいつまでも辛く苦しくて、不平不満だらけです。自分に犠牲を強いた分だけ、訴えたい気持ちが募るものです。何があろうと、何はなくても、楽で楽しくて、嬉しい平安な心を選択することです。

収入と支出

サラリーマンのときには何も気にする必要がなかったのですが、自営で仕事をするようになって初めて毎年の確定申告をする必要が出てきました。

そのためには、一年間の収入と支出をはっきりさせなければなりません。まあこれは、税金を払う義務があるからするというよりは、主婦が家計簿をつけるのと同じような感覚で毎月のお金の出入りをチェックするという当たり前のことですね。

収入が支出と同じかそれ以上でなければ赤字となってしまうわけです。もしも、買いたいものがあったとしても、収入に見合わなければあきらる必要があるかもしれません。

つまり、収入がこれだけだから、支出はこれだけに制限せざるを得ないということです。勿論収入が毎日の生活のレベルよりも多ければ、そういった制限を持つこともないのですが、無制限にして毎月が赤字になっては困るわけです。

しかし、この収入と支出のバランスを考慮するということは、当たり前のように誰でも考えていますが、実はこれは単なるエゴのルールなのです。

もっと言うと、収入がこれだけなのでという時点で、それは自分が心の奥で設定した収入の通りになっていることを知ることです。

いやいや、自分が設定したのあればもっと多くの収入にするはずだと思われるかもしれませんが、収入というのも自分の投影でしかないということを考えると、やはり自分の設定値となっているのです。

その結果、支出をみずから制限することになるのです。つまり、自分の豊かさというものを自分があらかじめ決めてしまっているのです。

もしも、自分の収入に不満があるというのでしたら、そういった不満がある状態こそ自分の人生にふさわしいとしている自分の心があるということです。

これを打ち破るには、まず収入に見合った支出という考え方そのものを手放すことです。無駄使いをするということよりも、自分のアイデアを実行するのに必要な支出を制限しないようにするということです。

そうすると、自然と支出に見合った収入がついてくるはずです。なぜなら、自分のアイデアを実現することを自分に許可したため、それに相当する収入を得ることも自分に与えるようになるからです。

収入と支出のバランスを賢くとろうとして結局望むことができないと現状に不満を持つ代わりに、常に支出に収入が付いてくると考えることで、現状を打破することができるのです。

もしも現状に不満を持っているのでしたら、是非試してみてください。必ず、何らかの成果が出てくるはずです。

レンティキュラー

昔よくお菓子などのおまけとして付いていた、見る角度を変えると違う絵が見えてくるプレートがあったのをご存知でしょうか?

専門的にはレンティキュラー方式というらしいですが、製造コストが意外にかかるらしくて、最近ではほとんど見ることもなくなりました。

この世界のことをボーっとイメージしていたときに、ふとそのお菓子の景品のカードのことを思い出しました。 この見る角度を変えることによって全く違うものが見えてくるカードと、この世界はまさに同じなんだな~と思います。

この世界は見る角度を変える代わりに自分のマインドを変えることによって、全く違う様相を呈してくるということです。

自分の周りにいて、日ごろからいやな人だなあと思って、ついその人に会うことがうっとうしくなってしまうことはありますね。それは、その人のことを自分のある一部のマインドを使って見ているわけです。

そのマインドの部分を使い続ける限り、その人を天使のように思って見ることはできません。これはどんな努力をしようが、変わることはありません。

しかし、自分のマインドの違う部分を使ってその人のことを見つめてみると、例のカードと同じように、全く違ったその人を見つけることができるのです。

そして見る対象は人に限らず、ありとあらゆるものに対して同じことが起こります。道端に生えている名もない草を見ても、虫一匹を見ても、何もかもがこのマインドを変えることで違って見えてくるのです。

目の前に見えることをそのまま信じないことです。私たちはおまけのカードのように片方の見方ばかりを使って見えるものを判断してしまっています。

すべての事物はもう一つの顔を持っていることをいつも覚えておくことです。何かを前にして、自分がいい気持ちがしないときは、必ずもう一つの見方があると思い出すことです。

そしてその時にもう一つのマインドで見ることができたら、必ず穏やかな気持ちのいい自分になることができます。自分が見ようとして選ぶほうを見ることになるという真実を忘れないことですね。

瞑想 その3

数ヶ月前に、私が我流でやっている瞑想について書いたことがありました。瞑想をするにはどうすればいいでしょうか?とか、うまく瞑想ができないのだけれど、何がいけないのでしょうか?

そういった質問をされることが時々あります。瞑想というのは、自分の意志で何かをするということから離れるということです。

ですから、厳密な意味では、瞑想をやる、という意識ではもうすでに瞑想ではなくなってしまいます。瞑想をし始めるときには仕方のないことですが、始まったら自分の意志から開放されて、何もしないということです。

頭にいろいろなことが浮かんできても、そんなんじゃ瞑想にはならないなどと思わないことです。雑念が浮かんできたら、その雑念から離れることです。そうして、また浮かんできたら、またそれから離れるのです。

そうやって何度でも浮かんできては離れるを繰り返すこと、粘り強く最初の決心をし続けること、これこそが瞑想だと思えばいいのです。

うまく無念無想になれてないとか、こんなんで瞑想できてるのかな、などとは思わないということです。そういうことを毎日続けていると、何度やっても雑念が邪魔するなと思ったとしても、何となく心が穏やかな状態になれるようになってきます。

自分の心をうまくコントロールしようとしないことです。自分が何かの物事に従事しようとはしない決心を続けるということです。そしてそれをうまくやり遂げるということに価値を置かないということです。

瞑想に必要なのは、どんなものであれ自分の意志から離れているという心境に自分を連れて行ってあげるということです。はじめのうちは、大抵は眠ってしまうかもしれません。

しかし、起きていて自分が物事をコントロールしようとしない心の空間には、別の意志が進入してきます。本当は元々あった実在の意志のようなものですね。

少しずつ試してみてください。気がつくと、癖になってくるはずです。

手柄

私たちは頑張って、努力や苦労をしたものだけが、それに応じた報酬を手にするべきだという一般的な考えを持っています。苦労は買ってでもしろなどという言葉もあるくらいです。

頑張って何かを成し遂げたことを、自分の手柄にするプライドのようなものがあるのです。それは非常に強力なある種麻薬による刺激のような魅力を持っています。

例えば、志望する学校を受験して合格した場合、ほとんど勉強せずに合格してしまった場合と一生懸命勉強したすえに合格できたのでは、何となく価値が違うように感じるのです。

しかしよく考えてみると、どちらも合格するという目的を達成したことには変わりないのですが、その二つのケースでは達成感も全く違うはずですね。

大好きな人にプロポーズをして、一度でOKしてもらったときより、何度もふられた末にあきらめずにプロポーズをし続けてやっとOKをもらえた時のほうが何倍も嬉しいかもしれません。

貧しい家に生まれて、苦労をして育った人が一大決心をして大金持ちになるのと、生まれながらに大金持ちの家に生まれて、自分は何もせずに親の財産を相続するのとでは、人の評価が異なります。

実はこれが、自分がしたこと、この自分の手柄なんだという意識、プライドの働きなのです。そこに非常に大きな魅力を感じてしまうのです。

しかし、本当は私たちは生まれついて何でも持っているのです。これは、純粋な愛の心の部分とつながった経験がある人にはわかります。

エゴから切り離された瞬間に、自分は完全に満たされているとはっきり分かるのです。上記の例で言えば、もともと大金持ちの家に生まれているようなものです。

しかし、そのことを認めずに貧しい自分をまず演出して、この自分の力で一からお金持ちになるという手柄を作りたいのです。そして、お金持ちの家に生まれたことはそのうち本当に忘れてしまいます。

本当は何の努力も苦労も必要なく、すべてを手に入れているのですが、それでは全く自分の手柄を作り出すことができないので、都合よく忘れてしまったのです。

骨を折って努力した結果ではない報酬を受け取るのは、屈辱的だと感じるのです。自分が無力なままになってしまうと感じるからです。

それは何もしないで恵んでもらう物乞いと同じじゃないかと思ってしまうのです。それが何よりいやなのです。

真実は、自分が努力して得られる報酬はニセモノだということです。自分は生まれながらのお金持ちのように、はじめからすべてを与えられている存在だということに気付くことです。

それには、自分の手柄による満足感、自分の力でやれたということを犠牲にする必要があります。でも、それさえ犠牲にすれば、すべてを手に入れることができるのです。

お金の意味

私たちは満足を獲得する手段としてお金というものが必要なのだと思っています。必要十分なだけのお金が手に入ったら、それを手段として身体や心の充足をゲットできると思っています。

しかし、お金の本当の意味というのは、充足自身の不可欠な要素であると考えることができます。そのことをはっきり理解することができると、お金の不安はきっとなくなるはずです。

例えば、あるアイデアが心に浮かんできて、それを実現するためにはまず先立つものとしてのお金を準備する必要があると考えてしまいますね。

それは希望を叶えるための手段としてのお金というものを見ているということですね。しかし、アイデアにはそれ自体の充足のために必要となるものがすべて含まれるということです。お金もその一部として必然的に現れ出てくるということです。

なにものにも捉われない自分のうちのアイデアをしっかり抱くだけで、充足に必要となるものはおのずと集まってくるということです。

それは勿論お金だけではなく、人材や場所や時間など、ありとあらゆるものがひとりでに充足の一部分としてやってきてくれます。

お金はお金だけでひとり歩きするようなものではありません。お金の意味とは、金庫や銀行に預けてあるいわゆる貯蓄されることには全くないということです。

実はお金に限らず、どんなものでも、純粋なアイデアに必要なものはその一部分として揃うことになっているのです。

今から約10年前に会社を辞めて、今の仕事をするようになったのですが、今だから分かることなのですが、その職を変えるというアイデアには完全とも言える必要なものが全部用意されました。

勿論その中にお金も含まれていましたが、アイデアが一番最初に心に浮かんだときにはまだ何もそれに必要なものはありませんでした。

それでもそのアイデアを無視せずにいたら、そのアイデアそのものがそれを実現するために必要なものをその一部として集め始めました。

お金は必要ですが、単独で準備するものではないのです。一度でもそういったことを経験してる人はこの意味が分かるはずです。もしも、まだ経験がなければ純粋なアイデアを心の中に探してみることですね。そこからすべてが開始されるはずです。