マインドが問題を生み出している

改めて考えてみるまでもなく、人生というのは誰にとっても問題だらけだということに変わりはありません。

沢山の問題は一体どこからやってくるのかというと、それはたった一つ、あなたのマインドが起源なのです。

マインドこそがあらゆる問題を作り出す生みの親だったのです。マインドが日夜全ての問題を創造しているという事実に気づくこと。

もしも多くの人々が、日々瞑想を心がけて自らのマインドの活動を低下させるようになったなら、あっという間にこの世界は変わってしまうはずです。

もちろん瞑想だけでマインド(自我)が消えて無くなってしまうわけではないので、問題がなくなることはありません。

けれども、問題の深刻さは和らいで、今起きている殺し合いのような事態は無くなっていくはずです。

人間の困った性質は、自分(のマインド)は悪くない、自分は正しい判断ができる、自分は正常だと信じて疑わないのです。

いつも悪いのは、他人(のマインド)だと思っているのです。それこそがマインドの病んでいる証ですね。

雉も鳴かずば…

「雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい」という諺がありますね。この言葉から今誰のことを連想するでしょうか?

正直言って、現在の総理大臣である岸田さんの支持率がそこそこ高いままで推移しているのは、きっと彼が何もしないからなのでしょう。

マスコミは何もしないリーダーを批判できずに、何かした場合に限り難癖をつける傾向にあるのです。

そのために、テレビと新聞が主な情報源の人にとっては、悪評が少ない無難なリーダーだという評価になるのでしょう。

あなたも雉(キジ)になってはいませんか?つまり、人との関わりの中で余計なことをなるべく言わないようにしていないかということです。

あなたに悪意がないのであれば、言いたいことは表現することです。言わずに過ごしていると、それがチリも積もればでいずれは強大な怒りとなるのです。

百歩譲って表立って表現しないまでも、少なくとも心の内ではしっかりと表現するように心がけることです。

それもせずにいると、自分の本音が自分でも分からなくなってくる恐れがあります。そうなると、危険ですね。

人生物語に興味なし

戦国武将の中で誰が好き?と聞かれても、ええと分かりません、特に好きな人や尊敬する人も見当たりません、というのが本音なのです。

それが普通だと思っていたのですが、大人になってみて分かったのですが、多くの人が戦国時代の歴史に興味を持っているのですね。

その歴史への興味が武将への興味に繋がるのだろうと思うのですが、私にはそれが全くないのですから仕方ありません。

若い頃、自分の先祖が武田信玄の家臣だったという事実を知ったときに、武田信玄の歴史小説を読んで面白いと思ったことはあったのです。

だからと言って武田信玄に心酔するとかは全くありませんでしたし、結局はその内容についてもほとんどを忘れてしまいました。

それなら、戦国武将に限らず歴史上の偉人と言われている人で、尊敬する人や注目する人がいるかというと、それもないのです。

要するに、この世界でどんな活躍をしたかということ自体に、それほどの興味を持つことがないということです。

だから自分はそもそも人物やその人の人生に興味を持てない人間なんだと思って、人間が嫌いなのだと思っていたのです。

ところがセラピストをするようになって、その認識が少し違っていたことに気づきました。

私の興味は人物や人生ではなくて、人の内面に向いていたということです。マインドの仕組みはどうなっているのかを探求することは好きなのです。

そしてその先に、つまりはマインドよりももっと私たちに近いところ、そこに本当の私たちの姿が隠されていることを知りました。

これほど興味深いことは他にないですね。

ソロキャンプ

先日クライアントさんから聞いて知ったのですが、近年「ソロキャンプ」というのがそこそこ流行っているらしいですね。

一般的なこれまでの感覚で言うと、キャンプというのはみんなでワイワイとバーベキューを楽しんだりして、家族や友人達と共に過ごすのをイメージします。

けれどもソロキャンプはたった1人で出かけて、誰とも繋がらずに1人で過ごして帰ってくるキャンプなのだそうで。

ちゃんとソロキャンプ用のキャンプ場もあったりして、ワイワイ組が入り込まないようになっているらしいです。

少し前だったらちょっと変わり者扱いされそうな感じもしますが、徐々に市民権を得られるようになって来たということでしょうか。

人はこうあるべきというくだらないシバリが取れて、何でもありになって来たという喜ばしい流れの一つかも知れません。

私もソロキャンプをイメージしたら、いいかもしれないと思いましたね。周りに誰の気配もないところで、自然に囲まれて。

土の匂いや静寂の中で、ココロ静かに過ごせるのは本当に気持ちのいいものかもしれません。ただ若干の気になる点があるとしたら。

重い荷物と寒さと風雨が苦手なので、この軟弱さを振り切って実行に移すだけの魅力が見つかると良いのですが。

逃げずに眺めること

私たちのマインド(自我)には、不安と孤独が付き物であるということは幾度となくこのブログでもお話ししてきました。

個として生きているつもりでいる以上、原理的に避けては通れないものです。そして自我はそれを生きるための原動力として利用しているのです。

つまりは、どうやったら不安から解放されて安心していられるのか、どうすれば孤独から解放されてその恐怖とおさらばできるのか。

それを一生を通じて実践し続けているわけです。当然原理的なものなので、何をしようが根本的には不安も孤独も消え去ることはありません。

唯一やれることは、不安や孤独を味わわずに済む算段をすることだけです。そのためどんな方法も一過性の効果しかありません。

その結果が不安→安心→不安→安心の永久ループになるのです。この果てしない自我の無限ループから抜け出したいなら、やり方は至って簡単。

自分が持っている不安と孤独から一歩も逃げずにそれらを眺めること。その二つを友にしてしまえばいいのです。

その結果、自我そのものが弱体化していくという思いもよらぬ効果も生まれてくるはずですね。

過去の自分に伝えたい

子供の頃のことですが、何で自分は自分なんだろう?という不思議な疑問を持っていましたね。

言葉ではその感覚を正確に伝えることは無理だと思って、一人で密かに思っていたのですが、成長するにつれてそれを考えることも無くなっていきました。

あの頃の感覚を今思い返してみると、自分が自分である必要性がどこかにあるのだろうかというような感じです。

生まれてこなくてもいいし、自分じゃなくて別の誰かであったとしてもいいわけで、そこがしっくりこなかったのです。

明日はまたこの自分をやるのだろうか?あるいは全く別の誰かをやることになるのだろうか?といった変な考えもありました。

成長するにつれて、この世界により馴染んでくるようになったため、あの感覚も薄れてしまい、己自身のことよりも周囲のことに関心が移っていったのでしょう。

今の自分なら、あの頃の自分に伝えて納得させてあげられるかなと思って、考えてみました。きっとこんな感じなら理解してもらえるかなと…。

「君が感じている不可解な感覚というのは、たった一つの大きな間違いからやってきているんだよ。それは、個人としての自分という存在は思考によってでっち上げられたものだということ。君という個人は存在しないんだ!本当の君は誰でもないし、本当はこの宇宙に遍在している意識なんだよ。今すぐに分からなくても、いずれは理解できるようになるから楽しみにしていてね。」

実際に過去に戻って子供の自分に伝えている情景をイメージしていたら、それ以外にもたくさんのことを教えてあげたくなりましたね。

防衛から見ることへ

もしも次にまた本を出版するとしたら、上記のような題名にするかもしれないなあなどと考えた今です。

あるいは、「思考から意識へ」でもいいです。どちらも同じことを指すからです。昨日のブログでも書きましたが、思考から意識へと中心をシフトする、ということですね。

思考とは防衛であり、意識とは見ること、だからです。少し乱暴な表現かもしれませんが、とにかく細かなことは置いておく。

そして、よりシンプルな表現がいいのかなと思うのです。100%ではないにせよ、思考は防衛のために使われることが多いのですから。

だから思考が働いているときには、自己防衛をしようとしていると思って、注意することです。

そして一方の意識というのは、見るということで表現できるのです。他の言い方では「気づいている」ということです。

もしもあなたが1分間何かを考えている時間があるとしたら、同じだけ眺める時間を作ってあげることです。

眺める対象は自分の内側であったり、あるいは外側に広がっている全体をただ眺める(見る)のです。

そして少しずつ眺める(見る)方の時間を伸ばしていくことができれば、思考(防衛)よりも意識する(見る)ことへと比重を移していけるのです。

こうしたことを日々心がけて練習・実践していくことによって、1年後のあなたの意識がより覚醒状態へとシフトしているはずですね。

全体性と完全さ

自我という個人には、残念ながら全体性というのを理解することができないのです。理由は、個だと信じているからです。

個というのは単なる概念(思考)であって、それが実在した試しはないのですが、全体性の代わりに自我がでっち上げたものがあるのです。

それが、「完全さ」です。自我は常に完全でありたい、完全を目指して突き進むという病的な部分を持っているのです。

完全さはいつか達成するべき未来にあるものですが、全体性は常に今この瞬間にあるものです。

もしも私たちが思考(自我)から意識へと中心をシフトしていくことができれば、完全などという概念の馬鹿馬鹿しさにもっと気づくことになるはずです。

私たちがいずれ死を迎えたときには、肉体に関連させられていた意識はあっという間に全体へと溶けていくことになります。

それはあたかも海面の飛沫の一雫が海の中へと戻っていくようなものです。そして、これまで活動してきた思考と感情のエネルギーが行き場を失うのです。

その結果、その波動に一番近い波動の子宮の中へと入っていって、次の人生がまた始まるというわけです。それが輪廻ですね。

正しさを押し付けない

子供を持つ親とか、あるいは子供を教育する先生などは、子供に対してできるだけ正しいことを教えようとする傾向にあります。

正しいことを教えるのですから何が悪いの?何も悪くないし当然のことと思われがちですが、そうでもないのです。

人生の先輩が子供たちに教えてあげなければならないことは、実は正しいことに殊更の価値を見出す必要はないということです。

自我にとって正しさというのは、防衛のツールとして重宝するものであるだけで、だからこそそれにしがみつこうとしてしまうのです。

正しさを身にまとっていれば、周囲から否定される恐れは減るし、いい評価をもらえるために、大切なものだと考えるのです。

幼い頃に強い力で正しさを押し付けられた子供は、自分のあるがままの姿がその正しさの枠の中に入っていないことに気づいて、自己否定するようになるかもしれません。

それはとても残念なことですし、大きな勘違いでもあるのです。私たち人間は正しさの中に収まりきれないくらいに自由なのです。

正しさよりも絶対的に自由であることの方が大切だと気づくこと。そして自由よりも大切なことは、自分が楽しんでいることです。

楽しいこと、自然であること、自由であること、こう言ったことはどれも正しさよりも圧倒的に大事なのです。

こうしたことを子供たちに教えてあげることは、大人の役割でもあると思います。そして、大人になったときに、正しさを優先して生きているなら、勇気を持って自らそれを変えていくことですね。

相談には乗らない

私のこれまでの人生において、人から相談を持ちかけられたことがほぼないのです。ほぼというのは、記憶ではたった一度だけあるからです。

それは忘れもしない会社員時代に、隣の部署の人から聞いて欲しいことがあると言われて、びっくりしたのです。

なぜびっくりしたかといえば、それまでに相談された経験が全くなかったからです。自分は相談とは無縁の人間だと思っていたので。

その相談の内容は、その部署に関する不満だったので、その人からすれば別の部署の人に聞くのが無難だったというだけの話でした。

なので、相談の相手としては本人と同じ部署の人でなければ、誰でもよかったのだと思います。

そしてその経験の後も、一度も相談されたことがありません。よほど自分は人望がないのかなと。

けれども、それだからこそこのセラピストという仕事が適しているのかもしれないと今では思えるのです。

私は今でも相談には乗りません。それはキャラではないし、それはセラピストの仕事とは無縁だからです。

質問にお答えするのは大好きですが、相談には乗ることはないのです。仮にクライアントさんから相談に乗って欲しいと言われても、癒しの方向へ転換するだけですね。