信頼する心

信頼する心は、平安でいられます。そのことはきっと誰でもわかっていることですね。それでも、信頼したくてもどうしてもそれができない心の状態になってしまうこともあります。

周りの人のことや人生そのものや、何にしても自分ではコントロールできないことに対して信頼するということはとても大切なことです。

信頼できない心の状態でいると、常に不安や恐れの中にいることになるし、すべてを心配の目で見ることになってしまいます。

信頼する心は恐怖を抱く心とは全く逆なのです。恐れが攻撃をしようとする原因だとするのなら、信頼する心は愛を与える要因であると言えます。

私たちは、自分自身を身体であると信じることによって、それぞれがばらばらであるとした上で、別々の心を持っていると思い込むようになってしまっています。

しかし、信頼する心とは、すべては一つに結ばれていると認めることです。自分たちは違う身体という個体だとする心とは別の部分が、一つにつながっているということに気付くことが信頼につながるのです。

自分を愛しているようにその人をも愛しているとやさしく認めることです。信頼する心で周りを見つめることで、すべての罪は消えていくはずです。

自分の心とその人の心の間に長い間君臨していた罪が消失すると、二人の間を隔てていたものが何もなくなってしまうことになり、そこには一つであるという愛が残るだけになります。

誰か一人が別の誰か一人を完全に信頼する心で見ることができたら、そこには真の愛が見出されることになります。その関係はきっと別の誰かとの関係にも拡張されていくはずです。

そうやって、次々とすべての人の間にあった不信の心が信頼の心に取って代わられて、すべては一つという愛の想念で満つることになるのです。

信頼する心は誰の心の中にも確実にあります。それを選択することにしましょう。それが許すことにもつながります。

委ねる心

委ねることと依存することは、一見似ているように思えます。どちらも自分の力で何かを成し遂げようとしないからですね。自分が頑張って、独力で目的を達成しようとするのが自立であり、独立心です。

依存は、自分以外の誰かをコントロールして、自分のために一役かってもらおうとすることです。相手をコントロールしようとしているため、相手を心のそこから信頼することができなくなります。

したがって、依存している心は常に不安や心配を抱えていると言えます。相手が自分の期待通りに動いてくれなくなったらどうしようとビクビクしているのです。

一方、委ねる心には不安や心配は微塵もありません。なぜなら、委ねる心というのは相手のことや自分の外側に起こることをまったくコントロールしようとはしていないからです。

相手のことを信頼して、起きることを受け入れるという心の状態にならないと委ねることは難しくなります。

よく運を天に任すと言ったり、人事を尽くして天命を待つなどのように、委ねる心には天とか神と言ったようなものが表現として使われることが多いですね。

しかし、委ねるということは必ずしも神やそういった人を超えた特別な存在を意識する必要はありません。自分の周りにいる人や、起きること、その他あらゆることに対して委ねる心になることができます。

委ねる心には、ある程度の無防備さというものも必要になります。無防備でないと、自分を相手に託すということが難しくなるからです。

逆に依存の心は、必ず自己防衛がベースにあるのです。自分や自分の大切な人などを守りたくて必死になっている間は、決して委ねる心になることはできません。

このように、いつも委ねる心と依存の心とは正反対の状態を意味していると言うことがいえると思います。どちらの心が平安で満たされた気持ちにより近いかは、考えるまでもなく明らかですね。

どちらを選択するのか、それによって人生は大きく違ってくるはずです。

子供の遊び

幼い子供ほど、想像力が豊かだということをよく言われます。私が子供のころだと、男の子だったらロボット、女の子だったらお人形を使ってよく一人遊びをしたものです。

例えば女の子はお人形を自分の友達として名前がついていたりします。そして、空想の中でその人形があたかも話しかけてくれているように、二人で一緒になって遊ぶことだってできます。

彼女にとっては、そのお人形は本当の友達として成立します。それはなぜかというと、その人形も二人の会話もすべては彼女が作り出したことではあるのですが、彼女はそのことを忘れることができるからなのです。

自分の創作だということを忘れてしまえば、その間だけはリアルな友達との時間を持てることになるのです。その人形は女の子の心の中にいる友達の一人として生きるし、二人の会話もその子の心の中で作られた台本どおりに推移します。

しかし、その子にとってはその友達が急に自分に反抗するような態度をとってくることもあるだろうし、怒ってもう帰ると言ったりすることだってあるのです。

その子にしてみれば、仲良く遊びたいと思っているはずなのに、その友達とけんかしてしまう場合もあるでしょう。それもすべては彼女の台本のままです。

実は我々もその子と全く同じことを毎日繰り返しているといえます。そして同じように、自分の創作なんだということを完全に忘れるように自分を仕向けてしまったのです。

自分の周りにあるものすべては自分の心の作り物だということを忘れているので、この現実が本物のように見えているのです。

私たちは自分の心の中にある台本どおりのことを作りながらも、女の子がお人形の友達とけんかするのと同じように、周りの人とけんかをしてみたり、理不尽な目に遭ったりしているのです。

女の子がお人形とけんかをする理由と、私たちが周りの人たちといさかいを起こすのは全く同じ理由です。毎日繰り返している人生という一人遊びに気付いたら、楽しくて幸せになる一人遊びになるように台本を書き換えることですね。

あまのじゃくの勧め

あまのじゃくというのは、人が右と言えば左と言い、左と言うと今度は右と言うように、人の逆ばかりを主張する人のことをいいますね。どうも自分は多分にその素質があるようです。

スポーツ観戦などでは、人気のないチームや負けそうな選手ばかりを気がつくと応援しています。多くの人が好むことは好まずに、誰もやらないようなことに心を引かれたりするようです。

世間ではほとんど認知されていない「奇跡のコース」を読むのも、そういったあまのじゃく的なことが働いていると思います。あまのじゃくの原因はいくつか考えられますが、そのひとつは自分は特別な存在だとしようとする、エゴの作戦です。

人と同じことを志向していたら、目立たないし自分の存在感が薄くなってしまうため、風変わりな考え方や生き方などを好む傾向があるのだと思います。

あまのじゃくの人は一般的には好かれないと思いますが、それでも利点もあります。それは、人類が築き上げてきたことに逆らって、逆説的な考え方をすることに慣れているということです。

それが凝り固まった常識的な発想から自分を開放していくのにはそこそこ有効活用できるのです。コースに含まれている毎日のレッスンでは、まず初めに自分が見ている周りにあるモノにはすべて意味はないとする訓練をします。

そのものに意味があるのではなく、意味づけしているのはほかでもない自分だということに気付いていく訓練です。こうしたことは、常識的な人にとってはきっと取っ付きにくいだろうなと思います。

しかし、あまのじゃくな自分にはとても馴染んでいることであったりするのです。コースの教えのように明確化されていたわけではないですが、生まれ持ったあまのじゃくな部分がこの世のすべてを疑問視して見ていることに慣れ親しんでいるので、そういうことが比較的簡単にできるのです。

自分のことを、意外とあまのじゃくかもしれないと思っている人は是非そのことを喜んで、人生をより幸せなものに変えていくために使っていくことを考えてみてください。きっとあまのじゃくは、役に立ちますよ。

裁かない練習

裁くことと防衛とは密接な関係があります。つまり、相手を裁きたくないと思っていても、つい裁いてしまう時というのは、大抵自分を守ろうとする意識が働いているということです。

今までにたくさんのクライアントさんとのセッションで、さまざまなお話しを聞かせていただいてきたのですが、どんな内容の事柄を聞かされても、その話しにでてきた誰のことも裁くことはありませんでした。

それはあるがままを聞くことができるというか、その話しの中に悪者はどこにもいないというのが常にありました。クライアントさんによっては、あまりに私が中立な態度なので、その事に気分を害する人もいらっしゃったほどです。

人のどんなひどい仕打ちや復讐劇、イジメ、不正などの悪事の数々を聞いてもその事を責めたり裁いたりすることはありませんでした。

なぜかといえば、そういった話しをいくら聞いても自分自身の身を守る必要がなかったからなのです。自分に被害が及ばなければ、裁く必要が発生しないのです。

政治家の贈収賄などが取りざたされても、そのことで自分の人生に影響がなければ私はそのことを裁くことはないのです。これって、もしかしたら究極のエゴなのかもしれないと思うこともあります。

だとしても、とにかく私の場合は自分に直接の影響が及んでこないようなことについては、誰が何をしようと全く裁くということをしないでいられるのです。これはいい悪いは別にして、とても楽な生き方かもしれません。

ただ問題は、逆に少しでも直接の影響が自分に及んでくる場合には、どうしても裁くという結果になってしまいます。自分を被害者にしようとする相手を加害者として罰しようとするわけです。

したがって、裁かないように訓練するためには、自分が被害に遭ってはいないという意識になることが最も効果があるということになります。

つまり、いつも言い続けてきていること、「自分の身に起こることは自分が投影として起こしている」というこのことをはっきり思い出すことさえできれば、被害者ではない自分を見つけることができるので、裁かないという心の状態でいられるということです。

それはとてもすがすがしい気持ちでいられる究極の生き方と言えるかもしれません。

意欲

何に対しても意欲的な人っていますよね。正直にすごいなと思ってしまいます。そういう人と自分を比べると、とても恥ずかしい思いがしてきます。

何をするにしても、それを続けていくためには意欲がどうしても必要です。この意欲の源とは何なのだろうと時々考えることがあります。きっと、自分が意欲的ではないからですが…。

意欲というと、人の言動のパワーの源と言えるのですが、例えば、底なし沼にはまって必死にもがいて抜け出そうとするのは、意欲とは言わないですね。

意欲という場合には、何か意識的なものを感じます。ですから、あきらめてしまっている人は当然意欲が少ないという結果になってしまうでしょう。

また、依存心が強くて他人にやってもらおうという気持ちが、自分から進んでやっていこうとする積極さよりも勝ってしまうと、やはり意欲はなくなってしまうかもしれません。

意欲は、意志の欲と書きますから、こうありたい、こうしたい、というような自己像のようなものが明確にあって、その願いが意志の力となって意欲を生み出すのかもしれません。

私はもう一年ものあいだ、「奇跡のコース」を読んでいますが、それにはもちろんほんの少しの意欲を使っているのでしょう。その意欲は単純に自分が幸せになりたい、そのためにはどうすればいいんだろうというものです。

人生そのもの、毎日の自分の生活に100%かかわってくることですので、さすがに意欲の少ない自分でもまだ継続することができているようです。

それで分かったことなのですが、意欲はそんなに大きく持たなくてもいいということです。意欲はあればいいのです。たとえほんの少しであろうとも。それさえあれば、ただそれを利用するだけです。

もっとも大切なことは、意欲の大きさではなくて、何に対するものなのかということだと思います。物質的なものを手に入れることに意欲を燃やしても、人生は決してよくはならないからです。

意欲を効率よく使って、最大限自分が幸せになるために使うことをそれこそ意欲的に考えることだと思います。

願い事

誰にでも自分の望みというものがあって、それが叶えられたらさぞ嬉しいはずですね。その願望が強ければそれだけ、人は頑張りもするだろうし、最後は神頼み的なことになるのかもしれません。

そうした、願い事が叶う、つまり願望を実現する方法について様々な本でいろいろなことが書かれているようです。実は、私も今まで生きてきた人生を振り返ってみたときに、その時そのときの自分の願望が叶っている場合が多いように感じます。

もちろん、こうなったら困るよと思っていたらその通りの結果になってしまったということも沢山あるので、一概に願望がすべて実現する人生だとは言い切れませんが。

それでも何となく心の中のどこかで思っているような願望が実現してしまうという感覚ははっきりと持っています。それは自分が困るような病気や怪我、あるいは好ましくないと思われるような人生の出来事なども含めてそう感じています。

それなら、なんで宝くじを買わないのかと自問自答したこともあったのですが、どうも宝くじで特等賞を当てたいと本気では思ってないという感じがするため、買ったことがないのです。

それは、もしかしたら願いが叶うという表現よりも、何となくどうなるかを知っているという言い方の方が近いかもしれません。

約10年前に大病したときだって、その時はびっくりもしたしショックもあったのですが、あとで冷静に考えてみると、そうなっても当然だったというように感じている自分がいます。

いわゆる超能力的な予知ができるというようなことではないのですが、自分に都合のいいことも悪いことも何だかこうなるんじゃないのかなという事が、その通りなる場合が多いということです。

だからこそ、願望があったとしてもそれが実現する気がまったくしないようなものを神頼みと言えども期待することがないと言ったほうが当たっているのかもしれません。

それはやはり、どんなことでも自分の内面の投影として起こるのだということと合い通じるものがありますね。だからこそ、「奇跡のコース」を読んだときに、違和感を全く感じなかったのだろうと思います。

願い事が叶うことは嬉しいことには違いありませんが、真の幸福というのはそういうところにあるのではないといつもこのブログでお伝えしています。願望実現の方法を教えますという本やその他のものがあったとしても、食指が動かないのはそのためですね。

人の目

毎日の何気ない生活の中で、自分が一番気になるものと言えば、それは人の目ではないでしょうか?道を歩いているときの自分、電車に乗っているときの自分、職場で仕事をしている時、休み時間に食事をしている時、ありとあらゆる場面で自分は人の目に晒されています。

部屋で一人のんびりとした時間を過ごしている時を除いて、ほとんどすべての時間必ず誰かの目で自分を見られているという環境にいますね。

人にどう見られているかなんて、全く気にもならないよ、と豪語している人もいるかもしれませんが、それはきっと少数派だろうと思います。

今日どんな服装で出掛けようか、どのようなヘアスタイルがいいのか、そういったことは自分のためでもあるでしょうけれど、やはり一番は人からどのように見られるかということがベースにあってのオシャレなんだと思います。

そのようにとても気になる人の目ですが、それは自分が他人の目にはどのように映っているのか、どう評価されているのかということなので、それが気になるということですね。

そして大抵の場合、自分が自分を評価する基準があるのですが、それと同じ基準によって他人も自分を評価するはずだとの強い思い込みがあるのです。

本当は、他人は自分には想像できないくらいに自分と違う評価基準を持っているかもしれないのですが、そういったことは真面目には考えないのが普通です。

したがって、もしも自分に対する自分の評価が高い場合には、それと同じような評価をされると想定しますので、それほど人の目を気にすることはないのです。

しかし、逆に自己評価が非常に低い場合には、他人も自分のことをそのように低く評価するはずだとの思い込みがあるので、否定的な意味合いで人の目がとても気になってしまうのです。

そうなると、いつも人の目、人からの評価を気にするあまり、自由な自己表現ができなくなってしまったり、気づかぬうちにいやなことをやり続けたりして、自己犠牲を強いる結果となってしまいます。

人の目が気になりすぎて、とても生き辛いような状態になってしまった場合には、自分と人の評価基準は同じであることのほうがまれなんだとの認識をはっきりとすることです。

そして、人は自分が気にするほどに自分のことを見てはいないという事実をしっかり自覚することです。その上で、自己評価が低い理由を見つめてその部分を認めてあげることです。

これも一種の許しの作業ですね。どんな自分も裁く必要はないとして、許して認めることができたら、もう全く人の目など気にしなくなって、本当に気持ちのいい晴れ晴れとした毎日を送ることができるようになるはずです。

一芸に秀でる

何でもいい、どこかひとつでも取り柄のような部分、誰にも負けないような秀でた部分があったらいいのにと若いころからずっとそう思ってきました。

何か特別、これに関しては誰にも負けないとか、抜きん出ている才能や能力のようなものが何にもないので、何をやっても中途半端で大成しないので、よくそう思ってたのを覚えています。

今日、知り合いの人がピアノのリサイタルを開くということで、招待していただいて演奏を聴いてきました。クラシック音楽などまったくの素人の自分なのですが、それでもあまりに洗練されたテクニックや情感たっぷりの演奏に感動させてもらいました。

やっぱり、一芸に秀でている人はすごいなあというのが正直な感想です。人は、その身体を使ってどこまでの能力を身につけることができるのでしょうか?

どれだけ練習して、鍛錬すればあんな神業的なことが可能になるのかなと演奏を聴きながら思っていました。しかし、あんなに自由自在にピアノを操れたら楽しいだろうなと思いながらも、今までと違う感覚もありました。

それは、一芸に秀でることに対するあこがれのようなものがかなり薄れてきているということでした。いつもいつも自分の幸福はどこにあるかということを感じながら生活してきたせいなのか、羨望のようなものが少なくなっていました。

自分は本当に何もできないし、何も成し遂げていない。人に誇れる何物も持ち合わせてはいないし、自分の何かを認めてもらえそうなものも探しても見つかりそうもありません。

だからといって、そのことに何の自己嫌悪も惨めさも全く感じないのです。ああ、そんなふうに自分は知らぬ間に変わってきたんだなということを改めて思いました。

自分はこの生で何を目指しているのかということが明確になっているおかげかもしれませんね。見たり聞いたりといったあらゆる体験をしても、自分の軸がぶれなくなったとも言えると思います。

周りの人たちを許すということだけが生きる目的であると明確になったことで、何物にも揺さぶられない確固とした心の場所ができたのだと思います。このことだけでも、心はかなり平安でいられます。奇跡のコースの教えのおかげですね。

生命

子供のころ、父親が言っていた言葉を思い出すのですが、それは、人は生まれた瞬間から死に向かって一歩いっぽ近づいて行くことになる、というものです。

我々の常識では、誰にとっても避けることのできない共通の運命は、そのうち死がやってくるということですね。このことだけは、世界中のどんな人に対しても例外なく該当します。

病気で平均寿命よりも早く亡くなる人もいるし、怪我で一瞬によって命を落とす人もいます。どんな形であれ、誰でもいずれは死を迎えるわけですね。

そしてこのことを疑っている人はなかなかいないでしょう。しかし、最近では生まれ変わりというものを信じる人も増えています。肉体の死はあっても、魂までは死なないということですね。

「奇跡のコース」では、死はないと明言しています。命とは、生物としての生命のことだと誰でも思っていますが、コースでは本当の生命は愛だと言っています。

もしそうだとすると、愛は限りないものですし、不変のものですから生命もそれが途絶えるということはないということになります。

人間として生きているというのは、心臓が鼓動し続けることによってその生命が保たれると思われていますが、コースでは愛である限り永遠の命があるということになります。

だとすると、愛の欠落した毎日を送っている限り、真には生きていると言えないことになってしまいます。それこそ、文字通り死んだように生きているということになりますね。

死がないとすると、生物としての恐れというものが根底からなくなってしまいます。そうすると、私たちは自分を防衛する必要がなくなります。

自分を守らないでいいということは、エゴを使わずに生きて行くことができることを意味します。エゴを使わなければ、おのずと愛が100%の毎日になってしまうということです。

年齢とともに、老化するということや、いつか死がやってくるということは、エゴが自分に与えた都合のいい法則であるとしたら、どうでしょうか。

この人生というものが根底から覆ることになるでしょう。何を信じるかということを徹底的に見直してみることで、もしかしたら人生についての認識が一変するかもしれませんね。