何もかも消えていく

大多数の人の共通認識だと思って間違いないのでしょうけれど、それは宇宙の存在は自分が生まれる前も、そして死んだ後も変わらずにあるという感覚です。

感覚なんかじゃなくて事実だと信じて疑わないのです。それが社会の常識だし、感覚的にもしっくりくるのです。

私自身の中にもそう感じている部分は確かにあるのですが、ところがそれとは真っ向から食い違う感覚もあります。

意識を見つめていると、この宇宙この世界のあらゆる存在が上記したような客観的事実ではないということに気づくのです。

そもそも客観的事実というものが偽りなのだということ。客観的というのは自我のもの、思考の産物でしかないということです。

人によってはそういったことに物心ついたときから知っているのかもしれませんが、そうでないとしても瞑想に慣れてくることで気づけるようになるはずです。

自己の本質である意識の中に入っていくと、何もかもが消えていく感覚がやってきます。空間や時間、大きさや位置など。

それはもうどんな想像もすることのできない領域です。それが何かは知りませんが、それが全てであると言うことの理解によって自我すらも落ち着くのです。

あとは自然と無言にならざるを得ないですね。

深刻な人生と気楽な人生

深刻な雰囲気をずっと醸し出している人がいます。何がそれほど深刻にさせるのか、聞くのも憚れるほどです。

一方これといった理由があるわけでもないのに、常に気楽な感じで生きている人もいるのです。両者はちょうど真反対ですね。

どっちの人の人生が理想的なのか、答えは明らかなようでいて実はそうでもありません。深刻さを好む人も世の中にはいるのです。

楽よりは辛さを、快適よりも我慢を、楽しさよりも苦しみになんだか価値があると誤解しているのです。

本当はどちらに価値があるかということではなく、素直で無邪気なマインドを持ち、無防備に生きると人生は気楽になってしまうのです。

深刻さには何か深い意味があるようで、理知的な雰囲気がついてくるのかもしれません。一方で気楽さは何となく「お気楽」というように低脳な感じがするのです。

高尚なことを考えて苦しみ抜いて死ぬ人生と、鼻唄を歌いながら気持ちいい散歩をして生きるのとどちらを好むかということです。

当然自我は前者なのです。なぜなら自分の存在を特別視したいからですね。後者は特別ではなく普通のありふれた人生を連想させるので、自我は興味がないのです。

どちらを選ぶのかはあなた次第です。もう一度よく考えてみることです。深刻な人生がいいのか、気楽な人生がいいのか。正解などありません。

自分は「何か」ではない

私たちが気づかなければいけないことは、自分自身の視点で自分を見ていないということです。

他の誰かの視点を使って自分を見ているのです。外側から自分を見るということしかできないと思い込んでいるのです。

セッションで自分のことを見てくださいと言うと、自分を客観的に見るということですか?と聞かれることがたびたびあります。

最近はそれでもいいですと答えることにしているのですが、本当はそれは違っていて、他の誰からも見ることができない自分だけの視点で自分を見てくださいということなのです。

もしもあなたが素直に自分で自分を見ようとするなら、自分があれとかこれとかの「何か」ではないということに気づくはずなのです。

肉体よりももっと近くの中心には、ナニモノでもない自分が在るのです。それはこの現象界のものではない感じがします。

それは人生を生きているというよりは、それをただ見ているだけのナニカなのだとしか言えません。

けれどもそれこそが自己の本質だと気づけば、これまでよりもずっと優しい気持ちで自分のことを見てあげられるようになるはずです。

今どんな人生でも大丈夫

若いころから感じていたことなのですが、自分は他の人のように色々なことに興味を持つことができない人間なんだということです。

自我そのものは相当に立派なものが出来上がっているので、誰もが持っているような欲は人一倍あるのです。

けれども、どうもこの社会に馴染むことができなかったというのか、違和感を感じながら生きてきました。

お金は大好きなのに、自分の力で稼ごうという意欲がほとんどないし、負けず嫌いなくせに戦って勝とうとはしないのです。

だから引っ込み思案かというとそうでもなく、何をやってみても本気で打ち込めるようなことに出会ったことがありませんでした。

要するにどこかで人生に絶望しているわけです。特に、HSP の端くれとしてそれなりに敏感体質であるため、パーソナルスペースが広くて雑踏が苦手。

社会という組織の中枢にいるような人間ではないということが、大病をしたときにハッキリとしたのです。

それを機に今の仕事をするようになって、益々平均的な社会人から生き方や考え方が遠のくようになった気がしています。

何が言いたいかというと、人には人の生きる道というのがあるということ。誰かを憧れたり、目指したりしても所詮は無駄なのです。

結局いずれは自分らしく生きるところに戻ってくるのです。歳を重ねるとそのことを実感することができますね。

皆さんの中に自分の人生は自分の目標や願いとは違うところに来てしまったと感じて苦しんでいる人もいるかもしれません。

でも安心して下さい。今の自分自身をしっかり見つめることを繰り返していけば、他人と比べることの馬鹿らしさに気づくようになるのです。

そのときに本当のリラックスがやってきてくれます。だから今どんな人生を生きていようと大丈夫なんですね。

不自由さの原因は自己防衛

もしもあなたが今自分は不自由だと感じているとしたら、それは周りの誰かのせいでもなければ、社会のせいでもありません。

自分を不自由にしているのは、勿論自分自身なのです。自分のマインドの中にいる自我こそが、自分を不自由にさせている張本人なのです。

まずはこのことに気づく必要があります。生きにくさを誰かのせいにしている限り、死ぬまでそれは続いてしまうでしょう。

より具体的に言えば、不自由さの原因は自己防衛にあります。自己防衛は自分にどんな犠牲を強いても、自分を安心させたいと望むのです。

だからそこにはあらゆる自己犠牲がついて回るのです。その一つが自由を犠牲にするのです。思ったことを自由に表現できない、感じたことを自由に感じられない。

やりたいことを自由にやれない。こうした不自由さを容認しておいて、なんとかして不安を安心に変えようとするのです。

加えて言えば、不自由な人は自由に生きている人を否定する傾向にあります。勿論嫉妬してしまうからです。怒りも感じるかもしれません。

自由を求めるのか、あるいは安心を求めるのか、両方を同時に求めることはできません。二者択一なのですが、自由を求めないなら人生は手厳しくあなたを打つでしょうね。

そして求めて手に入れた安心は一瞬にしてまた不安へと戻ってしまうのです。不自由な人は、勇気を持って選択し直すことですね。

正しさは不要

人はこうするべきとか、こうあるべきという正しさを多く持てば持つほど、神経症的になってしまいます。

しかもその考え方生き方というのは、知らず知らずのうちに親などの周囲から与えられてしまうので、気づいたときには身についてしまっているのです。

それは躾のような形で仕込まれることもあるだろうし、ただ一緒に暮らしているということだけでエネルギーとして伝搬してしまうこともあるのです。

だから子供はそれを避けることは事実上不可能なことなのです。物心ついたときには、その正しさの上に毎日の生活が出来上がってしまうわけです。

神経症的な人生になってしまう理由は簡単で、生身の人間というのはそんな作り上げた正しさの中に収まるはずがないのに、無理矢理自分を強いてその中で生きようとするからです。

当然の結果として、自己犠牲を繰り返すことになるのです。そしてそんなルールはお構いなしとばかりに自由に生きている人のことを嫌うようになるのです。

嫉妬するだけならいいですが、怒りと共に憎むようになることもあるかもしれません。ところが親からもらってしまった正しさを簡単には手放すことができないのも事実。

なぜなら正しさは自己防衛の本丸として使われてしまうからです。正しくあれば、否定されないし嫌われないし、価値ある自分でいられると錯覚するからです。

あなたの中にある正しさを一度じっくり眺めてみることをお勧めします。どんな正しさ、どんなルールであれ例外無く不要であることを見抜けた時、生はあなたに優しく接してくれるようになるはずです。

紹介制度の中身を変えます

今年から紹介制度を開始するということは、このブログでもお伝えしたのですが、その後何名かの方々から友人知人などを紹介していただきました。ありがとうございます!

その中のお一人から、制度の中身を改善した方がいいのではないかというご指摘をいただきました。素直にその方の案の方がいいなと思ったので、次のように改訂しようと思います。

紹介制度の変更は2月11日より有効となります。

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紹介者と紹介された方の双方に以下のような特典をご用意しました。

セッション費用9,000円を5,000円にさせていただきます。一度のセッションに限ります。

条件:

・紹介者は、セッションを一回以上受けたことがあるルシッドのクライアントさんであること。

・紹介者の特典有効期間は、紹介された方(被紹介者)の一回目のセッション実施から一ヶ月以内を目安とします。

・被紹介者は、ルシッドのセッションを受けたことがない方。

・被紹介者の特典は、一回目のセッション時とします。

・本特典制度は何度でも使っていただけます。

自分自身を覚えておく

私たち人間が他のどの動物とも違うのは、ほんの少しだけ意識が目覚めていることです。そしてそれと同時に自我が作られたこと。

個人的にはきっと自我が作られたことがきっかけで、意識のごく一部が目覚めることができたのではないかと思っています。

そういう意味では自我というのは奇跡的な現象だと言えますね。自我が個人としての一人称を生み出したおかげで、意識という本質的な一人称を目覚めさせたのです。

ちょっと前置きが長くなりましたが、人間と他の動物との違いは歴然としていますが、それはほんの少しの意識の目覚めのなせる技なのです。

私も含めて多くの人が未だに外側にばかり意識を向けて生きているのです。だからこそマインドのほとんどはまだ無意識状態のままなのです。

現代人の役目があるとするなら、動物と同じ無意識の部分をそのまま保つのではなく、できるだけそこに光を当てるようにすること。

つまり常に自分自身を覚えておくようにすることです。そうして自分自身の中心が据わるようにするのです。

その結果、ほとんど動物に近い状態にいる私たちは、一瞬にして真の自己への気づきを得ることになるのだと思うのです。

孤独を味方にする

人間は独りであるということ。正確に言うと、自我は独りであるということ。人間以外の動物には自我がないので、独りではありません。

勿論動物であっても寂しい感覚というのはあるのですが、自我が持っているような孤独感はありません。

自我はどこまで行っても孤独なのです。個人だからですね。このことを嫌がらずに深く見つめて認めること。

ひとたびあなたが独りで生きることの覚悟を持ったなら、そのときには何かが変わることになるはずです。

所詮は独りなので、必要なのは覚悟と受容だけ。もしもあなたがどんな理由もなく、自分の単純な存在を楽しむ方法を会得したら、人生は変わるでしょうね。

孤独を味方につけることができたなら、他のあらゆる依存がすべて落ちていくはずです。

依存のない人生を生きる気持ちよさは、一度味わったら二度と手放すことはできなくなってしまうはずです。

自我の解体は最大の恐怖

12〜13歳の頃から人間には潜在意識というものがあって、自分では自覚できない内面の領域があると知って、すごく興味深く感じたのを覚えています。

潜在意識という言葉の響きも何となく魅力的だったし、とにかく自分は自分のことを全部分かっていると思い込んでいたので、潜在意識の存在はショックでもありました。

今になって思うに、潜在意識という言葉は正確ではなくて、要するに自覚できずにいる潜伏しているマインドの部分ということですね。

意識という言葉の意味を正確に掴んでいない誰かさんが、そんな名前をつけてしまったのだと思うのですが、意識ではなくてあくまでもマインドのことです。

結局この潜伏しているマインドの部分と自覚できているマインドの部分とがあって、それぞれが互いのことを知らずに勝手なことを考えているのです。

この分離こそが人間を不幸にさせているし、その一方でそれがあるからこそ自我は生きながらえているのです。

自我はこの部分を見られたら解体してしまうという場所を密かに日の当たらない地下室に隠しているのです。

そしてそこを見ようとすると、最大の恐怖を感じるようにマインドの仕組みを作ったのです。

だからもしもあなたがその恐怖にめげずに、マインドの全部に光を当てて見てしまえば、自我は消えて即座に覚醒することになるのです。

今地球上にいる人の誰もがその恐怖に負けて何千回何万回と生まれ変わってきたのですね。自我の防衛は凄まじいものがありますね。

今回も負けちゃうのかな。