成ることと在ること

私たちの自我というのは、成るということに精を出すのです。決して在るということに焦点を当てられずにいるのです。

この成ることと在ることの違いを明確にしておく必要があります。自我にとっては成ることに意味があり、真実は在ることでしかないのです。

私たちの頭の中は成ることでいっぱい。成ることで埋め尽くされていると言ってもいいくらいです。

何者でもないものが、何者かに成ることこそが人生に意味を持たせると信じているのですから。

社会はそのようにできているのは分かります。けれども、そのバカバカしさ全体を見つめることです。

なぜなら、成ることの後は消滅しか残ってないのですから。ところが、真に在ることは永遠なのです。

成ることが夢の一部であるなら、在ることは覚醒です。私たちの本質はただ在るということです。

変化するものは全てが夢の一部であり、永続的なものだけが真実であるということ。この感覚をしっかりと自分のものにすることですね。

意識を覚醒させておくと思考は入れない

昨日のブログでは、思考はよそ者だということについてお話ししました。思考が自分の内側からやってくると感じているので、外側からやってくるとは思えないのですね。

ところで、あることを試している間に、確かに思考は向こうからやってくるという感覚を得ることができます。

それは、できる限り自分の覚醒をしっかりさせておくのです。いつも言っている意識的であるということ。

意識をボーッとさせておくのではなく、反対にしっかりと覚醒させておくことができると、自然と思考は入ってこない状態になるのです。

例えば、大きく目を見開いて、周囲を凝視するようにするだけでも意識の覚醒を少し感じることができます。

その時に雑念は小さくなっていることに気づけます。こんな簡単なことで、若干ですが思考を追いやることができるのです。

ということは、もっともっと意識の覚醒状態をしっかりとしたものにできれば、そのうちには思考は私たちの中に入ってこれなくなるということです。

そうなったら、私たちの自我は自分を確立させておくために必要となる外部からの思考がなくなっていくので、きっと餓死していくのでしょう。

それが覚醒、光明を得るということですね。 

思考はお客だ

例によって以下のoshoの言葉に耳を傾けてみてください。仮に理解ができたとしても、実感を伴うことは難しそうですね。

『思考はあなたのものじゃない。彼らはあなたに属するものじゃない。彼らは訪問客として訪れる。ゲストだ。

しかし彼らはあるじじゃない。深く見つめてごらん、そうすればあなたはあるじとなるだろう。そして思考はお客だ。』

↑この言葉の意味を理解するのが困難に感じてしまうのは、私たちが自分だと信じている自我自体が思考ででっち上げられたものだからです。

だから何かを考えている時、自分が考えていると感じるわけです。この考えは自分が生み出したものだと思えるのです。

ところが、思考はお客、つまりはよそ者だといっているのです。外からやってきて、勝手にあなたを乗っ取り主人ヅラをしているということ。

思考はこの社会ではとても役に立つものではあるのですが、人生で最も大切な問いである、自分とは何か?については一切役に立ちません。

というよりも逆に、真実を知ろうとすればそれを妨げるものだとも言えるのです。自分が思考によって作られたイメージに過ぎないと気づくのは困るのでしょう。

どれほど受け入れ難いことであろうと、真実はそんなことにはお構いなしです。心を静かにして思考から離れた時に、真実に気づくことになるのですね。

死を恐れる理由

自分がいつか死ぬということを知っているのは、私たち人間だけなのですが、その死についてとても不思議なことがあります。

それは、多くの人々にとって死を恐れているという事実があるということです。少し考えれば、それが論理破綻していることは明白です。

というのも、死というのは死を恐れているその自分が消え去るということなので、その恐れも消えてしまうわけです。

死によって消え去ってしまうのは、恐怖だけでなく、自分自身が抱えてきたあらゆる苦しみや不安、怒り、孤独などの否定的なもの一切合切も含むのです。

であれば、ああやっと救われることになると思ってもいいはずですね。では死に対する恐怖とは一体何なのか?

それは自我によってでっち上げられた恐怖なんだろうと考えています。自我にはきっと死を恐れることの都合の良さがあるのです。

死を恐れることで、生きている間ずっと心理的な自己防衛を継続させられるからです。そうした生との戦いこそが、自我の存続に貢献するのです。

もしもあなたが、死ぬことに何の恐怖も感じられなくなったなら、あらゆる防衛がバカバカしくなってしまい、自然に無防備な生き方をするようになるはずです。

それが自我にとっては一番都合の悪いことなのです。それこそが、自我を崩壊させてしまう唯一の生き方だからですね。

心理的不可能を暴く

人の能力というのは、本当にそれぞれに違いがあるものですね。Aさんにとっては簡単なことが、Bさんにとってはとても難しかったり。

あるいは、その逆にAさんにとってはとても無理に思えることが、Bさんにとっては安易に感じることもあるわけです。

こうした違いというのは、持って生まれた特質であったり、あるいは努力の末に身につけた能力の差だったりします。

そういった違いの中に、実は本当はできるのに本人にとってはできないと思ってしまっているようなものもあるのです。

つまりは、物理的な実際の能力ではなくて、無自覚のうちにマインドが妨害したりブレーキを踏んだりするということ。

私は、こうした現象を「心理的不可能」と呼んでいます。以前にもブログに書いたことがあったと思います。

この心理的不可能なことをたくさん持っていると、非常に生きづらい人生になってしまうことは想像に難くありませんね。

なぜなら、人は軽々とできることを自分はどういうわけかできないと思いながら生きなければならないのですから。

もしもそうした不自由な感覚を持っているのなら、この心理的不可能を多発させていることを疑うことです。

そして、そうしたマインドの働きの原因を探ることで、必ずやその不可能性から逃れて、より自由な人生を手に入れることができるようになるはずです。

そのためには、しっかりと腰を据えて癒しに取り掛かることです。場合によっては、プロの力を借りることも必要かもしれないですね。

惨めさを笑い飛ばす

人生のメインテーマは、自分は惨めじゃないということを証明しようとして、あれこれ頑張ることなのです。

もちろんそれ以外にも生きる目的はたくさんあるのですが、あまり光が当たらない影の目的としてそれがあるわけです。

そしてその傾向が強ければそれだけ自己防衛が大きくなり、その結果自己犠牲が蓄積されて、癒しが必要になるということです。

だからこそ、癒しというのは目を背けてきた自分の惨めさにしっかりと向き合い、それが全くの思考によるものだと気づくことなのです。

惨めさは実在するものではありません。そこに気づくためにも、自分の思考をじっくりと観照する必要があるのです。

観照する側になることができれば、あなたのマインドが抱えてきた空想上の惨めさから逃れることができるのです。

惨めさを抱え込んで、それをどうしたら隠すことができるかで精を出す人生から、そのバカバカしさ全体を観照することです。

その一点さえ実現できれば、人生はまるで違った顔を見せてくれるようになるでしょうね。

本当のあなたは不連続

自我がどのようにして日々生きているのかと言うことを、少し描写してみたいと思います。

自我の基盤は過去にあります。今日のあなたの自我は、昨日までのあなたのすべての過去の体験から出てくるのです。

体験は日々あるのですが、自我はそれを自分の所有物にするのです。つまり、あれは私の体験したことだと思い込むのです。

その全ての蓄積が元となって今日のあなたの人生の生き方が決まるのです。明日のあなたも同様にして、今日までの過去の体験からやってくるわけです。

ところが実際のところ、昨日までのあなたと今日のあなた、今日までのあなたと明日のあなたは全く異なるものなのです。

だからもしも過去の体験を全て脇に置いて、新鮮な目で今日、見知らぬ明日を生きるなら、毎日がとてつもなく興奮に満ちているはずですね。

自我は過去の全てを背負って、その連続として生きているので、慣れてしまってマンネリして、次々と違う刺激を求めるようになるのです。

本当のあなたはいつも不連続であると言うことを再認識して、瞬間瞬間を生きるようにできたらいいですね。

疑いは信頼へと移行する

社会的な観点で言うと、疑うと言うことは少しネガティブな印象がある感じがしますが、実は少しもネガティブなことではないのです。

疑うのはとてもシンプルで素直なことです。幼い子供は、目に映るもの何に対しても疑ってかかるのです。そこに否定的なニュアンスがないのは、理解できますね。

疑うエネルギーから思考(言葉)が消えると、実は信頼に変化するのです。だから疑いと信頼は同じエネルギーなのです。

私自身、目に見えない世界のことをあれこれ疑っている時期があったのですが、そこにへばりついていた思考が落ちた時、ただただ信頼に変わった記憶があります。

一方で、信じるマインドというのは似て非なるものです。信頼は<全体>あるいは存在に対するものであり、信じることは言動や事象に対してです。

そのため、信頼にはどんな条件もないのですが、信じることには明確な条件がついてくるのです。

その条件が変化してしまえば、すぐさま信じない状態へとひっくり返ってしまうのです。反転できるものは全て二元の世界の出来事です。

信頼はひっくり返ることがないので、非二元と言うことですね。

<全体>に委ねる

以下の osho の何とも気持ちのいいメッセージを味わってみてください。読み手が何を感じるのかに、興味があります。

『こうしたすべてを自分がやっていると思うのは自由だが、そうしたらあなたは無知の中で生きることになる。

もし、<全体>がすべてをなしていること、自分は<全体>に支配されそれによって息を吹き込まれていること。

生全体がそこから来ることに気づいたらそのとき、あなたは悟りの生を生きる。』

私たちは決して為し手ではないということです。最近では、AIを搭載した自律型のロボットというのが開発されていますね。

自律型というのは、いちいち外部から命令を下さなくても、ロボット自らが判断しながら行動するというものです。

そういう意味では、私たち自我も完全に自律型の生物ということになりますが、実はそれはそんな気がするということでしかないのです。

あまりにも自我が上手に独立した自分がいるというウソを作り上げてしまっているので、自分が人生の舵取りだと感じてしまうのです。

けれども、よ〜く深いところまで見つめてみると、どうもそうではないということに気づくようになるのです。

自由意志があるように思えるものの、本当のところoshoの言葉通り決意信号は<全体>からやってくるのです。

自我がそれをキャッチして、あたかも自分の決断であるかのようにしつらえるということですね。

ですので、もっと気楽に人生を楽しめばいいのだと分かります。全てを<全体>に委ねれば、本物のリラックスを味わえるようになるでしょうね。

あるがままの生を楽しむためには

私たちはなぜ、今この瞬間に展開しているあるがままの生をただ楽しむということができないのでしょうか?

それはあなたのマインドがどこか他のところに行っているからに違いありません。それが過去であれ未来であれ同じこと。

実在していない世界へとマインドが旅行ばかりしていて、たった一つの実在である今この瞬間を見ずにいるのです。

だから、あるがままの生を楽しむなんてとても無理なことなのです。代わりにどうにかこうにかして、刺激を探すことになるのです。

あなたが退屈せずにいるために使う刺激は、大抵が物語の中に見つけることになるのです。物語というのは過去から未来への時間軸の中にのみあるもの。

要するに、思考の中ということになるのですね。思考の中での楽しみというのは人為的なものになってしまいます。

年老いて何もすることがなくなってしまった時にも、そこに楽しみや喜びを見出すためにはどうすればいいのか?

それは、自分の周りに展開されているあるがままの生を見ることができればいいのです。それをただ楽しむことができるように、今から練習しておくことですね。