欠乏感という生命維持装置

自粛要請が解除されつつある中、スポーツジムが再開されたおかげで午前中のルーティーンが復活したのはよかったのですが、一番のお目当てのサウナは利用できないまま。

なぜあの高温多湿(100°C)のサウナを解禁できないのか。ジム側の考えがあるのでしょうが、どうも疑問が残るし正直不満なのです。

自分の自我をよく見つめていると、こうした不満というのを定常的に持っていて何かの時に投げてくるのです。

総合的に考えたら、物理的にも精神的にも恵まれた毎日だということも分かっていながら、不満も一定数確保しておくぞといった感じなのです。

自我の立場からすると、不満がなくなってしまうと生きていくために必要な原動力がなくなってしまうのでしょうね。

自我にとっては不満は非常に大切なもの、満たされないという思い、自分は欠落しているという、何かが足りないという思いが生命維持に不可欠なのですね。

そのことを深く理解してあげることができれば、不満だといって息巻いている自我も可愛く見えてくるから不思議です。

自我は特別視が好き

市場における価値というのはいろいろありますが、一番メジャーなのは希少価値だと言ってもいいと思います。

道端に落ちている石ころのように、ダイアモンドがその辺に多数転がっていたら、ダイアモンドの価値はなくなってしまいます。

希少だということは、それ以外のすべてのものとの明確な違いがあるということです。つまりは、それを特別視することができるということ。

この世界で愛するのは君だけだと言えば、唯一という完全なる希少価値がそこにあるし、特別な存在であるということも重ねて意味しています。

自我というのは思考という分離の世界で生きているので、この希少価値、特別さというものが大好きなのですね。

愛するものを特別な存在と思いたいし、愛するものから特別な存在と思われたいと強く願っているのです。

希少、特別ということの裏返しは普通ということです。ごくごく普通なものに価値を感じる人は少ないし、それを特別視することはないはずです。

もしもあなたが自我から自由になりたいのであれば、自らを極めて普通であると認識することです。

真に普通であるなら、他者との分離が消失して全体性の中へと溶けていくことになるでしょうね。

マインドの分裂を理解する

私たちの内面であるマインドというのは、膨大な数の思考の塊のようなものだと思えばいいのです。

単純な思考が回路を作って論理を組み立てたり、複雑に絡み合って主義主張のようなものになったりもするわけです。

ところで思考の特徴というのは物事を分離して解釈するというもの。その結果、マインドそのものがたくさんの思考によって分裂しているのです。

つまり誰のマインドも一人に一つではあるのですが、そのマインドは内部分裂を起こしてしまっているということです。

それがマインドの病みなのです。マインドはその分裂によって、自分自身を把握することが難しくなってしまっているのです。

右に行きたいという部分があれば、左がいいという部分があって、それがマインドの葛藤を生み出すわけです。

このマインドの特質を忘れなければ、自分はこういう人物だと簡単に表現することなど到底できないと分かります。

あなたは自分が思っているような一貫性のある存在などではないということです。都合の悪い部分は隠されているだけかもしれません。

だから癒していく途中で、びっくりするような自分が出現する可能性も大なのです。どんな自分であれ、マインドの一部には違いないのです。

全く知らない自分が隠れていても不思議ではないのです。癒しが進めば進むほど、どんな自分が発見されてもそれを受容できるようになるのです。

その結果、自分への期待が激減して、あるがままの自分に落ち着いていられるようになるのですね。

真実には理由がない

瞑想をしていると、次第にとても穏やかな静かな境地がやってきてくれますが、それが何とも言えず心地良いのです。

これといった理由もなしにただ嬉しい感じがするのです。一般的な言葉を使えば、ただ幸せなのです。

この時実は、それを感じているのは普段の自分、つまり自我ではないのです。心が静かになっている時、自我も静止しているのです。

初めのうちはこのことに気づけないかもしれません。けれども、この微妙な差にそのうち気付くようになるはずです。

自我というのは理由がないことには関われないのです。自分がただ息をしているだけで幸せだと感じるのは、自我ではありません。

理由なくただ感謝がやってきたとか、自分がただここに在るということがなぜかシンプルに至福を感じるなら、それは自我に隠されていた本当の自分なのです。

この理由がないのに起きることが、真実に近づいている証拠。仮に、理由なく誰かを殴りたいと感じるなら、それは過去に明確な理由があるのです。

自我は過去に生きているので、自分の現在の衝動にはそれなりに過去の原因が隠されているのです。

繰り返し瞑想をすることで、普段の生活の中で今は自我に支配されているとか、あるいは自我が落ちて真実に近づいているということに気づくようになるはずです。

地下牢からの解放

今からちょうど20年前に大腸の手術を受けたことがあります。外科手術と聞くと大変なイメージがありますが、受ける本人は麻酔で寝かされていますので、痛くも何ともないのです。

もしも麻酔なしで手術なんてことになったら、死んでも構わないので手術は受けたくないと泣き叫ぶだろうなと思うのです。

そのくらい人間(特に私)は痛みに弱いのです。ところで痛みには身体の痛みと内面的な痛みとがありますね。

内面的な痛みに対しては、都合がいいことに私たちは自ら麻酔をかけることができるのです。それを抑圧と呼びます。

もちろん、そう簡単に抑圧をしてしまうわけではありませんが、度重なる痛み、どうやっても逃げられない痛みが続くと、マインドは自動的に抑圧という手に打って出るのです。

それを無力な幼い頃に常習するようになると、その回路がマインドにしっかりと組み込まれてしまい、あるがままの感情や気持ち、本音などを本人も知らぬ間に隠すようになるのです。

この抑圧というのは自己防衛の中でも中心的なものとして有名です。本人はその抑圧の上に立って生活しているので、まさか自分の足の下に痛みが隠されているとはつゆ知らず。

そのまま生きていければそれで問題はないのですが、抑圧され隠された感情や本音はエネルギーとして必ず本人の人生に影響してくるのです。

そこから逃れることはできません。そして放っておいても、いつかは暗い地下室から表舞台へと出ようとします。

それを自然治癒力と呼びますが、それはそれで辛いものがありますので、その前に癒しによって地下牢からその痛みを解放してあげることが望ましいですね。

存在に意識を向ける

私たちが生きているこの世界とこの社会を混同してしまっていることが多々あるように思います。

それはあまりにも社会というシステムに取り囲まれ過ぎてしまっているため、社会が世界のように感じてしまうのだろうと。

けれども世界というのは人間とは無関係に存在するものですし、一方で社会というのは自我によって生み出されたものです。

あまりにも社会に組み込まれ過ぎてしまうと、自然の一部としての人間本来のシンプルな存在に目が行かなくなってしまうのです。

それは私に言わせれば危険な状態だと言わざるを得ません。物事のあるがままの存在を見なければ、社会の操り人形のようになってしまうかもしれないからです。

存在に気づくことで人は誰でも対等だということにも気付けるのです。逆に存在を見なければ、役割や属性でその人を評価してしまうかもしれません。

ただあるがままのシンプルな自分の存在にできるだけ気付いていることです。ひたすらそこに意識を向ける練習をすることです。

そうすることによって、しっかりと存在に中心を据えることができるようになり、社会的な自我である自分のことを達観することもできるようになるのです。

内的世界に生きる

私はきっと幼い頃からどちらかというと、意識が内に向く傾向にあったと思うのですが、その理由はいたって明らかなのです。

それは、身体が健康ではなかったということです。幼い頃から何となく身体や気分がすぐれないということを経験していました。

病名がつくような病気ではなくて、要するに未病というのでしょうか。とにかく具合の悪さというのをどこか抱えていたのです。

だから自動的にそこを見ているクセが出来上がってしまったのだろうと。極々たまに何だか調子がいいなと思う時には、外向きになるのを知っていました。

それで調子に乗ると、またいつもの不調感がやってきて水を差されるのです。そんなことを繰り返しているうちに、調子悪さが自分の居場所になってしまったのです。

このことは、意識が内向きになるというだけでなく、ある意味で人生に絶望するという面もあったと思うのです。

だからこそ人生とか、人間とか、もちろん自分という存在について、よく観察するようになったのでしょう。

内的世界に生きている、そんなふうに感じていたのですが、その延長上には内側も外側もないという全体性への気づきが待っていました。

全体性の感覚がやってくると、孤独と不安が一瞬にして消えていきます。これはきっと誰にとっても朗報のはずですね。

正しさと常識が邪魔をする

あなたの「私」は、過去や未来の中にしか存在しないのです。残念ながらちょうど今この瞬間には、「私」の居場所なんかないのです。

もう過ぎ去ってしまった過去と、これからやってくる未来のどちらか、両方とも実在しないのですが、そこにだけ「私」はいるのです。

なぜ実在ではないところにだけいるのか?それは勿論「私」が実在ではないからに他なりません。

「私」がいないというと、怪訝な顔をする人がたくさんいますが、5分でいいので瞑想してみてください。

ある程度思考が緩んだだけで、どこにも「私」なんかいないということに気付いてしまうはずです。

気づかないとしたら、それは気付きたくないからとしか言いようがありません。これまで培ってきた自分の正しさ、常識、そういうものが邪魔をするのです。

もっともっとシンプルになって、自分を見つめてみることです。思考がなくなっていくその時、自分が誰なのかも分からなくなるはずです。

それはもっともなことで、あなたは誰でもないのですから。思考は分割することで全てを区別しようとするのですが、それは思考の中でのこと。

あなたの本質である意識は、ただ見守るのみです。

一体感が自我を圧倒する

中学3年生の時の運動会で、オオムカデ競争というのがあって、各クラスごとに男子が全員でロープを脚に括って数珠つなぎになって、まるでムカデのようにして競争するのです。

二人三脚の要領でそれを縦にしてクラス男子の人数分繋げて、左右の足を全員で合わせて進むので、それなりに技術がいるのです。

イチニッ、イチニッと全員で掛け声に合わせて足を動かすのですが、一人でもリズムが狂ってしまうと、ドミノ倒しのように全員がこけてしまうというスリルがあるのです。

そのためいつもバラバラだったクラスの男子どもが、運動会の前にどこかの空き地に集って結構真面目に練習したものです。

その甲斐あってか、私のクラスはムカデ競争で優勝したのです。運動会の最後の出し物として大いに盛り上がる競技なので、嬉しかったですね。

徒競走で個人的に一位になるのよりも数倍嬉しかったのを覚えています。みんなと力を合わせて一体となることは、こんなに感動的なんだと知ったわけです。

これと似たような事は、誰にでも一度や二度経験としてあると思います。人は一体感を味わうと非常に喜び感動するのです。

これが肝ですね。つまり私たちは一体感を感じたいのです。なぜなら自我として理不尽にも孤として分割してしまっているからです。

一体感の中にいる時には、孤立した自我が非常に薄れてしまっている状態なので、とても気持ちが良いのです。

自我(個人)という分離の幻想から抜けて、全体と一体に戻る真実のひととき、その体験が何にも勝るものだという事ですね。

受容と葛藤は反比例

最近年齢と共に老いの諸症状が目立つようになってきたように感じています。やはり何につけてもスローになったなあと。

オシッコの出が悪い、筋肉痛がいつまでも続く、滑舌が悪い、他人の早口についていけない、動作が鈍い等々。

今ちょっと思いつくだけ挙げたのですが、きっと他にも沢山スローになってしまったものがあるはずです。

悔しいのが、どうでもいい爪の伸びるのと髭の伸びるのだけはスローにならずにいて、面倒は変わらずですね。

この老化現象をそのまま受容することができると、べつに何ということはないのですが、一度嫌だなと思うと心に葛藤が始まります。

結局、内面が穏やかでいられないということは、自分自身に対して受容が足りてない証拠だということですね。

もしもあなたが自分はバカだと思っているとして、それを認めたくなくて頑張っていれば必ず葛藤が生まれます。

バカだということを受容してしまえば、バカなことをしでかしたとしても落ち込むこともなくなるのです。

受容が深まればそれだけ心は穏やかになり、満ち足りるのです。そしてそれだけ夢を見なくなるでしょうね。夢のネタは基本葛藤から来るからです。