共通の恐怖

私たちの恐怖感とは、大抵が分からないということと直結しています。死ぬのが怖いのは死んだらどうなるのか全く分からないからです。

死んだらこうなってこうしてこんな具合なんだということがはっきり分かっていれば、誰が死ぬことを恐れたりするでしょうか。

幼い子供が異常に注射を怖がるのも、どれほどの痛みが襲ってくるのか分からないので怖いのです。何度も経験してこの程度かと分かっていれば恐れはかなり軽減されるのです。

こうしたことをよくよく考えてみると、私たちが共通して持っている恐れの正体というものが浮かんできます。

それは誰もが疑問に思っているのに、その答えが分からないということを考えてみればいいということが分かりますね。

それは、自分は何で生まれてきたのか?自分の人生はどうなっていくのか?死んだらどうなるのか?この人生の目的は何なのか?自分とは一体何者なのか?

こうしたことは日々生活していくうえでは必要ないこととして頭に浮かんでこないようにされていますが、こんな基本的なことが何も分からないというのは恐怖に違いないのです。

この恐怖心を見ることはとても都合が悪いので、通常は考えないようにして心の奥にしまい込んでいるのです。

それでもそこから来る恐怖感というものは、いつもどこかで感じているのです。どんなに笑い転げても、とても嬉しいことが起きても、いずれまたこの恐怖感の中に戻ってくるのです。

人生のどこかで落ち着いて、こうした分からないことに気持ちを向けていく必要があると思うのです。そして、もしもそうしたことへの疑問がなくなり、そうなんだと合点がいくようになったとしたら、心の奥に巣食っていた恐怖はなくなっていくのです。

宗教というのは元々はそうしたことを助ける目的があったはずなのですが、私が知っている宗教は組織化されてしまい、かえって人々に新たな恐怖心を与えることになっているように思えます。

何とかして、少しずつでも分からないことを分からないとはっきりと認めて、そこから目を背けずに向き合っていくことが大切だと思っています。

そうやって本当の自分というものを思い出すことが人生の目的なのではないかと思うのです。みなさんと一緒にそうしたことをやっていきたいと常々思っています。

救急外来に行く

数日前から右足の太ももの内部のうずくような強い痛みで眠れなくなっていたので、今日思い切って夜間の救急外来に行ってきました。

病院に行くのはちょうど10年ぶりで、もう自分にはあまり縁のないところという感じになっていたのでやや不思議な感じすらしました。

夜間救急でも普通に患者さんたちが結構いるということにも軽い驚きを覚えました。こんな夜にきっと誰もいないんじゃないかとたかをくくっていたからです。

受付の人に症状を説明しても何科に行けばいいのか分からない様子で、結局整形外科と皮膚科の両方にいってくれと言われてしまいました。

整形外科の若い医者がパソコンを軽快に打っているのをみながら、なんだかお医者さんも変わったなあと思いました。

自分が子供の頃など、パソコンなど勿論あるはずもなく、お医者さんはニコニコしながらこちらを伺ってくれるというのが定番のような記憶があるのです。

腰や足のレントゲンを取られたりしている間に何だか病人になっていく意識のようなものを感じてしまいました。こうやって、心が病人を作り出すのかもしれないとも感じました。

そして、自分が好きで作っているこんな症状について、熱心に聴いてくれる若いお医者さんに何となく申し訳ないような気持ちもしてきました。

結局、外科では特別な問題は見つからず、今度は皮膚科に回されて、そこでは単純にヘルペスだろうとの診断をもらい、ウイルス対策と痛み止めの薬をもらって帰ってきました。

私が行ったその救急外来の建物は、殺伐としていて安心できるような温かみがないような感じでした。そんな場所で夜遅くまで働くお医者さんやその他の人達には頭の下がる思いがしました。

病気は心が起こしていると分かっていても、痛みが強くなると結局お医者さんに診てもらうことになるのですから、日頃から西洋医学やお医者さんはじめ医療に従事されている方々への感謝も忘れないことだなとしみじみ思いました。

対人関係の恐れ

誰でも人からどう見られているのか、どう思われてしまってるのかということがとても気になるものですね。そう思いたくなくても、心の中ではどう評価されるかということに一喜一憂しているのです。

それは対人関係での恐れとなって現れ、自然な人とのコミュニケーションなどを妨害してしまうことになるのです。

必要以上に人前で緊張してしまってみたり、人といるととても疲れてしまってすぐに独りになりたいと思うなど、円滑な人間関係に悪影響を与えることになります。

恐れているのは単純に言って、人からの悪い評価です。否定的な目で見られて駄目出しされることがとても怖いのです。

しかし、よく考えてみると、そうした否定的な目で自分を見る相手の心というのは、間違いなく愛ではなくてエゴそのものだと言えます。

つまり、私たちは相手のエゴからの悪評を恐れているということになるのです。そして予想通りというか、エゴは必ず相手を酷評するのです。それがエゴの特性だからです。

絶対的に言えることですが、逆に相手の心の愛の部分は自分を悪く評価するということはないということです。

愛は裁くということを知らないからです。誰の心の中にも確実にある愛の部分からは、自分への愛しか送られては来ないということです。

ですから、相手の愛だけを考えて関係を作っていくのであれば、これほど安心なことはないのです。決して嫌われないし、絶対に裁かれないのですから。

ならば、相手の愛だけを信頼してそこだけを見て関係を作っていくことにすればいいのです。相手の愛は自分を悪者にすることはないのですから。

そうやって、愛だけを相手に対人関係を続けるなら、きっと相手も自分の愛の部分だけを相手にしてくれるようになるはずです。

結局それが互いに愛と愛が関係を作る理想的な人間同士の関係となっていくのです。愛だけが分かち合えるので、そこにこそ幸せな関係が生まれることになるのです。

真実はシンプル

かつて沢山の物理学者たちがこの宇宙の法則を見つけてきました。それは大抵単純な数式で表すことができます。

たとえば、E=mc2 という式がありますが、これはアインシュタインが彼の特殊相対性理論の帰結として導いたものです。

内容の難しさからしたら、その結論としての式の何とシンプルなことでしょう。この結論を導き出すまでに、彼は自分では数式が解けないので、数学者に手伝ってもらっていたということを聞いたことがあります。

その結果、そんなにシンプルな式が最後の最後に与えられたのですから、その喜びは筆舌に尽くせないでしょうね。

この式は、この物質宇宙のあるレベルでの真実を表しているということが言えますが、残念なことにこれとてすべてを網羅しているのではないということが後になって証明されました。

心の世界でのことも全く同じようにして、シンプルであればあるほど真実に近いということが言えるのではないでしょうか?

人はエゴで物事を捉えたり考えたりするので非常に複雑になってしまうのですが、それは決して真実を反映しているとは言えません。

奇跡のコースの中で記述されている登場人物は、神と聖霊と神の子である我々の三つだけです。そこには、妖精や天使、守護霊やご先祖様など出てきません。

しかもそれはエゴである我々が読んで分かるようにそのように書いてあるだけであって、真実は愛である神しかありえないのです。

真実とはそこまでシンプルなのですね。では、神とは似ても似つかないエゴの自分は一体何なのでしょうか?真実はシンプルであるなら、複雑怪奇な我々は真実ではあり得ないということになります。

つまり実在しないということです。実在しないのなら、何でこんなブログを書いてるのか?それは書いているという妄想、この人生を生きているという妄想に過ぎないのです。

この複雑な世界に生きている複雑な我々の本当の姿は愛そのものであって、それはすべてが一つであるという最もシンプルな想念であるだけなのだということです。

身体の痛み

ずっと以前から身体の痛みというものは一体何なのだろうか?という疑問を持っていました。そんなことをわざわざ考えなくてもいいようなものですが、子供の頃から自分の中で大きな問題だったのだと思います。

時々お腹が痛くなることがあったからかもしれませんし、もっと幼い頃にはいつも具合が悪くて肉体的な苦痛を感じながら生きていたというのも理由かもしれません。

どんなにそれをいやだと思っても、苦痛はやってくるのですから、何とかならないものかと考えるのも当然といえば当然ですね。

これだけは、どんなに両親に頼み込んでも助けてもらえるわけではないですし、自分ひとりでその痛みと戦わなければならないわけです。

心の癒しをするようになって、身体の痛みはすべからく心の痛みからくるものだということが分かるようになりました。

心が健康そのもので身体だけが苦痛を訴えるということはあり得ないということです。ただし、その元になっている心の痛みを見ようと思っても通常見ることはできません。

なぜなら、それは自分にとって都合の悪い部分だからなのですし、だからこそそれを身体の痛みとして形を変えて自分に見せつけようとするわけです。

初めから心の痛みを自分に隠さずに見つめてあげていさえすれば、わざわざ身体の痛みとして訴える必要もなかったわけですから。

身体の痛みが現在のものだとしても、その元になる心の痛みは間違いなく過去のものです。過去のどこかの時点で傷ついた心がその痛みを今になって身体を利用して見せ付けているのです。

身体の痛みがしつこくて強烈であるという人は、過去に沢山の心の傷を負っていて、それを次から次へと無自覚に心の奥に隠して生きてきたということになります。

ですから時間はかかるかもしれませんが、丁寧に過去を紐解いて自分の心にどれほどの傷を隠し持っているかを調べてあげることが必要です。

ただし、こうした過去を洗い出す作業には終わりというものがありません。いくら繰り返してももうこれで終了ということにはならないのです。

ですから、ある程度処理することができたなら、その後は痛みそのものを受け入れて心を受動的な状態から与えるという能動的な方向へ積極的に変えていくことが重要です。

そうすることで、身体の痛みを使って訴えていた受動的な気持ちを使わなくなっていくことができ、結果として身体の痛みは激減することになっていくはずです。

求めよ、されど得られず

私は若いときにはお金がない割に欲しいものが沢山あって苦労しました。年齢を重ねていくと、次第にそれほど欲しいと思うものがなくなってきます。

それでも、何もいらないという境地にはならないのが普通だと思います。私たちは欲しいもの、望むものが手に入ると幸せになると錯覚しているのです。

確かに手に入れた瞬間は喜びがやってきますが、それはほんのつかの間の出来事であって、またすぐに次なるものを手に入れようとして頑張るのです。

そうやって長い間生きてくると、さすがに何を手に入れたとしても本当には満たされることはないんだなと分かり始めてしまいます。

「求めよ、されど得られず」これこそがエゴの策略なのです。私たちが本当に求めているものとは、心からの満足感です。

それはどんなに外側に求めても得ることは出来ないのですが、エゴはそれを隠して求め続けなさい、そうしたらいつか満たされるはずと吹っかけてくるのです。

しかし自分を見つめる習慣がついている人ほど、これはトリックだと気付くことになります。エゴの言われるままに外側に求めているだけでは決して満たされないのです。

心から満たされる状態、それは永続的な心の平安をもたらすことになり、それこそが本当の幸せなのですが、今までのやり方では決して得られないとはっきり理解する必要があります。

そうした満たされた心というものは、本当はもうすでに私たちの心の奥にあるのです。ただそこにふたがされてしまっていて、分からなくなってしまっているだけなのです。

ですから、そのことに気付きさえすればいいのです。何も外側に求めなければいいだけだったのです。逆に、外側から何かを手に入れるということに意識を向けてきたからこそ、このことに気付けなかったのです。

何かの拍子にそのことに気付いてしまった体験をした人はきっと沢山いるはずです。私もあるときに自分は完全に満たされている、足りないものは何もないという状態になったことがあります。

それはあまり長い時間続かなかったのですが、でもその感覚は今も明確に残っています。多くの先達たちが座禅や瞑想に明け暮れていたのはそうしたことに気付こうとしてのことでした。

誰の心の中にも必ず自分は満たされていると自覚している部分があるのです。その部分と繋がることさえできたら、完全な幸せが手に入ったと感じることでしょう。

どうしたらその満たされた心の部分を自覚することができるようになるのでしょうか?そのヒントとなることをこれからもこのブログで綴って行きたいと思っています。

二つの夢

私たちは眠っているときに見る夢の中で隠された自分の願望を達成しているのです。私は何度か身体が浮いて空を飛べる夢を見たことがあります。

また、たまにですがスプーン曲げができるようになった夢も見ます。やっぱり曲がったよ、今回は夢じゃないよな?確かに現実だ!と実感する夢なのです。

なかなかくだらない夢なのであまり大きな声では言えないのですが、そのリアリティには本当にびっくりさせられてしまいます。

また、寝ているときの夢は大抵支離滅裂です。あまりストーリーもなければ、まったく現実のルールを無視している場合もかなりあります。

とても怖い夢や辛い夢などの場合には、それは自分の願望ではないと思うかもしれませんが、実はあれも自分の望みどおりなのです。

心の中のエゴは自分を傷つきやすい存在であると自分に思わせたいという強い願望を持っているため、そのエゴと自分を同一視すると、そうした恐ろしい夢やひどく苦しむ夢を見ることになるのです。

そうした夢から目覚めて現実の世界に戻ってくると、誰も夢の中の出来事をホンモノだとは思わないはずです。夢は夢で終わったわけですから。

ところが、その夢を見ることになった原因である自分の(隠された)願望そのものがなくなったわけではありませんね。

目覚めたあとでも依然として空を飛びたいと思っているし、スプーンを曲げられるようになりたいという願望を持っているのです。

誰かと争った夢であれば、その人を攻撃したいという怒りの感情をこの現実の世界でも持っているということですから。

こうした寝ている間に見る夢の特性とこの現実とはとてもよく類似しているのです。言ってみれば、この現実とは起きている状態での夢なのです。

寝ている時の夢と起きている時の夢は自分の願望が達成されている場面を体験するという点では全く同じものと考えられます。

寝ているときの夢の中で見る周りの世界はすべて自分の心の中にある思いであるということは誰もが知っている事実です。

しかし夢の中ではそのことに気付きません。夢の中に現れた人達が自分の心で作ったものだとは決して思わないのです。

この現実という起きている時の夢もそれと全く同じなのです。自分の外側には自分の心とは別の世界が存在していると信じています。

しかし真実は、寝ているときの夢のように自分の心の中の思い、願望を外側に投影してそれをあたかも自分とは違う外側の世界があるとしてみているのです。

この二つの夢はかたちは違えど同じ夢であることには何の違いもないのです。私たちは、この現実の世界で自分の心の願望を常に見ているということです。

その願望は実在の世界、真実の世界からはかけ離れたものですが、そのことを信じることなくこの現実こそが真実なのだと思って疑わないのです。

起きている時の夢の本当のねらいは、自分は全体から分離した個別の存在であって、そのことに価値があるということを証明しようとするものです。

それがすべては一つという想念である実在(愛)の真反対であることは確実です。愛のない現実という夢が悪夢であることは当然の結果であると言えます。

しかし落胆する必要はありません。この悪夢をすばらしい夢に変えていくことができるからです。エゴと同一視することをやめて、愛を見たいという願望を常に意識することで夢の見え方が一変するはずです。

そうすると、見るもの聞くもの、手に触れるものすべてが愛しいと感じることができるうれしい夢になっていくはずです。みんなでこの現実という夢を幸せな夢に変えていきたいものですね。

生まれてきてよかった

みなさんは自分が生まれてきた目的は何だろうと考えたことはあるでしょうか?セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、人生の目的と役割を知りたいという方が時々いらっしゃいます。

私自身は自分が生まれてきた目的について、あまり深く考えたことはないのですが、それはきっと目的などないだろうという思いが強かったからだと思っています。

同様にして役割などあるはずもないと思っていました。ある意味、ドライな考え方かもしれません。そして、楽しいこともあるけれど、どちらかというとこの人生を生きていることは面倒くさいことだと思っていました。

死にたいという気持ちとは全く違うのですが、どこかで早く過ぎ去って楽になれたらいいのにという感覚がいつもありました。

過去形で言っているのは今はそれがなくなったからなのですが、それはあるときに本当に生まれてきてよかった!という感覚になったことがあったからです。

瞑想中に大きな感謝の渦の中に投げ込まれたようになって、あまりの感動にうなり声をあげているときにはっきりとそう思ったのを覚えています。

この人生を生きてきてよかった、この自分をやっていて本当によかった、この人生で正解じゃないかという思いでした。

そうした経験をしてから、早く過ぎ去ればいいのにという思いが薄れていきました。それでもやっかいだなこの世界はと思うことは多々あるのですが、生きる目的ができたようにも思えてとても楽になりました。

生まれてきた目的は、勿論誰であろうとここで幸せになることです。そして、その幸せを周りの人達に伝播していくことだと思えるのです。

私たちは自分ひとりで幸せになることはできません。幸せはみんなのものだからです。もしもまだ生まれてきてよかったと思ったことがなければ、それはこれから必ずやってくると信じてください。

そのために生まれてきたのですから。それは自分が妨害し続けない限りかならずいずれやってくるし、そのときには本当に自分は恵まれていると感じて嬉しくなるはずです。

静かな心

私たちはほんのちょっとしたことで自分の気持ちが高揚したり、全く些細なことでうんと落ち込んでしまったりするものです。

そうした周りの瑣末なものによって、心が波打っておおいに影響させられてしまうと、もっとしっかりとした何事にも動揺しない冷静な心を持ちたいと思うものですね。

確かに、何かに巻き込まれてしまってパニックになっていたり、とにかく冷静さを欠いてしまってあらゆる不安に飲み込まれてしまうと、本当の自分の能力や判断を使うこともできなくなってしまいます。

しかし、よくよく自分の心の中をのぞいてみると、どんなときにでも静かにただ周囲を見ているだけの自分がいるということに気付かされます。

それは起きている事柄にあまりにも影響されてしまう自分からすると、まったく異なる自分の姿に見えてびっくりすることになるかもしれません。

でも誰の心の中にも確かにその静かにしていられる心の部分があるはずなのです。それは一体何者なのでしょうか?

よく危険な状態におかれると、周りがスローモーションのように見えるということが言われますね。私自身も幼い頃に家の脇にある川に三輪車ごと転落したことがあるのですが、そのときに周りの景色がスローモーションのように遠ざかっていくのをはっきり見ました。

そしてすごく冷静でした。それは川に落ちていくということに気付いていなかっただけかもしれませんが、それでも恐怖を全く感じなかったというのは普通ではあり得ないことです。

表面的な自分の意識がそのときに起きている事象に対処できないと感じたときに、一瞬降参するのではないかと思うのです。

そのときに、バックに控えているホンモノの自分の心が出てくるのではないでしょうか?それがどんな状態であろうとも静かに物事を見ているだけの心なのです。

私は10年ほど前に大腸癌になって手術をしたのですが、そのときにも表面意識では怖いし全くとんでもないことになってしまったと思っているのに、奥にある心はことのいきさつを静かに見ているようでした。

そこに意識をあわせると、どうしたわけか慌てず焦らずただ静かに成り行きを見守っているだけのように感じたのです。

その静かな心と繋がっているときには、何が起きようとも全く動じないでいられるのですから、なんと頼もしいことでしょう。

大きなパニック状態がやってこなくても、自然とそこと繋がることができれば、いつも穏やかな落ち着いた平安な心でいられることになるのです。

この静かな心と繋がる練習こそが瞑想なのではないかと思っています。
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分かち合う

エゴは何についても違いを見つけようとするのですが、分かち合うことはその反対です。違うことを互いに分かち合うことはできません。

全く違いがないという認識をしあうことこそが、分かち合うということの本質なのです。したがってそれは共感するということでもありません。

分かち合うことのできるものとは、変化をしないものです。なぜなら、変化してしまうものはそこに違いが出てきてしまうからです。

だとすると、この世界で変化しないものを見つけることは不可能ですから、この世界の中で真に分かち合うことのできるものは一つもないということになってしまいます。

違うということが空間を支えているし、変化することが時間を支えているのです。ですから時空がベースであるこの世界では分かち合うことはできないのです。

しかし、それは時間と空間の中で生きているという思いにおいての話しです。本当の世界は、時間も空間もないのです。

だからこそ、すべてが分かち合うことができるということが分かるのです。分かち合うとはコミュニケーションするということです。

それが愛です。愛は互いに愛を分かち合いつつ、それを繰り返し続けているものです。そうした世界にこそ、本当の私たちは生きているのです。

分かち合うことが愛の本質であり、愛は分かち合うことでその愛そのものを増やし続けています。それが本当の世界のすべてです。

苦しみや痛み、罪悪感や恐怖などは決して分かち合うことはできません。そこには愛がないからです。愛はすべては一つとして分かち合っている状態だからです。