信じれば投影する

自我は信じることを増やしていくことで、自分を確立していこうとするのです。強く信じればそれは信念となり、それが自我の後押しをしてくれるようになるのです。

そうなったら自我は最強です。誰がなんと言おうとその自我のワールドが絶対的なものに感じられるからです。

そして自我は信じているということをすっかり忘れてしまうのです。これほど好都合なことはないですよね。

忘れてしまえば、自我にとっての真実となってしまうからです。そこから抜け出すためには、まずは知っていると思っていることをよく見ることです。

本当は知らないということに気づいた人は、ただ信じていたに過ぎないということを理解するのです。

要するに何事も信じないことです。始めから信じないでいられるなら、知っていると誤解することもないのですから。

信じれば、必ずや投影することにもなるのです。そうなると、信じているものを外側に見出すようにもなって、より厄介なことになってしまうのです。

こうなったらやはり自分は正しかったという地点に行き着いてしまうでしょう。そうなったら、もう手立てがなくなってしまいます。

信じるものは救われる…ではなく、信じるものは投影すると覚えておくことですね。

苦しみは自我のもの

苦しみとか苦悩というのは、私たち人間だけにあるものではなく、動物にも同じようにあると考えるかもしれません。

私は小学生くらいのときに、飼っていたセキセイインコが悶え苦しんで死んでいく様を見ていたことがありました。

本当に苦しそうで、それでもどうしてやることもできずに、ただ動かなくなっていくのを見守るしかできませんでした。

けれども、実は動物というのは自我がないので、苦悩するということはないのです。肉体的な痛みはもちろんあるのですが、心理的な苦しみはないのです。

なぜなら、それは思考からやってくるものだからです。苦しみというのは、自我の期待が裏切られたりすることで作られるものなのです。

私たちは自分の自我が苦しむのを知っているため、それを相手に投影して見てしまうので、動物でも同じように苦しんでいると感じてしまうのです。

自我が作りモノであれば、それがこしらえた苦しみも作りモノです。惨めさも罪悪感もすべてが思考によってでっち上げられたものです。

自然界にあるのは、単なる快不快や痛みなどであり、それもいつかは消えていくものなのです。

もしもあなたの自我が消えていくなら、その時はどんな投影もすることがなくなるので、苦しみというものが実在しない世界を見ることになるはずです。

自我は生と噛み合っていない

私たちが大切に思っている自分の人生というのは、本当のところマインド(思考)が作り出したただの物語なのです。

自我にとっては、人生こそがリアルなものだと感じているのです。だから人生がどんなものになっているのかが重大事項なのですね。

誰かの人生よりも自分の人生が劣っていると感じると不幸になるし、その逆であれば幸福になるというわけです。

結局のところ幸不幸というのも、人生という物語の一部であるに過ぎないということになるのです。

けれどもマインドを静かにさせて、ゆったりくつろいだ状態でいると、人生という作り物よりも実在する生に意識が向くようになるのです。

その時、生と同調しているという実感がやってきてくれます。人生という虚構ではなく、リアルな生と噛み合っているという感覚。

これは自我には決して理解することができないのでしょう。なぜなら、自我そのものが物語の一部だからですね。

生には過去も未来もありません。今この瞬間がすべてであって、それと同調することで自分の本質を感じることができるのです。

自我にはどんな力もない

子供の頃から何となく分かっていたことがあるのですが、それは自然でないものなどないということです。

自然でないように見えるものはもちろんたくさんあります。例えば人間が作った人工的なもの。

大自然の中には、人間の手無くしてはマンションは建たないでしょう。それは当然のことですが、実はその人間も自然の一部なのでマンションも自然の一部。

子供の時にこんなことが言いたかったわけではないのですが、母親から言われたことに反論があったのです。

それは、「◯◯ちゃんはえらいねぇ、努力家で…。」と言われると、なんだか自分と比較されたみたいで嫌だったのです。

それで、努力できる子は努力できるように生まれてきただけだと突っぱねたのを覚えています。そればかりか、環境の違いも大きいと分かっていました。

つまり、〇〇の遺伝子を持って生まれて、〇〇の環境で育てば、結果として◯◯な子供ができるということ。

これは至って自然であり、当然のことだと思っていたのです。生まれ持った才能もあるし、後天的に身につけた才能もあるけれど、いずれにしても本人は自然の法則の元で生きているだけ。

そのことを親に知らせたくて言い返していたのですが、決して伝わることはなかったですね。単純に、屁理屈だと思われていただけなのでしょうね。

今ならもっと明確に表現できます。自我も自然の一部であり、自我が自然から乖離して独自の力を持っていると感じるのは、大きな間違いだということです。

私たちの自我にはどんな力もあるわけがないのです。あらゆる力は自然界のものだからです。であれば、あなたにはどんな手柄もどんな罪もないということ。

だからもっともっと気楽に生きればいいのですね。

自我は何も知らない

私たちの自我というのは、無数の思い込みが複雑に重なり合って保たれているのです。思い込みというのは、思考によって何かを信じるということ。

ところが自我本人は、そのことを知らないのです。自分は色々なことを知っている、知識があると思っているのです。

けれども、それは単なる思い込みでしかないのです。思い込みが更に強まれば、それはまさに信念になるのです。

自分の自我は、実はほとんど何も知らないということに、どうやったら気づけるのでしょうか?

知っているということが単に信じているだけだと見抜けばいいのです。本当に知っていることは、信じることができないのです。

知らないからこそ信じる、つまり思い込むことができるのです。自我は本当は何も知らないと気づいたときから、真実が身近なものに感じられるのです。

思考の世界からほんのわずかな間でも離れることができたら、自我は何も知らないということがもっと明確になるはずです。

何も知らないことに気づくと、自我は静かになるのです。ある種の降参がやってきて、落ち着くのです。

何も知らなければ、戦うことすら不可能になるからです。独り静かにいるときに、このことに意識を向けて見ることですね。

自由か安心か?

私たちは不自由を嫌っていますね。不自由は居心地が悪いし、疲労困憊してしまうし、清々しい気持ちにはなれないからです。

そのくせ、何かにとらわれてばかりいるのです。その結果、自由にはなれないと知っていながらも、どうしてもそこにい続けてしまうのです。

その理由は、自由よりも安心を優先してしまうからです。たしかに、自由でいようとすれば、危険が伴うのです。

自由気ままに生きようとすれば、誰かに否定されてしまうかもしれないし、嫌われてしまうかもしれないと考えるからです。

みんなと違う意見を言えば、総スカンを食ってしまうかもしれないし、そこそこ無難な道を歩みたいと思うのです。

自分に対しても、人に対しても嘘をつくとそれだけで不自由になってしまいます。自分のままでいられないのですから、当然のことです。

自由を犠牲にして、安心を手に入れようとしても、安心できたと思ったのもつかの間、またすぐに不安はやってくるのです。

その結果、安心も自由も両方を奪われてしまうことになるのです。不安を殊更恐れないこと。そうすれば、自動的に自由は転がり込んでくるのですから。

自分を縛ることになるすべての思考をただ見ること。そうすれば、その思考に飲み込まれて不自由な人生になることを避けることができるのです。

不可能性は救う

目的地は存在しない、だから誰も道に迷うことはできない–。それをあなたのハートに浸透させなさい。それを矢のようにあなたに貫かせなさい。<生>に目的地はない!だから、それは取り逃がしようもない。

by osho

道に迷うことは不可能、取り逃がすのも不可能。不可能なことを、起きるかもしれないとビクビクしながら生きる事くらい馬鹿馬鹿しいことはありませんね。

1%でも可能性が残っているなら別ですが、100%不可能なのですから、もうどうしようもありません。つまり観念するしかないのです。

完全に諦めることができると、人はこの上なく安らかなマインドになることができるのです。もうどんな戦いもチャレンジも必要ないのですから。

ということで、人生にはどんな目的も目的地もないというのですから、一体何を不安になったり怖くなったりする必要があるのでしょうか?

生まれたからには十二分に生きて、そして死ぬ。ただそれだけだと気づけばいいのです。

結局、間違った人生もないし、正しい人生というのもない。人の人生を幸せにすることも不可能。もちろん不幸にすることも不可能。

自我が愛に目覚めるのも不可能だし、あなたの自我をどれほど磨いたとしても、天使になることは不可能なのです。

不可能ほど、心底ホッとして救われることは他にはないですね。だから、不可能性万歳!なのです。

自我に光は見えない

自分が歩んできた人生という道をゆっくりと見つめてみると、何一つ無駄なこともなかったし、すべてが今日のために起きたことだと気づきます。

もちろんこれは自我としての自分の感想でしかないのですが、無駄なことがないと言っても、意味のあることが起きたということではないのです。

ただただ物事が起きて、その結果今があるということです。足りないものもないし、余分なものもないということ。

楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、辛いことも、とにかくそういったすべてが完全ということです。

誰かに会ったり、誰かと別れたり、希望が叶ったり、絶望したり…。そんな中いつも一緒だったのが、「私」という自我。

彼のいいところも悪いところも、カッコいいところもダサ過ぎるところも含めて、彼と別れなければならない時のことを思うと、愛しさも感じたり。

彼の中の執着が一頃よりもだいぶ小さくなってきていることに気づいて、このまま安らかに眠れるといいなと。

彼が逝った後は、闇が消えてすべてが光となることでしょうね。それを見ることができない彼はさぞ残念でしょうけれど…。

「私はいない」ですべて解決

「私はいない」があなたの内に定着してたら、突然世界は消滅する。「私はいない」と知ることは、何をする必要も、何になる必要も、何を所有する必要も、何を達成する必要もないと知ることだ。”自己”がなければ、野心は関連してこない。”自己”があれば、野心が関連してくる。

by osho

↑突然世界は消滅する…、これはどういうことを言わんとしているのでしょうか?本当にこの世界全体が消えてしまうのでしょうか?

実はあなたが思い描いているこの世界、あなたが知っていると思い込んでいるこの世界、つまりあなたの思考が作った世界が消えるのです。

私たちが描いているこの世界は、自我が価値を見出そうとすることが底支えしているのです。

そのためには、より良い世界、より良い人間、よりよい成果、そういった未来への期待が必須になるわけです。

あなたが生きる原動力としてきたもの、それがあなたが創作したこの世界と結びついているのは当たり前のことですね。

「あなたがいない」という真実に目覚めてしまうなら、そうした一切合切が不要になってしまうのです。

結果として、自我は実在しないということを見抜いたなら、何もかもがガラッと変わってしまうのです。

それでも他人の自我から見れば、毎日が淡々と過ぎて行くように見えるだけなのでしょうね。

最大の気づきとは…

自我は薄々自分がいないということに気づいているのです。それは最大の秘密であり、決してバレてはいけないのです。

そのことだけは隠し通さねばならないので、おのずと必死さが現れてくるのでしょうね。隠すための有効な手段として、恐怖心を利用するのです。

自分の内側深くに入っていって、そうした事実を見られては困るので、ある程度のところまでくると怖くなって、それ以上先には進めなくするのです。

瞑想をしていて、なんだか怖いなと感じることがあるとしたら、きっとこうした理屈があるのです。

なので、それはいいところまで行っているとも言えるわけです。そこを見たら危険と書いてあれば、それ以上は進めなくなってしまうのです。

よくよく考えてみれば、なにも好き好んで自分はいなかったという地点までいく必要などないだろうとも考えるかもしれません。

ひとまとまりの個人などというものは存在しないということを、あらゆるアプローチを用いて気づいてしまえば、すべての苦悩から解放されるのです。

生きている理由が一つあるとするなら、そのことに気づくことです。その気づきによって、同時に宇宙のすべてを知ることにもなるのですから。