自己批判もマインドのもの

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

↑所詮あなたは人間なのだ、というのは自我として生きているということです。思考が凝縮したマインドがあなたをまとまった一人の人間に仕立てあげているということ。

自分が人間であるという思いは、マインドの思考によるものであって真実ではないということを見抜くこと。

マインドは自分とその外側に広がる世界とが分離していると信じている思考群なので、もうすでに真実から遠く離れてしまっているのです。

常識的に知っているということと、単に信じているということが同じだということを明確に理解することです。

そうすれば、自分自身を批判するのを止める代わりに、その批判する自分はマインドの作り上げた偽物の自分だと分かるはずです。

自分の不完全さ、弱さ、誤り、失敗、それと同レベルに自己批判もただあるだけだと理解することです。

そうなったら批判するのをなかなかやめられない自分を批判することだけはなくなっていくはずです。

マインドを愛を持って見つめてあげるという練習を続けていれば、こうしたことがはっきりしてくるはずですね。

マインドが止まれば真実がやってくる

何が(真実の)判断基準なのだろう?唯一の判断基準は、それがあなたに至福を与えるかどうかだ。もしそれが、時間が消え、マインドが消え、突然世界が止まる地点にあなたを連れてゆくなら、それは真実だ。真実のみが世界を止めることができる。真実のみがマインドを止めることができる。

by osho

↑突然世界が止まる…と言われても、そんなことはあるはずがないと思ってしまうとしても、それは当然のことですね。

こうした表現をそのまま鵜呑みにしてしまうと、より真実から遠ざかってしまうのです。所詮この内容をそのまま自我が理解できるわけはないのです。

一時的であったとしてもマインドが停止した状態になれば、世界が止まるという本当の意味を知ることができます。

世界が止まるというよりも、時間というものはないのだということが明確に分かっている状態になるということです。

過去と未来をイメージしているのは思考であって、その思考がマインドとともに消えてしまうと、今しかなくなってしまうのです。

どこへも流れていく先などないということが分かるということ。↑上の表現は私の中では反対なのです。

真実のみが世界を止め、マインドを止める…と言っているのですが、マインドが止まれば世界が止まると同時に、真実が顕れてくるということですね。

自己イメージは自我の持ち物

私たちの誰もが自我として生きています。それは避けようのないことなのですが、その代償は計り知れないくらいに大きなものです。

自我の根っこにあるものは、幼い頃に周りにいた大人たちによって作られてしまった自己イメージなのです。

それは全くもって本当の自己とは異なるものですが、それ以外の自己イメージを持つことができないために、それを後生大事にしてそれこそが自分だと信じ込むのです。

どんな自我を持った家族に囲まれて幼い頃を過ごしたか、それこそがどんな自己イメージを植えつけられたのかということを意味するのです。

もしも親に関心を持ってもらえないという感覚を受け取ってしまったら、それこそ大変な人生が待ち構えることになってしまいます。

なぜなら、関心を持ってもらえない自分というのは価値のない存在だという、途方も無い間違った信念を持ってしまうからです。

人生のどの時点からでもいいので、あなたがどんな自己イメージを持っていようと、そのすべてを嘘っぱちだと見破ることです。

自己イメージは自我のものであり、あなたの本質はそれとは全く異なるもの、純粋な意識なのだということに、気づくことが大切ですね。

ただすべてを見守る

禅の方式は単純だ–非行為、無為。何もせずに静かに坐ること–外も見ず、内も見ず、まったく何も探さずに、ただ自分自身でいること–すると、その瞬間に、仏陀が知られる。仏陀はあなたの存在そのものだ。仏教の”仏陀”は、他の宗教で”神”が意味するものとまったく同じだ。

by osho

私たち人間にとって、もっとも難しいことは何もしないことです。たった1分と言えどもじっとして何もせずにいたら、すぐに何かの考えが浮かんできます。

何もしないのですから、考えることもしないはずなのに、気がつくと何かを考えている自分がいます。

身体を動かさずにじっとしていることだけでも、それほど長い時間はいられるものではないですね。

つまり自我というのは、何かをし続けることで生き延びるものなのです。何もせずにただ在り続けると、自我は発狂しそうになるはずなのです。

そして最終的には自我が消えていくことになるのでしょうね。けれども、そんな荒療治をせずとも、少しずつ自我のいない雰囲気を感じられるようにはなります。

それが瞑想だったり座禅だったりの練習を通して身につけていけるものです。もしも思考がやってきたら、それをただ見守ることです。

↑上で言っている「ただ自分自身でいる」とは、ぼーっとしていることではなく、意識的な状態でいるということです。

それが見守るということです。私たちの本質は覚醒した意識だからですね。

ループを断ち切る

何かの努力がかえって裏目に出るということはよくあることですね。改善しようとするあまりに、改善できなくしてしまうとか。

あるいは、遅れそうで焦ってしまった結果、道を間違えてかえって時間がかかってしまったとか。

緊張しないようにと気をつけることで、より緊張を強めてしまうこともあるかもしれません。

人前で緊張していることを他人に気づかれることが嫌で、それを隠そうとしてかえって緊張してしまうなどはよくあることです。

こうした悪い循環にはまってしまうと、自力で抜け出すのはとても難しくなってしまいます。

そんなとき、その循環(ループ)に気づくことがなにより大切なのです。そして、ループを断ち切るためにはあらゆる努力を放棄してしまうのです。

これには瞑想が役に立つかもしれません。何もせずにいるというのは、日頃の瞑想によって身につけることができるからです。

もしもあなたが何かのループにはまり込んでいたとしても、一定のタイミングで瞑想を日々の習慣にしていれば、自動的にそこから抜け出すことができるのです。

真に知ってることは思考できない

哲学とは正確には何か?それはまったく何も知らないのに、知っているふりをすることだ。それは思索だ。思索とはつねに、人が無知であるのに、何かをでっちあげようとしているという意味だ。いつであれあなたが考えるとき、それはたんに、あなたが知らないことを示している。

by osho

↑上で言っている、「あなたが考える時、それはあなたが知らないことを示している」ということを理解するためには、以下のことに気づく必要があるのです。

知るという言葉には二つの意味があるということ。一つは、知識として知っているという意味であり、もう一つは真に知っているということ。

知識というのは単なる情報に過ぎません。それは思考の範疇なのです。思考は知識を使いまわして思索するからです。

「〜について知っている」というのが知識だと言ういい方もできます。思考も「〜について考える」のです。

一方で、真に知っていることを考えることはできないのです。それはただ直接的に知っていることだからです。

ということは、もしもあなたが年がら年中考え事をし続けているなら、全くの無知の状態でい続けていることになるのです。

真実についてあれこれ考えることは可能ですが、どれだけ考えたところで真実を知ることができないということを思い出してもいいですね。

知識は自我にとっては有用ですが、それが無知であることに気づくことができない理由でもあるのです。


依存するマインドを見る

「共依存」という言葉が一般的に使われるようになって久しいですが、要するに依存者に依存するマインドのことを言うのです。

自分に依存してくる人をそばに置いておいて、あれやこれや世話を焼いたり面倒をみたりして、しっかりと自分に依存させるのです。

そうして、自分の存在価値を見出そうとする自己防衛の一種なのです。私の母親もそういうタイプでした。

子供のころは、ただの心配性、世話焼き、過干渉だと思っていたのですが、その根っこにあるのは共依存だったのです。

私自身、必要以上に世話をやいてもらったおかげで、依存的な子供に育てられた自覚があるのですが、母親が怖い人ではなかったために、救われたのです。

世話を焼かれて都合のいいときには、それに甘んじるし、それが居心地悪いと感じたときには、嫌だと言うことができたからです。

今思えば10歳くらいのときに、これはまずいと気づいて少しずつですが依存から離れていくことができました。

母親は、子供が依存して来なくなったので、父親を依存者として利用したのです。あらゆる家事仕事をすべて自分でやることで、父親は何もしない人になったのです。

父親が亡くなってそのことが明確になりました。母親が一人になったとき、自分のためには一切の料理をしなくなったのですから。

そうなると、もうどこにも依存者がいなくなってしまったので、共依存が消えて、ごく普通の依存だけが残ったのです。

今は食べ物を買うことで不安を解消しようとする依存が強くなったようです。冷蔵庫の中にたっぷりと食べ物があっても、それを都合よく忘れて次々とお弁当などを買ってくるのです。

これもいわゆる買い物依存として捉えることができるでしょうね。自分がどういう状態にあるのか、それを見るということができなければ治ることはありません。

やはりできる限り若い頃から、意識的である練習をするということが大切なのだと思い知りますね。

自意識は自我のものではない

AIの技術が進化して、人間とそっくりに見えるロボットが生まれる時代が、いつかは必ずやってくるでしょうね。

その時、目の前にいる存在が血の通った人間なのか、あるいはAIのテクノロジーが生んだ人間のような存在なのか、外側からは判別できないのです。

相手に自我があるのかどうか、それを見分ける方法は絶対にないのです。自意識がなくても、あるかのような振る舞いをすることは可能だからです。

だとしたら、今あなたの目の前にいる大切な人に自我があると証明することも不可能なことだということが分かります。

自我があるかどうか、自意識があるかどうかは一人称である本人だけが決められることだからです。

そういう意味では、やはり自分というのは本当に自分にとっては特別な存在だということが言えますね。

けれども待ってください。だからといって、自分という存在はここにいる、というのは全くもって間違いようのない真実だと思うのは早とちりなのです。

実は自意識というのは自我のものではないからです。それは覚醒した意識のことだからです。

自我はうまくそれを利用して、自意識こそが自我である自分の根っこだと思い込んでいるのです。

自我(思考の塊)と意識とは全く次元の違うもの、雲群と青空くらいに異なるものだと理解しておく必要がありますね。

中道=至福感

山は平地があるから山でいられるのです。谷があれば、山の高さはもっと際立つことになりますね。

もしも山ばかりであれば、それはもはや山ではなくなってしまいます。喜びがあればその分悲しみもあるということ。

歓喜が大きければ、落胆もひどくなるのです。そうやって釣り合いが取れるわけです。もしも歓喜が続けば、それが普通になってしまうのです。

物事をそんな風に見ていられるといいですね。ところが残念ながら、私たちは都合のいい方ばかりに目がいってしまいがちなのです。

どちらも同じように見る訓練をするのです。すると物事を捉える感じ方に変化が現れるのです。

嬉しいことが起きて、それを喜んだり楽しんだりするのは当然のことですが、悲喜こもごもの出来事が起きる生全体をも楽しむのです。

それはちょうど真ん中にいること、そこからあらゆるものを眺めるのです。幸不幸もその位置から眺めると、どちらかに偏らなくなるのです。

その位置を中道と呼ぶのです。中道は歓喜も落胆もない代わりに、ただ至福があるだけになるのです。

物語からも離れた位置なので、自我の立場からするとつまらなく思うかもしれませんが、深い至福感を体験したらそんなこと言わなくなるはずです。

世界を持たずに、この世界で生きる

覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者だという真実を見抜き、それから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。

by osho

「自分が自分の世界の創造者だ」とはどういうことでしょうか?↑上ではそれが真実だと言っているのです。

私たちはこの世界をあるがままに見ているわけではないということです。一人ひとりが自分に都合のいい世界を創っていると言っているのです。

それが結果として、一人ひとりの人生という物語があるように感じさせるのです。自分が知覚し、経験することがそのまま真実だと信じているのです。

それは自我という思考の塊が創り出した独りよがりの物語でしかないということです。だからこそ、人(自我)の数だけ世界(物語)があるのです。

私たちが日頃見ているこの世界とは、自我の目を通して見たものなのです。だから、人類がいなくなったらこの世界は消えてしまいます。

残るのは、ただそこにあるだけのものがただ在るのです。ただ起きることが起きているということです。

覚者とは、そのことに気づいただけでなく、実際に自我を通さずにこの世界を見ることができるようになった存在のこと。

そうなったら、この世界から争いも恐怖も惨めさも消えてしまうのでしょうね。