トラウマから目を逸らす防衛

世界で唯一の被爆国である日本、その教訓を生かして非核三原則というものをかつて作ったわけですね。

核を持たない、作らない、持ち込まない、なるほどとは思うのですが、この原則について議論してはいけないというのが今までの日本の大勢でした。

けれども、議論もしてはいけないというのは、私に言わせれば思考停止状態ということですね。

被爆者やそのご家族のことを考えたら、どんな理由があろうと核爆弾を話題にするのも失礼だと感じるのでしょう。

たとえば、あなたの大切な人がナイフで刺殺されたとしたら、そのトラウマからナイフそのものの存在を否定したくなるのは理解できます。

けれども、もしもあなたの愛する人たちが現実にナイフで殺されそうになっていたとしたら、それでもナイフのことを忘れていられるかを考える必要があります。

もしもあなたが忌み嫌っているナイフを持っていることを犯人に分からせることができたら、愛する人をその殺人犯から守ってあげられるかもしれません。

つまり武器というのは抑止力になるということを忘れてはいけないのです。残念ながら、この辺りが今の人類のレベルなのです。

ナイフを持っている人を説得できれば一番いいのですが、それができなければトラウマを超えてあなたがナイフを持つ勇気が必要なのです。

現在の人類のレベルは、国家間の話し合いが有効になるためには、バックに武力の均衡が保たれている必要があるということです。

タブーというのは議論すら否定する傾向にあるのですが、それはトラウマから目を逸らす防衛だと理解することですね。

正しさの末路

ウクライナへの侵攻を前にして、プーチン大統領はロシアの国民に向けて、1時間もの長い演説をしました。

その演説を日本語に翻訳してくれた人がいて、まだ途中なのですが、その文章から彼の内面を読み取ることができるかなと思って読んでみたのです。

それでわかったことが二つあります。一つは、まず根底にあるのが自分の側は正しくて相手は間違っているという妄想です。

これは多くの人々が知らず知らずのうちにやっていることで、それほど珍しいことではありません。

ただし、何となくそれに気づくこともできるはずなのですが、一向に気づいている感じがしないのが恐ろしいです。

そしてもう一つ分かったことは、彼が完全に過去の出来事に激しい執着をしているということです。

そのエネルギーは半端ではないのでしょう。読んでいて、こっちの頭がクラクラして途中で嫌になるほどでした。

強大な権力を持っている人物が、自分は間違ってはいないという思いで、大義を持ってしでかすのですから大変なことになりますね。

親が子供を育てるときに、自分の正しさを振りかざして子供の心を認めないでいる様子に類似していると思うのは私だけでしょうか。

観照者=意識

最初に観照者だけが在って、そして最後にも観照者だけが残る。その間に宇宙という現象界が生まれて消えていくのです。

その現象界をずっと観照者が見守り続けているのですが、その観照者こそが私たちの意識なのですね。

現象界においてはあらゆる体験が起きるのですが、そこにはどんな体験者もいないのです。

私たちの思い違いは多岐に渡っているのですが、体験者が不在では体験はないと思っているのも間違いです。体験はただ起きるものです。

また、観照者である意識がこの現象界の中に存在すると思い込んでいるのですが、実は違うのです。

私たちの意識はこの世界をただ見守っているだけです。当事者として生きているという錯覚が、そうした間違いを引き起こすのです。

この世界に住んでいると思い込んでいるのは自我であり、あなたの本質である意識は全く異なる次元において、ただ見守っているだけなのですね。

101理論の実践

筋トレの世界では、とある有名な筋肉先生が提唱する101理論というのがあるのです。101というのは101%という意味。

つまり全力(100%)をたとえ1%でも超えてトレーニングすれば、筋肉はそれに応えて発達してくれるということです。

もしもほんの少しでも手を抜けば、筋肉は良くて現状維持、悪ければ衰退してしまうことになるということです。

これは親子関係においても同じような事が言えると思うのです。親の元で子供が思い切り笑う、思い切り泣く、思い切り怒る。

全力(100%)かそれを少しでも超えるくらいに自己表現ができれば、子供は101理論によって必ず健康的な心の成長を遂げる事ができるはずです。

逆に言えば、子供が親に気を使って生活するなら、健全な発育が阻害されても不思議ではないということです。

親が病弱だったり、体調が悪かったり、精神的に不安定だったり、いっぱいいっぱいで余裕がなければ、子供は101理論とは程遠い毎日を過ごすことになってしまいます。

もしも幼い頃の環境に思い当たるようなフシがあるなら、自分のインナーチャイルドの成長が阻害されている可能性があります。

その場合には今からでも遅くないので、101理論をイメージして過去のエネルギー(感情や思い残し)を解放してあげる作業を繰り返ししてあげる必要がありますね。

当事者から見守る側へ

私はクライアントさんとのセッションの中で、幾度となく「物語」という言葉を使うのですが、それは人生が物語だというニュアンスに気づいて欲しいからなのです。

映画やドラマを観ているときには、そこに物語が展開されていることに気づいていて、それを楽しんでいるのです。

ところが、自分の人生となると物語だとはとても思えなくなってしまうのです。なぜなら、人生は作り物ではないしリアルな世界だからです。

けれどもどれほどリアルだとしても、人生は思考がふんだんに使われていて、実はそれは物語と同じなのです。

物語というのは思考で出来ているのですが、人生も思考で出来ています。リアルな世界はあるがままにあるのですが、そこに物語性を付加するのは思考なのです。

もしも人生を見守る立場で見ることができれば、それが物語だということに気づけるはずなのです。

そして物語として見る事ができれば、少々のことでダメージを食らうことも少なくなるのです。

なぜなら当事者意識が薄らぐからです。人生物語との距離ができるからですね。カギは当事者から見守る側へとシフトすることなのです。

所有性=執着

昨日のブログで、所有という属性について書いたのですが、この所有という概念、結構根が深くて厄介なのです。

私たちは不安のあまりに安心したくて、所有という概念を使うのです。何かを自分の物だとして、つまり所有するということで安心しようとするのです。

恋人同士が、互いに相手のことを他の誰かに取られたくないという気持ちから、相手を自分のものにしたいと願うのはよくあることですね。

お前は俺のものだ!というわけです。けれども、所有できるのはモノでしかありません。人間はモノではないので所有する対象にはなれないのです。

だから、お前は俺のものだ!というのは、相手を人間ではなくてモノにまで落とし込むことと同じだと理解することです。

人間は自由であるので、所有する対象にはなり得ないのですが、誰かに奪われるという不安から相手の自由を奪ってまで所有物にしておきたいのです。

親が我が子を所有物のように扱う事例はよくありますね。幼子は保護されなければならないのですが、それでも親の所有物ではありません。

子供が自分の手から離れて、好きな人を見つけて幸せになっていく姿を見るのは、子供を所有物だと信じてきた親には苦痛なのです。

子供への執着心が子供の自由を奪おうと画策するわけです。そんな毒牙に引っかからないように注意して、自分の自由を第一に考えられる大人へと育って欲しいですね。

真実は共有できない

私たちの社会が社会として成立するためには、それなりのルールをみんなで共有している必要があります。

一万円札を一万円の価値があるものとして扱う、そうルールで決めてそのルールを全員が共有しているからこそ、紙幣として安心して使うことができるのです。

所有という属性にしても同じです。この土地は私が所有しているとどれほど声高に叫んだとしても、みんながそれを認めなければ意味を持ちません。

実際、ロシアがウクライナに侵攻して土地を占領してしまえば、何百年暮らしてきた先祖代々の土地であっても、その所有権は消えてしまうのですから。

地球が丸いということを子供の頃に教えられて、その知識を共有することができたのは、それが単なる情報だからです。

このようにして、この世界は共有で成り立っているのですが、真実についてはそれができないのです。

私にとっての真実は、それを他の人に譲り渡すことができません。なぜなら、それは情報ではないからです。

もちろん私が誰かの真実を受け取ることも不可能なこと。真実は自分がその根っこまで降りて行ったときにようやく見つかるもの。

だから個人的な体験を通してのみ、見つけることができるのです。みんなで一緒に瞑想をするのは、深く入りやすいので有効な手段かもしれませんが、瞑想で見る景色を共有することはできないということですね。

自我は自己矛盾で出来ている

自我をよくよく調べてみると、それはものすごい自己矛盾を抱えているということが分かってきます。

幸せになりたいと願っているくせに、願い続けたいという本音を隠し持っているので、どこまで行っても幸せにはなれないというジレンマがあるのです。

もしも幸運にも幸せになってしまったとしたら、あっという間に今度は違う願望を作って、それに向かって生き始めるのです。

言葉を変えて言えば、満たされたいと心底願っているのに、本当に満たされてしまったとしたら、自我は自分を保てなくなってしまうのです。

というのも、自我が活躍できるところというのは、何かが足りないという状態だからなのです。ひどすぎる自己矛盾ですね。

熱いコーヒーが美味しいと知っていてそれを望んでいるのに、ひどい猫舌で冷ましてからでないと飲むことができないのと同じようなもの。

生きづらさを抱えていて、それを何とかして改善したいと思っているはずなのに、気楽に伸び伸びと生きようとは決してしない等々。

自我は自己矛盾によって生きながらえているようなものかもしれませんね。そこに気づいたら、もうこれまでのように自我に肩入れする気にもなりません。

自我を適当に生きさせておいて、それをやさしい気持ちで見守る側へと立ち位置を変えるのが賢いと感じるようになりました。みなさんはどうですか?

幸せと安心を混同してる

誰もがみんな幸せになろうとしていると、そう思っているのは間違いないのですが、ところが本当のところはそうではないのです。

自分自身の内面をしっかり見ることができる人は、幸せになろうとしているというフリをしていることに気づけるはずなのです。

そのフリの内側には一体何を隠しているかというと、安心しようとしているというのがあるのです。

安心を得ようとする理由は不安だからですね。その不安を安心に変えることができれば、その先に幸せが待っていてくれると錯覚しているのですね。

はっきりさせましょう。幸せになろうとすることと、安心しようとすることは決して交わることがありません。

というよりも、その両者は全く異なる生き方になってしまうということに気づく必要があるのです。

もしもあなたが幸せを求めるのであれば、自分本位に生きるはずですし、瞑想的で、愛に溢れていようとするはず。なぜなら、それが幸せのもとになるからです。

一方で、あなたが安心を求めるのであれば、戦って勝とうとするし、人に気を使い、正しい自分であろうとするはずです。

幸せになりたい人は、今日をどう楽しもうかと考えるだろうし、安心を求める人は人に嫌われたり否定されないためにはどうすればいいかを考えるのです。

両者の違いを明確にして、自分はこれまでどちらで生きてきたのかを知ることです。もしも安心の方であれば、幸せを手に入れる生き方に舵を切ることですね。

誰もが超能力者

この仕事をするようになって、人間というのは誰もが超能力者なんだなとつくづく思うようになったのです。

勿論非常に分かりやすい超能力者の方々もいるのですが、自分が普段超能力を使っていると全く自覚のない人たちがたくさんいるということです。

例えば、セッションの予約をしているにも関わらず、いざ当日になり深い部分で気が進まなくなることがあると、無意識的に遅刻しようとするのです。

そうすると、まんまと電車を止めてしまう人もいるくらいです。常識的には、たまたま起きた事象だと思うのが普通ですよね。

けれども、あまりにも何度も経験させてもらっているうちに、どうやら「あなたやってますねえ」、と気づくことになるのです。

あるいは、クルマを運転しているときに突然脇道から飛び出してくる自転車や歩行者がいるのですが、こちらからすると自殺行為に見えるのです。

あんなことを毎日やっていて、よくこれまで死なずに来れてるなと驚嘆するのですが、きっと無意識に超能力を使って危険を回避しているのでしょう。

そうとしか思えないのです。でも一番の超能力は、自分の人生を作る能力ですね。これも自覚は全くないのですが、潜在意識が望む通りの人生になっているのです。

自分はこんな人生を望んだ試しはないと思っている人も多いかもしれませんが、無意識の部分が望んでいることが実現しているということです。

つまりは無意識の願望を明るい方向へと変えることができたら、あとはもう自動的に人生が明るくなっていくということですね。