「成長」が物語を紡ぐ

生まれた時から慣れ親しんだこの物質世界、自我が作ったこの社会においては、とにかく成長するということが一つの大きなテーマとなっています。

より高い人格を目指す、たくさんの経験を積んで、多くのことを学び、幾多の試練や教訓からより完成された人物を目指す等々。

更には、スピリチュアルな人々がよく言うことですが、より高い精神性、魂を磨くといった表現をすることもあります。

この世からあの世に行っても、魂にはランクがあって、究極の頂点を目指して上がっていくというのです。

最終的にどこを目指して切磋琢磨していくのかは分かりませんが、とにかく人間として生きていても、死んで霊となっても変わらない上昇志向。

自分が全体の一部だと分かったなら、この上昇志向は一体何の意味を成すのかと考えてしまいます。

成長ということを通して私たちは、物語の中にずっと居たいのかもしれませんね。私は個人的には、ほとんど興味がないのですがあなたはいかがですか?

自分の本質を探る

私たちは自分の本質について真実を知る必要があるのです。この自分とは身体なのか、あるいは心なのか、心のうちの考えが自分なのか、あるいは感情が自分なのか。

気持ちや気分といったものも自分に属していると感じているかもしれません。あるいは、そのどれでもない意識が本当の自分なのか。

精神世界に興味がある人は、自分は身体であるとは思っていないかもしれませんが、それでもまだ多くの人が自分は身体だという感覚を強く持っているはずです。

なぜなら、「私」という自我が生み出されるときに、身体が大きな役割を担った時期があるからです。

人から見られる対象はいつも自分の身体だし、親の愛情表現として抱きしめてもらうのだって具体的には身体だったわけです。

だから「自分=身体」という感覚が強烈に植え付けられたとしても、何ら不思議なことではないと分かります。

ところが、成長するにつれて色々なことを考えるようになるにつれて、考えているのが自分なのではないかと思うようになるのです。

いくら身体がいつも身近にあっても、考えることを抜きに自分が存在するとは思えなくなるのです。

そうして、「自分=考える存在」という感覚が身体に代わって大きくなるのですね。つまり、肉体的な物質的なものというよりも、目には見えない精神的な存在だというわけです。

ところがまだ先があったのです。もしも自分が考える存在であるなら、瞑想などによって思考が消えてしまったら、自分も消えてしまうことになります。

確かに、深い瞑想状態においては「私」という自我は用をなさなくなります。けれども、それでも残っている何かがあることに気づけます。

それが意識なのですね。考える存在である自我が消えた後に残るもの、それこそが意識としての自分の本質だと言えるのです。

自分のことを人間だと信じているのは自我であり、そのバックに在る意識こそが本質だと気づくことで、何かが大きく違ってくるはずなのです。

なぜなら、自分は身体でもなく、人間でもなく、心でもないということになるのですから、この世界の見え方も変わらざるを得ないですね。

イヤだ!を受け止める

動画サイトのおすすめに、たまたま上がってきたあるご家族の日常を撮影したものを観たのですが、びっくりしてしまったのです。

若いパパとママと、軽度知的障害&自閉症と診断された3歳の息子さんとの奮闘記のような内容となっているのです。

この男の子は見るからに賢そうで、純真な目をしていて、きっとものすごく敏感体質で生まれたのでしょう。

幼いのですが、ものすごく好き嫌いがはっきりしていて、ママが新しい靴を買おうとして試し履きしてもらおうとしても、全身で嫌がるのです。

自分が今履いている白い靴が良いの一点張りで、ママはサイズを合わせたくて何とかして新しい靴を履かせようとするのですが、泣き叫んで拒絶するのです。

ママの気持ちは痛いほどわかるのですが、なぜ大切な息子さんの「嫌だ」を尊重してあげられないのか、不思議です。

パパママは、きっと医者の診断結果をもらう前から薄々発達障害らしきものがあるかもと感じていたのでしょうね。

だからこそ余計に、分別ある人間に育って欲しいと考えて一生懸命に正しさを教え込もうとしてしまうのですが、そうすればするほど息子さんの心は傷つくのです。

子供を親の不安の目で見てしまうと、平均値から遠いことが気になるのでしょうが、発達の進み具合などは、その子供の個性によって異なるのが当然です。

パパママがゆったりとした眼差しで見守ってあげて、子供の嫌だという拒絶をしっかり受け止めてあげることが何より大切であることに気づけるといいのですが。

「信頼」がくれる効能

昨日と一昨日のブログでは、信頼について少し書きました。今日のブログでは、もっと具体的に信頼があるとどうなるかについて書いてみたいと思います。

信頼は受容を生み出すということを一昨日書きましたが、それは実際どのようなものなのでしょうか?

例えば、一般的に恐れられている「死」については、信頼が深くなればそれとしっかり向き合うことができるようになるはずです。

あるいは、自分は何て惨めなんだという悲しい思いほど認めたくないものはありませんが、それも逃げずにいられるようになるはずです。

自分ばかりが酷い目に遭う、理不尽なことばかり遭遇する、なんでこんな境遇で生まれてしまったんだろうというやりきれない思いを持っている人もいます。

けれども、信頼を持てばそういったことすらも受容できるようになるはずなのです。なぜなら、自分よりも全体性に委ねることができるからです。

存在価値が分からない自分のことを信用することは難しくても、代わりに全体性を信頼できるなら、明け渡すという感覚も身近なものになるかもしれません。

信頼は、自我の思い込みや勝手な判断、あるいは自責の念などを緩める力を持っていると思います。

ここで気づくことができますが、信頼とは自我のものではないということ。自我ができるのは、信じることと信じないこと。

そのどちらでもない、そして真反対のない信頼こそが無思考の産物なのですね。だから信頼が大きくなればそれだけ、自我が小さくなるということでもあるのです。

「信頼」の入手法

昨日のブログでは、苦しみから解放されるために最も必要となるものは、「信頼」であるということを書きました。

自分が毎日生きているこの生とそのバックにある見えざる何かを信頼することで、起きてくることを判別することなく受容できるようになるということ。

受容してしまえば、つまり拒絶したりそれと闘ったりせず、逃げずに向き合うことができるようになるので、苦しみからは遠ざかることになるのです。

それでは肝心の信頼を入手するためにはどうしたらいいのかについて、私なりの考えを述べてみたいと思います。

信頼への道の大前提として、自分という存在をできる限り研究する必要があるということ。

外側に広がるこの世界をどれほど探求しても、信頼はやってくることがないということに気づくことです。

信頼は外からやってくるのではなく、自分の内側に湧き出てくるものだからです。従って、日夜、自分を見ることを続けること。

自分とは本当は誰なのか、あるいは何なのか。ある時突然この世に産まれ出て、しばらく生きてただ死んでいく儚いものなのかどうか。

自分は一人の人間として生活してはいるけれど、その正体は身体なのか、あるいは思考なのか、それとも意識なのか。

私の場合は、本当の自分に一番近いのは意識だろうという判断のもと、意識的であることで自分の本質に気づけるのではないかと考えたのですね。

そして私の意識のバックには、全体性としての無限大の意識があり、私の意識はそれとつながっているという感覚に気づいたのです。

内面を静寂が占めている時、この感覚がやってきてくれるとそこからものすごく大きな信頼もやってきてくれる感じがするのです。

まだまだこの感覚は普段は忘れがちなのですが、少しずつ自分の中で大きくしていけたら、もっともっとどっしりとした信頼が定着してくれるのではないかと思っています。

「信頼」こそが一番大切

私たちの苦しみの多くがどこからやって来るのかというのをしっかり見据えることはとても大切なことだと思います。

なぜなら、闇雲にその苦しみから逃れようとしたところで、決して成功するはずもないからです。

苦しみの原因がわかれば、それを何とかすれば言い訳です。苦しみは都合のいいことと都合の悪いことを区別することから起きてきます。

つまりは、都合の悪いことがやって来るからこそ苦しむのであって、都合のいいことばかりが起きるのであれば、苦しむ人はいなくなるはずです。

当たり前のことではあるのですが、都合の悪いことを誰もが拒絶しているということです。もしも、拒絶をしないのであれば、苦しみは起きません。

ということは、都合の悪いことがやってきたとしても、それを拒絶し、否定し、逃亡するということをしないでいられればいいのです。

都合の悪いことと戦わずにいるためには、それを受け入れる、あるいは受容するということです。

では、都合の悪いことを受容するためにはどうすればいいか?私たちが大きな勇気を持っているなら、それが可能なはずです。勇気は逃げずに向き合うことを手助けしてくれます。

けれども、もっと大切なことがあります。それは大きな勇気を持っていなくても受容する方法があるのです。それが「信頼」ですね。

ここまできて、やっと話しが見えてきたのですが、苦しみから逃れるためには「信頼」があればいいということになります。

目に見えないこの世界のバックに在る、神でも全体でもどんな呼び方でも構いませんが、それを信頼するのです。

そうすると、勇気がなくても都合の悪いことを受容することがたやすくなるのです。その結果、苦しみから解放されるということになるのですね。

この、「信頼」が一番大切だし、最も必要なものだということを深く理解することが、大きな助けになるはずです。

正しさを教える困った親

大切な我が子に、自分達の正しさを教え込もうと頑張る真面目な親が、思いの外たくさんいることをこの仕事をするようになって知りました。

親自身が正しさを身にまとって生きてきたので、子供にもそれを伝えて間違った人生にならないようにということなのでしょう。

子供が未成年の間は、しっかりと正しさで躾をして、場合によってその正しさの枠から外れるなら愛の鞭と称して怒りをぶつけるのです。

子供の側は親が怖いというのと、親が正しいに違いないという洗脳によって、自己表現も抑え込まれることになるのです。

子供は自分が怒りを感じたり、言いたいことがあるということ自体を否定してしまうのです。この否定は子供の中に作られた親2世がやるのです。

親は自分の正しさの中にいてくれさえすれば子供を可愛がるのですが、正しさから逸脱しようものなら、徹底的に否定するのです。これはペットと同じ扱いです。

そして子供が成人すると、これも親の正しさからなのですが、今度は急に子供を大人扱いするようになって、自由に生きろ!と言い出すのです。

未成年の間ずっと親の正しさの中でコントロールされてきた子供が、いくら20歳になったからといって、自由に生きていけるはずもないのです。

子供は親によって自由を与えてもらえずにいたので、自由のなんたるかを知らずにきてしまったのです。そうすると、親はそのことも責めるようになるのです。

親の身勝手さにも程がありますね。非常に面倒なことに、そうした親は自分が正しく子育てをしてきたと信じていることが多く、その場合には早めに親から離れることが必要ですね。

自分を楽しむ人生

昨日のブログでは、防衛が小さい人ほど人生を楽しんでいる、あるいは楽しもうとしている、ということをお話ししました。

ところで人生を楽しむと言っても、具体的にはどういうことかを少し細かくみていくと、大きく二つに分かれることに気づきます。

一つ目は、楽しいことを自分に体験させてあげることです。映画を観る、デートをする、友人たちと飲食をする、カラオケに行ったりライブに行ったり。

家族旅行に行ったり、趣味に励んだり、要するに自分の外側に楽しそうなことがあって、それを経験することで楽しい人生を生きるということです。

それに対して二つ目は、楽しむターゲットを自分にするということです。こちらは少し説明が必要かもしれません。

楽しむ題材が自分自身なわけですから、自分を見て楽しむもう一人の自分がいるということですね。

例えば私の場合で言うと、バリバリのエンジニアだった会社員生活から突然のようにセラピストになったりして、その変化の有り様を見て楽しんでいる自分がいるのです。

つまり自分を楽しむと言うのは、やはり意識を自分に向けると言うことが絶対的に必要ということになります。

この二つ目の楽しみ方を覚えると、自動的に視線が内向きになって来るので、一石二鳥のご利益がありますね。ぜひ試してみてください。

自己防衛の大小の違い

毎度繰返しになるのですが、自我というのはその素性からして自己防衛をし続けることで自らの存在を安定させようとするのです。

従って、自己防衛を全くしない人はいないのです。人による違いは、その自己防衛の強弱(あるいは大小)があるということです。

自己防衛の強い(あるいは大きい)人は生き方が固定していて、それはどうしたら安心できるのかということを絶えず求めているのです。

安心しようとして、正しいか正しくないか、あるいは勝つか負けるかのようなことにばかり目を向けてしまうことになるのです。

正しさをまとうことで自分を守れると思っているし、勝負に勝つことで同じようにして自分を守れると信じているのです。

一方で、自己防衛の弱い(あるいは小さい)人は、楽しいか楽しくないか、自由か自由でないかなどに目が向くのです。

自由で自然で楽しければ、安心しようとすることは2の次3の次という生き方になるわけです。

多くの人は、自己防衛の強弱の中間的なところで生きているのですが、セッションに来られるクライアントさんは、往々にして自己防衛が強い状態に近いでしょうね。

結局癒しというのは、自己防衛をより小さく、より弱くしていくことでしかないのです。シンプルに、楽しい人生を生きようと決意すれば、自動的に防衛は小さくなるはずですね。

他者の為にも自分を満たす必要がある

先日、動画サイトのお勧めに上がってきたとある動画を観たのですが、これがどうしてどうして泣けてくる内容でした。

明日にでも殺処分になるという保護犬を見に行って、その中の一匹を引き取る事になるのですが、その犬の怯え切った姿があまりにも痛々しいのです。

檻の一番奥の隅で全身で震えながら、頭を深く垂れて上目使いで、何とも頼りなく悲しそうにこちらを見ているのです。

ところが不思議なことに、飼い主さんが連れて来た一匹のワンちゃんを見るなり、檻の柵のところまで寄ってきて、二匹が鼻と鼻をくっ付け合ったりするのです。

飼い主さんは、この子を連れて帰れということなんだね、と飼い犬ちゃんの気持ちを察してあげるのです。

ちなみにその飼い犬ちゃんも、かつて殺処分になるところを救ってもらった元保護犬なんだそうですが、今では幸せいっぱいに暮らしている事が伝わってきます。

引き取って数ヶ月が経ち、新入りの方のワンちゃんが、次第に慣れて来てようやく散歩ができるようになってきたのですが、いざ身体にハーネスをつけようとすると、急に怯えてしまうのです。

散歩に行くことは喜んでいるのに、どうしてもハーネスが怖くて、震えて逃げてしまうので、飼い主さんも困ってしまうのです。

きっと何か身体を縛られるような辛い体験をしたのでしょうね。それがトラウマになってしまっていて、ワンちゃん自身もどうにもならないのです。

それを見ていたもう一匹の先輩のワンちゃんが、「この子は怖がっているから代わりにそのハーネスは僕がつけるよ」、とばかりに飼い主さんの手にあるハーネスの中に自分の頭を突っ込んでくるのです。

そんなことってあるんだろうか?飼い主さんに「あなたは自分のハーネス付けてるからいいの」とはずされても、しばらくするとまたハーネスに頭を入れようとするのです。

「代わりに僕がつけるから、怖がっているこの子を許してあげて」と一生懸命身体で訴えているのでしょうね。

こうした他者に対する優しさというのは、きっと人間だろうとその他の動物であろうと本来持っているものなのですね。

但し、それを使えるのは自分自身がある程度満たされている必要があるのだろうと思います。だとすると、私たちは自分のためにも他者のためにも、自分を満たしてあげる必要があるということですね。