重要な選択

私たちは、人生の中で大切な岐路に立ったときに、非常に重要な選択を迫られることがありますね。この選択を間違えてしまうと、人生に大きなダメージを受けてしまうというようなことがあるかもしれないと思ってしまいます。

この人を人生の伴侶として本当にいいのかとか、この会社を辞めるべきか、続けるべきかなど、多くの重要な選択が必要な時というものが、どんな人の人生にも必ずやってくるわけです。

そんな時、いろいろなことを多角的に考えて、経験者の意見を聞いたり、場合によっては占いなどに頼ったりして、失敗しないようにその選択をしようとするかもしれません。

しかし、実は本当に大切なことは選択に失敗しないようにすることではありません。なぜなら、選択を間違えたと思ってもそれはいつも修正できるし、仮に修正できないと思えることでもそのことで人生を台無しにしてしまうということにはならないからです。

「奇跡のコース」では自分の人生を幸せなものにするには、自分の心の愛の部分に相談して、物事を決めることだと言っています。

その真意は、選択を間違えることのないようにということではないのです。実は選択に間違うということは本質的にはありません。たとえ、自分が失敗したと思えるとしてもそれはあくまでもエゴの観点からです。

物理的な選択をどうしようとも、それはあくまでも表面的なことに過ぎず、そのことが直接その人の人生の幸不幸を左右するわけではありません。

したがって、人生の岐路に立ったときに一体自分はどうしたらいいのだろうと悩む必要はないということです。最も大切な選択とは、決して目に見えるようなものではありません。

それはとても内面的な選択であるはずです。したがって、自分以外の誰からも見えるものではありません。もっとも大切な選択とは、愛を選ぶということに尽きます。

このブログでも今までに何度もお伝えしていることですが、エゴの自分の代わりに愛の自分を選択するということが幸せへのパスポートなのだということです。

それ以外の選択で重要な選択というものは本当はないのです。そのことをもう一度、よくよく見つめてみることです。そうすると、選択に苦慮するということはきっと少なくなるし、大切な選択にだけ意識を向けて生活することができるようになるはずです。

抵抗勢力 その2

昨日の続きです。

誰の心の中にも、自分の人生をうまく行かせたくないという意識が潜んでいて、そのパワーが勝つと望みが叶いそうになった時に、それを妨害されることがあるというお話しをしました。

自分はその妨害には全く関わってないように思えても、実はそういった邪魔を引き起こしているということです。いわゆる投影ですね。

投影は無意識の中のものによって行われるので、我々はそれを自分がやったと自覚することができません。ましては、自分の人生を台無しにするようなことを自分が起こすはずはないと思っています。

このような、人生を妨害しようとする意識、つまり自分の心の中の抵抗勢力の目的とは一体なんでしょうか?それが分からないと対処のしようもありませんので、まずそれを見極めることです。

例えば、我々は自分にひどいことをした人に仕返しをしてやりたいと思ったり、許せないという思いでいることがありますね。でもそうした気持ちでいて、同時に自分が愛に満つる平安な心でいられることはないと知っています。

つまり、簡単に言ってしまえば、幸せよりも復讐を選んでいるということなのです。その人を愛で包んですべてを許すことができたら、本当にすがすがしい気持ちになるのですが、それよりも憎むほうを選ぶということです。

心の中の抵抗勢力もそれと同じだと考えれば分かりやすいのではないでしょうか。人生がうまく行きそうになると邪魔をするのは、自分は愛が足りないという訴えを続けることができなくなってしまうという恐れからなのです。

十分な愛を外部からもらえた時だけ自分は満たされると思い込んでいるため、その望みが叶うまでは訴え続けようとするのです。しかし、人生がうまく行ってしまったら訴えることができなくなってしまうと危惧しているのです。

それは本当に本末転倒な考え方としか言いようがありませんね。愛を与えることだけが、自分の心の中を愛で満たすことができるということをもっと明確にすることです。

その逆である愛が欲しいという立場を続けている限り、永久に満たされることはありません。期待する人生から与える人生に切り替えていくことを実践することで、そうした抵抗勢力が弱まっていくはずです。

抵抗勢力

人生には、ここはとても大事だと思えるような場面とか時期というものがあります。そういう大きなチャンスをうまくものにできた時はいいのですが、何らかの理由で失敗してしまうこともあるでしょう。

特に、自分自身の問題ではなくて、周りの人や周りで起きたことに邪魔されてしまい、残念な結果になってしまったという場合は辛いものがもありますね。

それは自分としては不可抗力というか、どうしようもないわけで、そうしたことが二度三度と繰り返されるとしたら自分の人生は何て運がないのだろうと落胆してしまうかもしれません。

努力の結果もむなしく、自分のミスで受験に失敗するとか、オリンピックの選手が大切な試合の直前に自分の不注意で怪我をして出場できなくなってしまったとかなら、ある意味自分を悔い改めることで出直そうと言う気にもなれるでしょう。

しかし、選手本人のミスではないのに試合にでられない事態になってしまったとしたら、それはとてもやりきれないですね。実は本当にあった話しなのですが、以前オリンピックの確か陸上競技のしかも優勝候補の選手が、コーチのミスで試合の開始時間を間違えてしまって出場できなかったという事件がありました。

人事ながら、このニュースを聞いたときにその選手の心境はどんなだろうと想像してしまったことがありました。本人のやらかしたミスではないので、悔い改めることもできません。

一体その理不尽さや怒りをどこへもって行けばいいのか分からないはずです。コーチに怒りをぶつけたところで、もう4年間の努力は報われることはないのですから。

それ以外にも、やっと最愛の人と結婚することになった矢先に、相手の人が事故で亡くなってしまったり、希望する企業に就職が決まって希望に燃えて入社したら、業績不振でその会社が倒産してしまったり、そういう話は世の中にいくらでもあります。

自分が直接かかわっていないこういった事象も、実は自分の心がからんでいます。言ってみれば、自分の人生を成功させたくないという意識が潜在意識の中に隠れていると、そうしたことを起こしてしまう場合があります。

本人は絶好のチャンスを手に入れて、成功させて幸せになりたいと思っているのですが、そうした人生の流れを妨害して成功を阻もうと企むエネルギーが自分の心の中にいるのです。

これは大なり小なり誰の心の中にもあります。問題はそのパワーが大きいかどうかというだけです。それが小さければ、幸せになろうとするパワーが勝って、邪魔されずにすむからです。

つづく

正しさへのこだわり

ガリレオは約400年前に、当時の世の中を支配していたカトリック教会の教えに反対して、地球は宇宙の中心であり、その回りを太陽がまわっているという“天動説”を否定し、地球が太陽の回りをまわっているのだというコペルニクスの“地動説”を支持しました。

そのために彼は、おそろしい宗教裁判にかけられ、異端の罪で有罪とされてしまいましたが、その時の「それでも地球は回って(動いて)いる」という彼の言葉は有名ですね。

自分が正しいと思ったことを信念を持って貫き通すということに、人はその勇気と一貫性のある態度を賞賛をもって迎えるようです。

ガリレオのように、たとえ迫害されようとも毅然とした態度で、自分の信じることを訴え続ける人はすばらしいなと私もずっと思ってきました。

ところが、最近は自分にとって価値のある唯一のものは真の幸せだけだということに気付くことができたおかげで、こうした正しさや信念というものへのこだわりがほとんどなくなってしまいました。

信念を主張するということは、心のからくりを見ていると、自己防衛だということも分かってしまったからです。「コース」には、自分の正しさと幸福とどちらを選びますか?というような表現があります。

実は正しさというのは自己防衛の一つの手段でしかないのです。正しさへのこだわりは、強く防衛したいという思いの表れであって、自分を守らないでいい人にとってはとりたてて正しい自分でいることに頓着しないのです。

自分が無頓着でいられないのは、自分や自分の信じていることが正しいかどうかということではなく、自分が幸福かどうかという一点に尽きます。

そこだけが唯一自分にとって本当に大切なことなのです。つまりは、正しさに価値はないということですね。そうなって初めて、人のことも正しいかそうでないかという観点で見ることから開放されます。

つまりそれが裁かないという見方なのです。どちらの言い分がより正しいか、より事実に近いかということを争う裁判などに勝ったところで、結局幸せになることはできません。

そんなことより、自分の内面の平安な心の部分とどれだけ繋がっていることができるかということをいつも意識していることだと思います。

心の平安

私たちは自分の心が平安でいられるためには、心がかき乱されるようなことが身の回りに起きない必要があると信じてしまっています。

自分や大切な人が病気になったり怪我をしてしまったりしたら、穏やかな気持ちではいられません。お金がなくなったり、仕事に行き詰ったりしたら不安にさいなまれてしまいますね。

しかし、そうしたことで心が平安でいられなくなってしまうというのは、実は当然の結果ではありません。本当は、真の心の平安はそういったこととは全く無縁であるからです。

もしも、今心配事がすべてなくなり、とても平安な心の状態であったとしても、明日また何か心配ごとが起きて平安ではいられなくなるかもと思ってしまうとしたら、もうその時点で心の平安はなくなってしまいます。

つまり、自分の外側に起きることが自分の心の状態を左右すると思っている以上、決して真の平安を得ることはできないということです。

したがって、本当に心の平安を求めるのであれば、自分や自分の身の回りで何が起きてるように思えたとしても、それと心の在りようは繋がってはいないということに気付くことです。

それは、自分の心の中には、何があろうとも永続的に平安でい続けている部分があるということにはっきりと気付くということであり、そこは本質的に不変なのです。

そしてその心の部分を見つけてそこから離れないように注意深くしていることができれば、いつだって心は平安でいられるのです。

心の平安でいる部分では、同時に委ねる心とも一つであり、無防備でいられる心とも一致します。ですから、意識的に委ねるということを実践し、なるべく無防備になれるように工夫することでも心の平安の場所を探し出すことが容易になるということです。

そして委ねる心や無防備でいる心とは信頼がベースにありますね。そしてそうした心は受身ではなく、常に与える状態でしかありません。もちろん与えるものは愛です。それが自分の心の平安な部分にいつもいられるようにしてくれる秘訣です。

季節の変わり目

昔から季節の変わり目になると、どうも体調があまり芳しくない状態になるようです。夏から秋、冬から春へと移り行くときに特に体調をくずすことが多いです。

ハワイにでも永住したら、はっきりとした季節というものがないので身体は楽なのかなとも思うのですが、それはそれで何だかだら~っと一年が過ぎてしまうようで、しまりがない感じがするかもしれませんね。

気温や湿度などの変化に身体がついて行けなくて、何となく具合が悪くなるというのも、もうそろそろ卒業したいなと思ったりしますが、これが意外にちゃんと忘れずに毎年今ぐらいの時にやってきてくれます。

こうしたことも、自分の思い込みで起きるのだろうことは分かるようになったのですが、身体が不調になることを今だに続けている自分は何て律儀なんだろうと思って笑ってしまいます。

年を重ねていけばそれなりに老けてくるということや、体力が落ちてくるということなどと一緒で、気付かぬうちにそうした事をちゃんと起こす自分がいるんだなとつくづく思ってしまいます。

一般的にはそういったことは自然の摂理なのだから仕方のないことだとして済ますことかもしれませんが、自分の身に起きることは自分の心に抱くことが現実化するのだというふうに理解するようになった今では、現実を変えることができると信じるようになっています。

人は自分が信じること、自分が見ようとして選ぶものを体験するのです。ですから、季節の変わり目には体調をくずすというのも、自分が選んだことなんだとはっきり分かります。

一度信じてしまったことを撤回することは、なかなか難しくて、知らぬ間にまた同じことを繰り返しているということですね。ただし、今年は今までと少し違うのは、具合が悪くなってもそれがそのまま気分を悪くすることには繋がらなくなりました。

これは自分でも具体的な成果だと認めています。まだまだ今までの習慣化したことにやられてしまっている自分ですが、いつかきっと季節の変わり目でも身体がはつらつと元気でいられるようになってることを期待したいなと思っています。

ホンモノの幸せ

このブログを書き始めてすぐの頃に、「幸せとは何だろう」というタイトルの文章を書いたのを覚えています。その中で、本当の幸せとは、永続的な心の平安であると述べました。そして、そのことはこのブログでその後もしつこく何度も繰り返し述べてきました。

それは、目指すものが、ホンモノの幸せでなければその人の人生は決して幸せにはなれないということを訴えたいからです。どんなに努力しても目標となる幸せがニセモノであれば、それは無駄な悪あがきになってしまいます。

永続的な心の平安は、完全に満たされている心の状態であるとも言えますね。自分には何も足りないものはない、不満がいっさいないという状態が続いているということです。

そして更に大事なことは、それが永続的だと自分で自覚できるということです。今日は満たされているけれど、これがいつまで続くか保証の限りではない、というのでは未来に対する不安が出てきてしまいますので、ホンモノではないということです。

自分には不足しているものは一切ないということは、一般的に自分が一人の人間として生きているという大前提からして、あり得ないことだと誰しも感じるはずです。

確かにそう思って当然なのですが、実はその理屈そのものが本当の幸せではない自分がこしらえた論理でしかありません。

物質的なあるいは物理的な世界観をベースにした理屈のワールドでは、完全というものは存在しません。完全な円とか、直線とか、そういったものはイメージの世界でしか存在しないのと同じですね。

したがって完全に満たされた状態というのも架空の世界での話しということになってしまいます。しかし、そういった理屈を超越したところにこそ、真の幸せがあるということなのです。

観念の世界、想念というのはあらゆる理屈を超えたところにあります。そして、そこにしかホンモノの幸せというのはあり得ません。すべては一つ、自分はすべてであるという想念こそ愛であり、それこそが完全に満たされた心の状態にしてくれる唯一のものなのです。

それを目指すとは具体的にどうすればいいかというと、愛という想念をできるだけ自分に体験させてあげることです。求めるのではなく、与えることによって愛に近づくことができます。

先延ばし症候群

約9年前にこの仕事を始めた頃、宣伝方法としてインターネット上にホームページを作ることを考えていたのですが、作り始めて最初の数行の文章を書いた時点でストップしてしまい、その後本気で作り出したのはそれから半年以上たってからでした。

ホームページを立ち上げないことには、誰もクライアントさんが来てくれないことは分かっていたのですが、とにかくホームページを作ることを心の中で中断したままでいたのです。

実際、作り出したら2週間程度で出来上がってしまったので、その時には何で今まで放っておいたのかなあと悔やまれました。

しかし、後で分かったことなのですが、ホームページの作成を先延ばしにしていた理由は、自分の書く文章はもっと出来がいいはずだとの偏見があって、でも実際に書き出してみるとそうでもないということが分かってしまったからなのです。

書かずにいることで、自分の文章を評価せずに済むという馬鹿げた理由によって、中断していたのです。こんなはずではないのに、という思い込みは一旦手放すことができたので、あっという間に仕上げることができたのです。

虫歯ができていることが分かっても、忙しさなどの理由を作って歯医者さんに行くことを先延ばしにしてしまうことも多々ありました。こんなのは単純に、歯の治療のことを考えると怖くて憂鬱になるため、歯痛がひどくならないうちはそのことを忘れようとしてしまうのです。

このように、自分がしなければならないことは分かっているのに、何か恐れを伴うようなことであるとそれを先延ばしにしようとしてしまうということですね。

試験前夜に早く勉強をすればいいものを、そういう時に限って普段読まないような本を読み出してみたり、部屋の模様替えをしたくなって何時間もかけてやってしまうなどということはよく聞く話しですね。

恐れというのは、向き合いたくないものです。だからそれ以外のことに目を向けようとしてしまうために、本当にすべきことが先送りされていくのです。

こういった、先延ばし症候群から脱するためには、頭であれこれ考える前に行動してしまうということが効果的です。思考を減らすだけで、恐れは小さくなってくれるからです。試してみてください。

本音を知る

本音と建前とをうまく使い分けられる人は大人だなと言われることがありますね。よく政治家が人前で演説するときなどは、建前ばかりでなかなか本音を出すことはないと思われています。

なぜなら、本音というのは往々にして自分を不利な立場に追いやる可能性があると思われているからです。だから、人は自分の本音をたやすく誰にでも打ち明けたりはしないわけです。

ただし、上記のような場合は自分の本音を本人が分かっているという前提でのお話ですね。しかし、実際にはほとんどの人が自分の本音を完全には自覚できてないのです。

我々は、本音だろうが何だろうが、自分にとって都合の悪い考えや気持ちなどは自分自身にも気付かないように用心深く心の奥にしまい込んでしまうのです。

そうやって隠された本音というのは、自分ですら覚えがないのですから、他人には全く知られずにいることが多いのです。

ところが、隠された、あるいは言葉を変えると抑圧された本音というのは、いつまでも静かに心の奥にしまわれたままでいたいとは思っていません。

いつか、チャンスさえあれば心の外に飛び出して、本人にその本音の存在を知らしめてやりたいと思い続けています。

心の癒しを進めていくと、そういった隠された本音が何かのきっかけによって表面に出てくることがあります。特に、あるがままの自分を許すことを繰り返しているうちに、ふいに抑圧する力が弱まったときに浮き上がってきます。

それは本人にとってもびっくりする体験になるはずですね。ああ、自分はこんな本音を抱えていたんだなと、新たな自分を発見することになるわけです。

そしてその体験を通して、実は今までどうしてもうまく行かなかったことが、急にできるようになったり、気になって仕方なかったことがどうでもいいと思えるようになったりします。

何かつき物が落ちたみたいな感じかもしれません。とにかく、本音を知るということは、形があろうとなかろうと、自分が自分でいることがとても楽に感じられるようになります。

みなさんも、自分の知られざる多くの本音を知って、気持ちよく生きれるようになりたいと思うのでしたら、自分を許すということを毎日地道に実践することです。

きっと長年の便秘が解消されたような気持ちよさを感じることができるはずです。実践あるのみですね。

何もしない

みなさんは何もしないでいることってどのくらいあるでしょうか?家事仕事も人とのおしゃべりも、音楽を聴いたり本を読んだりもせずに、ただじっとしていることはありますか?

一日のうちでもそうそうないのではないかと思います。瞑想するのとも違ってただじっとして、自分が呼吸をしていることとか、窓の外の空気を肌で感じているだけの状態です。

感覚を研ぎ澄ますのでもなく、ただ耳に入ってくる外側の音を聞いているだけだったり、静かに時が流れていくさまを感じるだけの時間。

私は子供のころは時々そういう時間があったように思います。そして、それは大人になるに従って自然となくなってしまっていました。

しかし、また最近になって、そういった何もしないでただいるという時間を持つことが増えてきているように思います。

その時に、そうしていられることがとても喜ばしいような嬉しいような、なんともいえない気持ちになったりします。そうやっていられることがありがたいというような感覚です。

すごく無防備でいて、危険がなく、穏やかでとても静かな心の状態のままずっといられるということがどれほど心地いいのか、そうしていることでしか気付かないことです。

こんなに平和な心でいられるってすごく貴重なのではないかと思ってしまいます。未来の心配や気になることなどを手放していないと、この感覚はあっという間にどこかへ逃げて行ってしまいます。

だからいつもそうした平安な気持ちになれるわけではありません。しかしうまく行くと、自分は本当に何もしなくてもいいんだという深い穏やかな気持ちになれます。

みなさんも試してみてはいかがでしょうか?足りないものはない、すべてが手に入っているということが何となく分かるかもしれません。