達成とは物質世界のこと

もし何かがあなたの行為によって達成できるとすれば

それはこの世に属する

行為によって達成できるものはすべて物質の世界に属する

そして、精神の世界に属するものは

どれも行為によっては達成できない

それは無為によって、リラックスによって

全面的な明け渡しによってしか達せられないのだ

by osho

 

もっとシンプルに言えば、物理的なことで何か達成することができたとしても、それは表面的なことだということです。

100点を取るとか、家を建てるとか、記録を塗り替える等々。そうしたものは、すべてこの現実という夢の中に消えて行くのです。

けれども、目には見えないもの、言葉で表現できないもの、非物質的なものは夢が消えた後も残るものです。真実に近いものほど、後々まで残るのです。

そして最終的には、つまり真実はと言えば、そこは時間が介在できないところなので、永遠なのです。変化しないもの。

それは達成するとか、成し遂げるといったこととはまったく無縁なのです。なるべくそっちに意識を向けて生きるようにすると、フワッと力が抜ける気がします。

客観的事実を直接知る術はない

自分自身の存在に深く入っていった者たちは、

完全な静寂を知るに至った。

誰ひとりそこには見あたらない。

そして、そこに誰もいないことに気づくこと。

それはもっとも偉大な自覚だ。

そうなったら、問題はすべて消える。

なぜなら、問題を創りだす者が消滅したからだ。

by osho

 

誰もいないことに気づく、というのは言葉の上の表現に過ぎず、単に自分がいるとかいないという思考が消えてしまうということです。

誰もが持っている、この「自分がここにいる」という感覚は、長い間の思考が作り出しているものなので、それを消そうとする必要はありません。

ただそういう気がしている、ということに気づくだけでいいのです。そういう気がすることと、客観的事実は違うと気づくこと。

そもそも客観的事実というものを、私たちは直接的に知ることはできないのです。常に知覚を通して知るわけですから。

こうしたことが、自分の奥深くに入っていく前の準備として理解できていると、瞑想がスムーズかもしれませんね。

もしも何をいっているのか分からなくても、別に問題はありません。真理はそんなこととは無関係にただ在るのですから。

自然はいつもシンプル

人はいろいろなものに興味を抱いたり関心を持ったりしながら生きていますね。そしてそういったことも、年齢とともに変化していくものです。

例えば、男の子だと幼児の頃はミニカーに興味を持ち、少し大きくなるとゲームに夢中になるのですが、年頃になれば必ず異性に目覚めるわけです。

テレビの番組で見かけたのですが、文房具に異常に詳しい小学生がいたり、掃除機を何十台も持っている中学生がいたり。

高校生くらいになると、イデオロギーに関心を持ち、生きる上での基本的な考え方、正しさなどにハマる青年もいるはずです。

大人になると、自分なりの正しさや倫理観などが大切だと思うようになるかもしれません。多くの人は、正しさを自己防衛のツールとして使うのです。

勿論正しさは人それぞれに違うために、誰もが自分こそが正しいとして、そこに争いが起きるわけです。そして勝敗、闘って勝つことに意識が向かうようになったりします。

私自身もこれまでの人生の中で、その時々で様々な正しさの基準みたいなものを持って、それを議論の拠り所としてきた記憶があります。

けれども次第にそういったことに興味が向かなくなって、最後?に残ったものはというと、真偽や善悪ではなくて、自然か不自然かという見方でした。

好き嫌いもとても大事なのですが、それよりも更に上なのが自然かそうでないかなのです。自然なものは自由だし、不自然なものはやはり不自由なのです。

それ以外のことが削ぎ落とされると、生はシンプルになって生き易くなるのですね。自分の身の上に何が起きたかよりも、内面がどれだけシンプルかということです。

自然は複雑にはなりようがなく、いつもシンプルだからです。

ただ眺めるということ

ただ眺めるというそのことによって
あなたの知覚が透明に冴え渡ったそのとき
突然一瞬のうちに
実際は時などなく
突然時間を離れて
あなたは完全に目覚めている
あなたはひとりのブッダだ
あなたは悟れるもの
覚者となる

by osho

なぜなら時間というのは、思考によって考案された実在しないものだからです。だから動物や赤ちゃんには、時間なんてものはないのです。

私のつたない体験でもそのことははっきりしています。あのとき、時間はないと明確になっていたのを覚えています。

ただ眺めるというのは、すごく難しいことです。私たちが知覚と呼ぶものは、思考による後処理までを含めてしまっているからです。

純粋な知覚だけであれば、いつでも真理を見ることができるのに、常に思考によって判断、解釈を終えた情報を知覚だと信じているので、真理は遠のくばかりなのです。

そこに在るものをただ眺めるという練習をすることです。いずれは思考さんが入り込む余地がなくなってくるはずです。

そのとき、osho が言うように突如として目覚めることになり、真理が目の前にあることに気づくのでしょう。

思考を止めようとせず、ただ見る

心を止める必要はない

思考というのは根なし草

家なき放浪者だ

あなたはそれに頭を悩ます必要はない

ただ見守るのだ

ただ眺めるのだ

もし彼らがやって来ればよし

何も悪く思うことはない

なぜならば

それが良くないという軽い感覚でさえ

それでもうあなたは戦いを始めてしまっているからだ

by osho

 

思考は決して悪者ではありません。それをただ観照して、それにかかわらず、便利なツールとして使う分には何も問題はないのです。

ただ問題は、思考と自分を同一視してしまったことなのです。子供の頃、まだ意識的でなかったころに身近な存在だった両親の思考エネルギーを受け取ってしまったのです。

それが大人になっても、マインドの奥深くに沈殿していて、そのエネルギーに見合った現実を引き寄せ続けてしまうのです。

毎日少しずつでもいいので、マインドに渦巻く思考さんたちを、ただ見ているという練習をすることですね。

思考は外からやってくる

昨日のブログで、糸ミミズのような思考の塊をマインドと称して、それを自分自身だと思い込んでいるというお話しをしました。

だからマインドには中心となるものもないし、一つひとつの思考をほぐしていけば、マインドという実体はどこにもないと分かるということです。

さてその上で、気をつけなければいけないことは、その一匹一匹の糸ミミズである思考は、すべて外部からやってきたものだということです。

思考はエネルギーとして何百年も生き続けているものであり、私たち自体でもなければ、私たちのモノでもありません。

外から舞い込んできたものを、自分のオリジナルだとして後生大事に糸ミミズの塊の中へと放り込むのです。そうやって、マインドは肥大化してしまったのです。

外側に浮遊している無数の思考のエネルギーのうち、どれを受け取ってしまうかは、それまでに内側に取り込んだ思考群(マインド)によって変わるのです。

そうやって内側に溜めた思考エネルギーに見合った思考エネルギーを外側から引き寄せるのですが、これが引き寄せの法則の根っこにあるものです。

自分の中にある思考をよく見てあげることです。つまり意識的に思考を見続けることができるなら、思考との距離ができて、思考は自分ではないと気づくのです。

運が良ければ、マインドの外に自己は在ると気づくこともできるかもしれません。思考から離れている感覚を至福感と呼ぶのですが、それを維持するために、私は思考を思考さんと呼んでいます。

マインドは糸ミミズみたいなもの

みなさん、糸ミミズって知ってますか?金魚とかを飼っていたことがあれば見たことがあると思いますが、細くて赤い本当に糸のようなミミズのことです。

あれは通常何百匹だか分かりませんが、沢山が寄り集まって塊となって生きていますよね?慣れないとちょっと気持ち悪いですが…。

私たちのマインドというのは、ちょうどあんな感じなのではないかと思うのです。というのも、マインドも沢山の思考が絡み合っているからです。

マインドという実体があるかのように感じるのですが、本当はそんなものはないということです。糸ミミズと同じように、膨大な数の思考の塊としてその存在感を生み出しているのです。

私たち日本人が心と呼んでいるもの、ハートと分けるために私はマインドと呼ぶことにしているのですが、本当はそんなものはないのです。

たくさんの思考の塊が互いに複雑に絡み合って、あたかも実体があるかのような体をなしているに過ぎないということです。

だから自分の内面とはマインドのことだとするなら、内面とは相当にいい加減なものだということになってしまいますね。

拠り所があるわけでも中心があるわけでもなく、ただの思考の塊なのです。だからこそ、思考を削ぎ落としていくなら、それは真の自己ではなかったと気づくのですね。

自然治癒力って凄い

動物もそうですが、私たち人間にも自然治癒力というものが備わっていますね。怪我をして出血しても血が固まって自動的に止血してくれたり。

骨折しても、時間と共に骨がくっついてくれたりします。昔カートをやっていて、コーナーを曲がる時に横Gが強すぎて肋骨にヒビが入ったときにも、勝手に治った経験があります。

もちろん限度を越えたら医療に頼らざるを得ないのですけどね。身体についてはこのような自然治癒力については、誰もが知っていると思います。

では内面についてはどうでしょうか?心が傷ついたとき、時間と共に傷が癒えるというのも一種の自然治癒力と言ってもいいのかもしれません。

私が知っているマインドの自然治癒力で、もっと凄まじいものもあるのです。たとえばあまりに我慢を強いられ続けると、限界を超えて爆発するのです。

単純ではあるけれど、それも自然が仕組んでくれた治癒力だと思っています。マインドが破壊されてしまう直前で、一発逆転してくれるのです。

そういうことが起きると、本人も周囲もびっくりしてしまい、普段絶対言わないようなことを言ったり、行動も理性的ではなくなるので、どうしちゃったのだろうと慌ててしまうのです。

見た目は派手かもしれませんが、そういうのも立派な自然治癒力のなせる技なのです。しばらくすれば、またいつもの本人に戻れるはずです。

ただし、そこに何らかの癒しが起こるために、全く同じ状態には戻れなくなるのです。もう以前のようには我慢することもできなくなるでしょうね。

セッションなんてしなくても、そうやって自然に癒しが起きてくれるのですから。けれども、それをもっといい方向に持って行くためには、セッションを受けていただくことも必要かもしれませんね。

考えないこと ≠ ボーッとすること

意識的に思考を鎮めることができない人に限って、何も考えずにボーッとしていたら馬鹿になってしまうのではないかと心配するのです。

もしかしたら、子供の頃に何か困ったことがあったら自分の頭で考えて解決するようにしなさいと、教わったのかもしれません。

確かに考えて対処することができたという経験は誰にでもあるはずですね。それはそれで結構なことなのですが、だからといって思考に頼りすぎるのはエゴを強化する一方なのです。

もしも常に考え事をしている自覚があったり、心を静かにする時間を持てないでいるのでしたら、思考に乗っ取られてしまっているとみて間違いありません。

思考は決して悪者ではなく、この上なく便利なツールなのですが、あくまでもツールはツールです。思考というツールを使う側でいなければおかしなことになってしまいます。

主従逆転して、思考が主人を乗っ取ってしまうと、思考を鎮めようとしてもそれができなくなってしまうのです。こうなったら赤信号が灯ったと知ることです。

何も考えないということと、ボーッとするということは同じではないと知っていますか?ボーッとしている状態とは確かに思考は鎮まっていますが、無意識的なのです。

本当に大切なことは、思考を鎮めてもボーッとせずに意識的でいることです。それが瞑想状態なのです。頭が馬鹿になるどころか、頭脳明晰になるのです。

ルシッド(lucid) とはこの明晰さのことを意味します。この社会の中で生きていくためには、それなりに考えることは必要なことだと思います。

だから大切なことは、メリハリをつけるということです。1日のうち、たとえ5分でもいいので何も考えずにただ静かにしている時間を持つようにすることです。

練習していくことで、次第に思考が鎮まっていくときのなんとも言えない至福感に気づけるようになり、自分の本質は思考ではなく意識だということにも、気づくようになるはずです。

先延ばしにしたって構わない

人生いろいろあって、都合のいいことが起きれば、逆に都合の悪いこともやってきます。都合の悪いことには、誰だって向き合いたくないものですね。

それから逃げずに向き合う必要があると理解するには、ある程度経験を重ねて学ぶ必要があるのです。だから、子供の時には闘うか逃げるかのどちらかに自然となるのです。

大人になったところで、そうした子供の頃の習慣が馴染んでいて、いつまでたっても向き合わずに先延ばししてしまうことになるのです。

誰のものでもない自分の人生ですから、どのようにしても構わないし、人生の最後まで見ることをしなかったとしても、それも間違いではありません。

また次の人生でもしかしたら向き合うチャンスがやってくるかもしれないのですから。そのくらいに考えて、どんなことをしてもやってやろうと頑張らなくてもいいのです。

私は先延ばしを決して否定しません。バンジージャンプに挑戦しようとして、粘っても結局飛べずに諦める人を見ても、当然だろうと思うのです。

何が何でも向き合ってやろうとすると、それが新たな闘いとなってしまうということにも気づく必要があります。克服しようというニュアンスは、大抵は闘いとなってしまうのです。

向き合うということは克服ではなく、それとの和解です。だからこそ必死で頑張る系ではないということですね。