時間は実在しない

今日はとてもシンプルな話しをします。あまりにシンプル過ぎて分かりづらいかもしれませんが、そのことにも気づきがあります。

というのも、思考というのはあまりにシンプルなものを取り扱うことが苦手だからです。

時間は思考の中にしかないということの説明です。私たちはごく当たり前のように明日になれば、明日がやってくると思っています。

その感覚が時間というイメージを生むのです。明日がやってきたとしても、生きるのは今日でしかないということ。

明日が明日として来ることは永久にないのです。明日というのは、思考の中でのみ存在するのであって、実在するものではありません。

実在するのは今日、あるいは今だけです。今がずっと続いているだけ。今だけなら、どこに時間があるのでしょう?

明日のことを思考によって思い描くことをしなければ、どこにも時間は入って来ることができないことに気づけばいいのです。

過去についても全く同じことが言えます。過去のことを思考によって思い出すことがない限り、どこにも過去はありません。

結局過去も未来と同様に、思考の中にだけあるイメージだということです。結論として、どこにも時間は存在できないということです。

これがストンと腹に落ちると、何かが変わるかもしれませんね。

高い期待が執着を生む

私は戒律的なことがとても苦手な人間なので、ルールで縛られるとか、道徳や倫理を優先する生き方も嫌いです。

逆になんでも楽しめるものは、思う存分楽しんだらいいのにと思うのです。食べたいものを食べ、やりたいことはやればいいのです。

そこに善悪や正不正などをあまりにも持ち込んでしまうと、罪悪感を恐れるあまりに息苦しい人生になってしまうからです。

ただし一つだけ、できるだけ避けた方がいいと思っているのは、執着です。この執着も人生を苦しくする張本人なのです。

今日は楽しかった、以上。で終わればいいのですが、また明日も同じことで楽しみたいなと思ってしまうのです。

それは当然かもしれませんが、そこに必要以上の期待をしないことです。強く期待してしまうから、そこに執着心が起きて来るのです。

願い通りにできたら嬉しいけど、そうならなくてもまあいいやという具合に、ただ起きることに任せるようにできれば理想ですね。

もう一度繰り返しますが、何かを制限して正しい方向に向かわすよりも、ただ期待せずにいて、起きていることを最大限楽しむようにすることです。

そうすれば、執着が減って人生がとてもシンプルなものになっていくはずですね。

死は自我にのみやって来る

どうもあまり評判は良くないようなのですが、すみません今日も死に関連したお話しになってしまいます。

というのも、なぜ私たちの煩悩が無くならないのかと考えてみると、その大きな理由の一つは、誰もがいつかは死ぬことになるからだと思うのです。

誰にとっても死にまつわるイメージはあまりよくないものです。せっかく築き上げたものを丸ごと奪い取られてしまうし、大切な人とは別れなければならないし。

さらには、死後は一体どうなってしまうのかが全くもって不明なため、そうした確定した未来の不安によって、心が暗くなってしまうのです。

こうしたことをどれほど頭を捻って考えたところで、一ミリも解決が見つからないと分かっているので、死については考えないようにして生きているのです。

目の前で起きている毎日の出来事に気持ちを奪われていれば、死のことなどどこかへすっ飛んでしまうので、好都合なのですね。

けれども、死ぬことが確定している毎日には違いがないので、心の奥底では明るくしてはいられないのです。

誰もが心の奥底に闇を抱えているのには、こうした理由があったのです。これを思考では解決できないことを、まずは見抜くことです。

それと同時に、死を避けることができないのは自我だということも理解する必要がありますね。死は自我にのみやってくるのです。

たくさん集まってあたかも自我があるかのように見せていた思考が、肉体の死とともに方々へとバラけて行くのでそれは自我の死のように見えるのです。

けれども私たちの本質は違います。自我として生きている間に、そこへの信頼を深めることができるといいですね。

頭脳明晰はウソ

「lucid(ルシッド)」という単語は、元々はラテン語で光と言う意味だったと思います。そこから明るいだとか、頭脳明晰などという意味を持つようになったらしいです。

私は特に意味などにはあまり関心もなく、単にこの単語の響きが気に入ったのでこのセッションルームの屋号に使いました。

頭脳明晰というと何となく聞こえはいいですが、実は頭脳が明晰ということはないのです。頭脳というのはマインド(思考)のことですね。

残念ながら頭脳は混乱です。マインドはいつも混乱していて、瞑想などによってマインドが静かになった時のみ、混乱も一緒に静まるのです。

真に明晰なのはハートの方です。ハート自体は常に自然とともにあって、あるがままを感じているのです。

ところが、マインドが優勢になって混乱を引き起こすと、ハートは隠されてしまい、真実への道も閉ざされてしまいます。

競争の厳しい社会の中にあって、できるだけハートが開いているようにするためには、マインドが暴走して混乱してしまわないように、監視している必要があります。

要するに意識的であることが絶対的に必要だということです。充分に意識的であれば、思考もそれなりに役立てることができ、マインドとハートのバランスが取れるようになるのですね。

無関心の勧め

昨日のブログで「無関心」という言葉を使ったので、その流れで今日は無関心ということについて書いてみたいと思います。

どうやら世間的には、無関心という言葉はネガティブな響きを持っているようですね。たとえば、政治に無関心だとか、自分の健康に無関心等々。

無関心であるよりも、関心を持つことの方が何か積極的な感じもします。好きなことには関心が出てくるわけで。

何事においても関心を持つことで、学んでいけるということもありますし。人としても、誰かに関心を持ってもらえた方が嬉しいはずです。

確かにそうなのですが、私は無関心でいることの大切さも知って欲しいのです。というのも、自我というのは自分に対して絶大な関心を持っているのです。

あなたがどれほど自分を否定しようが、嫌いだと思おうが、それは強い関心を抱いているからなのです。

もしもあなたが、自分のことを好きなのか嫌いなのかなんてどうでもいいと思えるなら、全く違う人生が待っているはずです。

自分が今幸せなのか不幸なのか、そんなこと考えたこともないという状態であるなら、きっと防衛も小さい状態になっているはずです。

自分という存在や自分の人生に対して、無関心でいられるようになったら、自然に覚醒がやってくることになるでしょうね。

理想には無関心になれ

私たち人間も自然の一部であることは明白なのですが、普段はすっかりそのことを忘れてしまい、不自然な毎日を生きているのです。

自我は自然であることを好まないのです。その代わりにより正しいこと、より優れていることに価値があると思っているのです。

自然にはそんな概念は勿論ないので、人生を自我の思うままにさせればそれだけ不自然な方向へと向かってしまうのです。

自然であることが心身ともに健康であることなのに、そこから逸脱する生活が長くなると、その自然であることが何なのかが分からなくなるのですね。

自然であるために、それを目指す必要はないのです。こうありたいという希望から離れるだけで、人は自然の中へと戻ることができるからです。

あるべき姿への希望が小さくなれば、不自然な頑張りや我慢、そして無理なども小さくなって、ただ在ることにくつろいでいられるようになるのです。

あなたはこれまでどんな自分を目指して来たでしょうか?その結果今満たされていないのなら、あなたが掲げてきた自分像は不自然なものだということです。

正しい自分、価値ある自分、愛される自分、優れている自分、こうした理想をドブに捨てるか、無関心になることをお勧めします。

家庭内ハラスメント

私が子供の頃にはハラスメントという言葉を聞くことはありませんでした。イジメは昔からずっとありましたけれど、被害に遭ったことはなかったと思います。

それでも、周囲のあちこちではそれなりに目にすることはあったと思うのですが、正義の味方に返り咲くのが嫌で、きっと見ないようにしていたのですね。

この仕事をするようになってからは、世間で◯◯ハラスメントが話題になるたびに、個人的にはそれに「家庭内」という枕言葉をつけて考えるようになりました。

要するに、家庭内パワハラ、家庭内モラハラ、家庭内セクハラ、家庭内イジメといった感じです。

しかも、単に◯◯ハラスメントよりも、家庭内◯◯の方がタチが悪いのです。なぜなら、被害者が子供の場合が多いからです。

一人では生きていけない弱者である子供にとっては、どんな家庭内ハラスメントからも逃げる術がないのですから。大切な何かを犠牲にするしか、生き延びれません。

それを思うと、家族という単位を呪いたくなることもありますね。しかも、家庭内ハラスメントを経験してしまった子供は、社会に出てからも◯◯ハラスメントに遭うことになる確率が高いのです。

あるいは、家庭内ハラスメントを被った子供が社会に出て、逆に◯◯ハラスメントの加害者側となることも多いかもしれません。

家庭内イジメに遭っていた子供が、学校などでイジメをする側になることと原理は同じです。

家庭内ハラスメントがなくならない限りは、社会の中でのハラスメントも無くなることはないでしょうね。 

マインドは変わらない

ネット上で色々な買い物ができるようになって、忙しい人や私のように外出の苦手な者にとっては特に便利になったと思うのです。

ただ、実物を見ずに買うのはリスクがあることは確かです。特に身につけるものとか、家具などもそうですね。

つい先日、冬用の上着をネットで買う際に、サイズが微妙だなと思って躊躇していた折、実際にお店で試着するのと同じようなシステムがあるのを知りました。

ひとまず希望のものを送ってもらい、実物を見て着て、不要なものは送り返せばいいという優れもののシステムで、これならリスクなしに買えて本当に便利。

このコロナ禍の時代にもマッチしていますね。きっともうすでに皆さんはご存知だったのでしょうけれど、私は軽いカルチャショックを受けました。

きっと近未来にはもっと便利なシステムが開発されるんでしょうね。いつかは、着た人の身体に自動的にフィットしてくれる服とかが開発されるかもしれません。

クルマは自動運転の時代がもうそこまで来ているし、そうなると個人でクルマを所有する時代がそのうち終わるのでしょう。

肉類の代わりになる食品が開発されて実用化されれば、動物を殺さずに済む時代がやってきます。そうなったら、屠殺するこの時代をどんなに野蛮な時代だったんだと懐古することになるはずですね。

若い人はともかく、私のようにこの先何十年も生きられないとなると、そんな先進的な時代のことも見てみたいと思うのです。

けれどもそんな憧れるような時代が来たとしても、人間のマインドはあまり変化しないのかもしれません。

だったら今回の人生の中で、なるべく気づきの多い瞬間を生きられるようにしたいものですね。

自分が何かを知ること

osho は次のように言っています。「最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ」と。

最初で最後というのはもちろん、それ一つしかないということですね。だからステップはたった一つということ。

階段があるとすると、そこには一段しかないということです。その一段こそが、自分を知ることだと言っているわけです。

ということは、この人生で様々な悲喜こもごものことが起きるのですが、そうしたことはすべて物語の一部でしかないということ。

何を実現しても、何を獲得したところで、それはたった一つのステップも登ってはいないということです。

平な地面であっちに行ったりこっちにいったりしているだけなのです。何をしても何をしなくても全く同じだということ。

社会にどれだけ貢献したとしても、オリンピックで金メダルを取ろうと、一段たりとも上へは登っていないのです。

逆に言えば、極悪非道の人生を生きようと、一生を引きこもり状態で過ごそうと、なんの役にも立たない人生でも所詮は同じなのです。

たった一つだけ、自分の本性を知ること、目覚めること。このステップを登るためにこの世に生を受けたのだと分かれば、もっと気楽に生きられると思いませんか。

アンチ活動を見つめてみる

小学生の頃は、毎晩のようにプロ野球の試合をテレビで見ていたものです。父親が帰宅している時には、大抵一緒に見ていました。

そのころは、巨人軍と他チームの試合という組み合わせばかりを放送していたものですから、自然と巨人の選手だけを覚えてしまうのです。

そうなると、馴染みの選手がたくさんいる巨人軍を応援するようになるのです。東京在住の自分は当然のように巨人ファンになっていて、それを疑うこともありませんでした。

ところが、アンチ巨人という言葉を知って、びっくりしたことがあったのです。他のチームを応援するならともかく、なんだアンチ巨人て?

なぜ特定の野球チームを嫌いになることができるのか、ホントわかりませんでしたね。応援する気が起きないというだけなら分かるのですが。

この積極的に応援しない気持ち、そして嫌いだということをわざわざ表明することの不自然さは一体なんなのだろう?

人は嫌いなものからは自動的に離れていくものです。ところがアンチの人たちというのは、嫌いなターゲットから離れるどころかいつも注視して気にしてばかり。

最近ではアンチ活動なんて言葉もあるのですね。わざわざ時間とお金と労力を費やして、ターゲットをあの手この手で否定する活動を展開し続けるのです。

もしもあなたがアンチ◯◯に該当するようなら、それから得られるものが一体なんなのか見た方がいいでしょうね。

大切な人生の一コマをそんな程度の低い防衛に費やしていると理解できたら、その時点で馬鹿らしくなって自ずと卒業することになると思います。