自分の年齢

昨日は誕生日だったのですが、自分の年齢がリアルに信じられない思いでいっぱいです。あと、4年で還暦ですよ~。自分が、60歳ってどういうことか、よく分かりませぬ。

全くといっていいくらいに、現実感がないのです。ついこの間まで自分は若者だよと思っていたつもりだったのに、初老に差し掛かると言えば言えるわけで…。

今思い出したのですが、自分が40歳になるというときにも何だかひどく不釣合いな感じがしていました。心の中は18歳くらいの感じがしていたので。

でも今は40歳じゃなくて、60歳という年齢を話題にしているわけで、何とも形容し難い数字に戸惑わないわけには行きません。

どういう60歳になるのか、どこから見ると自分を60歳だと認識できるのか、60歳とはどういうことなのか、何も理解することができないのです。

で、結局きっと今のままでさらっと60歳を迎えることになるのだろうと予想できます。だって、それ以外どうしようもないのですから。

ふと、周りを見たときに自分よりも年上の人がいないと気づいてびっくりすることもあります。個人セッションや講座、セミナーなどでも自分がほぼ一番年配なのですね。

きっと、年齢は自分が作り出すものなのだろうなと思っています。そう考えると、年齢って本当にナニモノなんだろうかと思えてきます。

人は誰でも自分の心の中心に自己像を作り上げてそれを大切に保存しているのです。自画像、あるいは自己イメージと言ってもいいでしょうね。

その自己イメージには年齢という要素もあるはずです。自分の場合には、それがとてもあやふやで自分は何歳だというものが欠落しているようです。

それでも平気で生きています。逆に年齢的な要素がないままの自己像を大切にしてしまえばいいのかなという気も、今書いていてしてきました。

それなら、不釣合いといった思いをすることもなくなってしまうでしょう。その方式でこれからずっと生きていこうかと思っています。そのほうが楽しそうですよね。

黒幕であるエゴ

エゴは自分は肉体だと自分に思わせようとする心の部分のこと。自分は他人とは違う個体だと自分に言って聞かそうとする心の部分です。

確かにそれは自分の心のある部分ではありますが、そうではない心の部分もあります。それが本当の自分のことを知っている心なんですね。

ただし、エゴはエゴ自身を分離させて、エゴの生い立ちを知っている部分と、何も知らない部分とにしてしまいました。

そのエゴの中にあって、何も本当のことを知らされてない心の部分が今、この自分を自分だと認識しているものと言ってもいいのです。

ですから、自分が自覚できる自分とはそうした心全体のほんの小さな部分から成り立っているということになるのです。

この自分は、自分がエゴに翻弄されていることに通常気づいていません。なぜなら、エゴは心の中で黒幕のように立ち振る舞うからです。

自分の存在を見えないように隠しながら、絶大な力で自覚できる自分を弄ぼうとしているのです。エゴの目的とは、自分の素性を決して知られないようにしながら、エゴ自身を存続させることです。

他には何の目的もありません。そのためだけに、ありとあらゆる努力をします。 私たちはエゴの一部とはいえ、エゴのそういった目的を知らずにエゴの指図通りに生きているわけです。

生まれたときから、徐々に洗脳されて、大人になるまでには立派なエゴの子分に成り下がってしまいます。これでは決して満ち足りた気持ちで生活する事はできないですね。

エゴの作戦を冷静に受け止めながら、それに飲み込まれないようにして、心のもう一方の大切な部分である、本当の自分の心に耳を傾けることです。

そこは愛そのものの心であるため、エゴの代わりにその声を受け入れて、その心と一体になっていくことこそが本当の幸せに繋がることだと言えますね。

心のデトックス

みなさんは、身体から毒が出て行くときに痺れる感じがするということを知っていますか?そういう経験をされたことはあるでしょうか?

デトックスという言葉が普通に使われるようになるくらい、今は身体の健康を志向するのが当たり前の時代になってきましたね。

ところで、身体の毒というのは元は何だと思いますか?それは、心の毒からやってくるのです。心の毒というのは、溜め込んだ辛い感情のことです。

感情そのものはいいも悪いもないのですが、それを溜め込むことによって心にとってはひどく都合の悪いものへと変貌してしまうのです。

溜め込んだ感情は、潜在意識の中に抑圧されて本人からも気づかないようにしまわれているのですが、それが限度を越えて溜まってしまうといずれは噴火するように表出することになります。

それが、切れるという行動となったり、本人としては何も理由がわからずに勝手に涙が出てきたりするようなことになるのです。

そうやって、感情を感情として表出して味わって心からダイレクトに毒出しすることもあれば、そうした心の毒を身体の毒に変換してデトックスしようとする場合もあります。

大抵の場合には、それが同時に起きます。催眠療法などによって、心の奥深くに溜め込まれた感情を開放すると、心の毒だしが起きるのですが、その際に身体の毒だしも同時に起きることが多いです。

そうすると、催眠療法のセッションが終わったときに、クライアントさんは手足はもちろんのこと、体中が痺れてしまったようになって、すぐには歩けないような状態になることもあります。

私も経験があるのですが、瞑想中に深いところと繋がることで奥の感情がデトックスされると、同時に身体が痺れてしまうのです。そうして、身体も毒だしに加勢してくれるのです。

その時の身体の痺れはそれほどいやな感じがしないものです。ただ、思うように歩けなくなったりして初めて体験する人は多少びっくりするかもしれません。

でもきっとしばらく経って落ち着いたときには、何とも清清しい気持ちになれることに気づいて、病み付きになるかもしれませんよ。

働き者の親

働き者の親を持つ子供の心というのは複雑です。なぜなら、誠心誠意一生懸命働いている親の姿というのは、尊敬に値すると思っている反面、その逆に不満も満載だからです。

働き者というのは、何かに向かって頑張っているわけですから、子供の立場からすると親にとっては自分よりも他に何か大切なものがあるのだなとの思いを感じるということです。

そして大変だなとも思っているので、自分がわがままを言って余計な迷惑をかけてはいけないと内心思ってもいるのです。

そうすると、確実に本音を言えないような親子関係が出来上がってしまいます。子供本人もそういった不満を自分が持っているという自覚がないので、そのまま何事もなかったかのように成長していきます。

親の方としても、我がままを訴えてこない子供というのはとても都合がいいので、何も問題がないと勘違いしてそれ以上のケアをしなくなってしまいがちです。

そうやって、子供の心は満たされない思いを溜め込んでいくことになります。それは基本的には寂しいという思い、もっと自分をかまって欲しいという気持ちなのです。

そしてそういうことを直接的に表現しないでいると、それは必ず間接的なものとして起きてくるのです。それは例えば不登校であったり、病気であったり、何かと親に面倒をかける子供の言動として現れてきます。

親は元々働き者ですから多忙をきわめていて、余裕がない状態にもかかわらず、そういう子供のやっかいな言動に付き合わされてしまうことになるのです。

ですが、実はそういった子供の訴える思いというのは、実は親自身の子供時代の不満そのものであるのです。それが解消されていないからこそ、子供がそれを身をもって教えてくれているということなのです。

表面的にばかり見てしまうと、困った子供だということだけが目立ってしまうのですが、親自身の心の癒しをしていく大切なチャンスが巡ってきていると理解することがとても大切なのです。

手のかかる子供を抱えていると感じている親御さんは、こうしたことを一度しっかり見つめてみることをお勧めします。

そして一人では解決できないと思うのであればプロの癒しを受けてみるのもとてもいいのではないかと思います。

委ねること

「奇跡のコース」の勉強会を昨年の一月より毎月一回続けてきたのですが、今日(正確には昨日の土曜日)は23回目でした。

よくも二年間も続いたものだなと思います。とにもかくにも、参加してくれるみなさんがいたからこそ今日まで続けることができたわけですから、みなさんに感謝するしかありません。

いつも勉強会の会場に出かけるときには、自分なりにある種のしっかりしないとみたいな、気負いがあったと思うのです。

自分が主催者だからということがあるのか、それなりにみなさんに満足して帰ってもらいたいというような思いがあったのですね。

正直言って、それは先月まではっきりと自覚することができました。ところが、今日会場に向かう自分は今までとは全く違う心持ちでいられたのです。

本当に不思議なことなのですが、何だか急に何の気負いもなくなってしまったようで、みんなに任せておけばすべてはOKなのだというのが分かったのです。

何もかも、自分が何とかしないといけないという思いがなくなってしまったかのような気分になりました。勿論すべてにおいて、そうはいかないと知っていますが。

それでも、自分の力なんて本当にたかが知れているし、それよりも何よりもプロセスを信頼することの方が何百倍もいいということが分かったのです。

心配することはなかったのですね。それは、何かのイベントのことだけではなくて、自分の人生にしても大切な人達の人生についても同じだったのです。

責任というのは、きっとでっちあげた信念に過ぎません。そんなものを果たしたからといって誰も幸せになるわけでもないですし、独りよがりに過ぎません。

これからは今まで以上に周りのみんなに委ねるということを学んでいくことになるような、そんな予感がしています。みなさん、助けて下さいね!

パニックのときの思考の狭さ

このセッションルームのある建物では、今までに何度か夜中などに廊下で大きな警報が鳴ってしまって、びっくりして施設管理会社に連絡したことがありました。

そのすべてが警報設備の誤動作でしたので、そのうちには鳴ってもまた誤動作かと思うだけで本当に火災だったら困るなと思うようになったくらいです。

また、一度だけ部屋でアルコールを使って台所の汚れなどを掃除していたときには、本当に作動してしまって驚いたことがありました。なかなか過敏な警報装置なのです。

いずれにしても、警報ですから勝手にこちらで止めるような仕組みはないわけですから、管理会社に連絡をして来てもらって止めてもらうしか手がないのです。

そんな中、先日またセッションルームに一人でいるときに、突然けたたましいピ~っという音が鳴り出して慌ててしまいました。その音が半端な音ではなかったので、すぐに火災警報音の誤動作だと思ったのです。

でも今回は廊下でもないし、確実に部屋の中で鳴っているし、でもアルコール類も使ってはいないし、またかと思って管理会社に連絡して来て貰うことにしました。

夕方であったために、クルマが渋滞するので40~50分くらいかかると言われて、内心とても憤慨していたのですが、こればかりは仕方がありません。

実際音がうるさ過ぎてどこから音が出ているのか探したのですが分からないくらい反響してしまっていました。こんな音をずっと聞いてたら頭がおかしくなりそうでした。

ところが、ふとテーブルの上にある小さな電波時計を見たら、文字が消えそうになっていたのでこんなときに電池交換かと思い手に取った途端、ピ~音の主はこいつだと分かりました。

電池切れしそうなのを警告していたのですね。電池をはずしたら音はなくなり、あ~やってしまったと気づきました。管理会社の人はすでにクルマでこっちに向かっている。

こちらから電話をして、平謝りしたのは言うまでもありません。思い込みというのは強力なものなのですね。特に、大きな音がしたりして軽くパニックになっているときには落ち着いて部屋中を見ようともしないのですから。

本当の警報音ではなくてよかったですし、管理会社の人が来てそれを発見されるよりはましでした。自分の決め付けてしまう心の狭さを実感させられた体験でした。

投資

投資というのは、その対象となるものにお金や労力や時間やその他のエネルギーを注ぎ込むことですね。その目的ははっきりしています。

投資したことによって、その見返りを求めているのです。値上がりしそうなどこかの企業の株を購入することも投資と言いますが、そのことによって金銭的な利益を得ようとするのです。

何か自分が興味のあることを勉強するために投資するということもあるはずです。女性であれば、身体をきれいに保つためにエステに通うというのも自分への投資です。

実際、私たちの生活というのはこの投資ということを常にやり続けていると言ってもいいかもしれません。親が子供の教育に多大なお金をつぎ込むのだって、子供の未来への投資と言えなくもありません。

投資についての質問といえば、何に投資をするのか、そしてどのようにして投資するのかという二つですね。いずれにしても、その投資によって自分が幸せになるのでなければ、こんな馬鹿馬鹿しいことはありません。

甚大な時間や努力やお金を投資して、その結果不幸になってしまうことが分かっていて投資する人など誰もいません。

必ず投資には幸せになるという期待が込められているはずです。もしも、大変な投資をしてきたのに一向に幸せになどなってないと感じるのでしたら、その原因に気が付く必要があります。

それは確実にエゴに投資をしてきてしまったからだと理解することです。エゴを救うために投資をしてしまうと、本人は決して幸せにはなれません。

エゴを救うとは、誰かに勝つとか、危険から逃れるとか、そうしたサバイバル的な要素を多く含む場合のことです。

投資と救いとは常に深く関係しています。本当の救いとは、心を救うことです。それは、心の本当の平安を得る以外にはありません。

そのことだけに投資をすることがとても大切なのです。それには、具体的な心の癒しや瞑想などに意識を向けることです。そうした投資こそが真の救いへと繋がるのですから。

ACIM翻訳本

「奇跡のコース」の日本語訳本がようやく出るらしいですね。もうすぐオーダー受け付けるらしいとのことです。大手の書店でも見かけることができるかもしれません。

アマゾンで検索したら出てきましたから、今度こそ本当ですね。但し、第一巻はテキストだけということです。この本の真髄は、ワークブックを通して実践することなのですが、そのあたりが誤解されなければいいと思います。

そうはいっても、書店で手に入るようになるわけですから、一般の人達に知ってもらう大チャンスがやってきたと言えるかもしれません。

それは本当に喜ばしいことです。どういういきさつかは置いておくとして、各国で翻訳本が出版されているにもかかわらず、日本だけが出遅れていたわけですから。

ようやくという気がします。私が読み出したのが一昨年の秋ですから、もうすでに2年以上が経ちました。今日出版される日本語訳本が話題になることを期待してしまいます。

この日本でもそろそろ何かが起き出す予兆のようなものを感じます。それは勿論日本だけではなくて、全世界レベルでのことだと感じています。

今週末にやる勉強会は23回目になります。年末でちょうど丸二年経つことになります。日本語訳本が出回るようになったら、勉強会に興味を持っていただける人が増えるかもしれないと密かに期待してたりします。

また、今月から始めた「奇跡のコース」の講座にも、今後もっともっと沢山の方々に関心を持ってもらって、多くの人が受講してくれたら本当に嬉しいのです。

一人でも多くの人の心が少しでも平安な状態に向かっていくことを考えると、ある種一気にこの世界のあり方が変わってしまうかもしれないという嬉しい期待をしてしまいます。

なにはともあれ、よかったです。

誰もが教師

結婚して子供が生まれると、若い両親は大なり小なり子供にこうなって欲しいというような思いをもつようになります。

そして親によっては、明示的に躾けをする場合もあるでしょうし、逆にあまり明らかな躾けを意識しない親もいると思います。

私はどちらかと言うと後者に属する親に育てられたと思いますし、私自身が親になったときにも同じようにあまり躾けを意識したことはありませんでした。

そのように明らかな躾けをされない場合でも、子供は親から多大な影響を受けるものです。それは誰もが知っていることですね。

私なりの解釈では、親の潜在意識の中身がそのまま子供の潜在意識の中に入り込むのだろうと思うのです。だから明示的な躾けがなくても深く影響されるのです。

親自身も気づいていない心の深い部分が、知らず知らずのうちに子供の心の奥まで影響してしまうということです。

したがって、親がこれは伝えたくないと思っていたとしても、それは気が付くと子供の心に入り込むことになるということです。

こうしたことは、何も親子の間だけではなくて人と人が何らかの関係を持つときには必ず起きることだと言えるのです。

つまり、人は生きているだけで周りにいる自分以外の人達に心の中の信念や思いなどを伝えてしまっているということです。

明示的に伝える場合も勿論のこと、そうでなくても伝播していくのです。簡単に言うと、自分の心の内側にあるものは、外へと広がっていくということです。

それは残念ながら肯定的なことだろうが否定的なことだろうが違いはありません。したがって、苦しんでいる人はその苦しみを外側へ伝播させてしまうことになります。

愛に溢れた心は周囲の人の心に愛の気持ちを起こさせることになるということです。気づかぬうちに、人は誰もが教師になっているということです。

どうせ教えて伝えてしまうことになるのなら、なるべく誰もが幸せになるようなことが自分から発信されるようにしたいものですね。

無知である喜び

みなさんは大人と子供の違いって何だと思いますか?大人はいろいろな経験や知識が豊富で、子供よりは沢山のことを知っていると一般に思われています。

子供は生を受けてから間もないので、当然のことながら経験が足りません。だからこれから学校や人生で勉強して知識を増やしていくのですね。

しかし、本当の違いはそこではありません。子供は自分がまだ無知であるということに気づいています。だから、素直にいろいろな事に疑問を持つし、怖がりもします。

それに比べて、大人の我々は自分が同じように無知であることに気付いていないというところが最大の違いなのです。

なぜなら、子供から発せられた単純な質問に答えることができないからです。自分はどうして生まれてきたのか、なぜ宇宙があるのか、死んだらどうなるのかなど。

どれ一つとってももっとも基本的な質問に答えられないのです。大人が知っている知識というのは、この世界では重要視されることもありますが、本当に大切なことは知らないのです。

本当に大切なこととは、自分たちが幸せになるために知るべきことです。生きている理由が分かれば心穏やかになれるはずです。

死ぬということの本質が分かれば、恐れずに生きることができるかもしれません。結局何も知らないままに大人になっているため、いつまでたっても恐怖の中で暮らしているのです。

自分は子供のときと何も変わらずに、無知のままだということをまずしっかりと認めることです。無知であることは決して駄目なことでも悪いことでもありません。

無知であることを恥じるという習慣があるために、頑張って知識を増やそうとしてきただけです。でもその知識をどう使っても幸せには至らない、どうでもいい知識ばかり増やしてきたのです。

無知であるということを認めてしまうと、何の責任も感じることがなくなります。子供と同じように無邪気なままでいることができるのです。

ここに「委ねる」という大切な心があるのです。大人になると、自分の知識や能力で何とかしようと頑張ってしまい、それが重圧となって苦悩を呼び込んでしまいます。

純真な子供のように、「委ねる」ことを思い出すことです。無知であることを精一杯喜びましょう。そこにこそ、本当の心の平安があるのですから。