今日もシンプルに…
物質が存在するための背景として
空間が必要なのは自明です
では、空間が存在するための背景は?
それが源泉、純粋な意識なのです
以上

1セッション120分9000円
今日もシンプルに…
物質が存在するための背景として
空間が必要なのは自明です
では、空間が存在するための背景は?
それが源泉、純粋な意識なのです
以上
今日は誤解を恐れずに、言いたいことを書いてみます。それは、表面的には加害者と被害者がいるように見えても、その両者は実は同じようなエネルギーであるということ。
エネルギーが同じか近いからこそ、両者は絡むことになったのです。ただし、当然のことながら加害者はこの社会から裁かれることになるし、被害者はそれなりにサポートされる必要があるのですが。
例えば、悪徳商法に引っかかった消費者は確かに被害者ではあるのですが、そうした悪意に満ちた商法を行う側の人たちのエネルギーと似ているということ。
エネルギーというのは、いい人とか悪い人ということとは一切何の関係もありません。そういう表面的なことではなく、その人の内面に蓄積されたマイナスのパワーのことなのです。
本人すら自覚できないうちに、特に幼い頃に溜めてしまったネガティブな感情のエネルギーこそが、そのパワーの源なわけです。
本当に愛される人とは、本当の愛のエネルギーを持っている人だし、裁かれる人とは、裁く人のエネルギーと同じエネルギーを持っているということ。
つまり、この世界においては、する事とされる事とは同じエネルギーだということですね。きっと腑に落ちないと思われるかもしれませんが…。
<存在>は、加害者とか被害者という見方を持っていないのですから。ただ、そこにある似た者同士のエネルギーが互いに絡み合うという現象が起こるだけなのです。
今日もシンプルに…
もしもあなたが、自分の正しさというものを
拠り所にして生きているのなら
面白味のない人生になってしまうはずです
正しさを積み重ねたその先に幸福が待っていると
信じているなら、それは間違いです
死ぬ前に後悔することのダントツ一位は
「もっと自由にやりたいことをやっておけばよかった」なのです
子供の頃に条件付けされた罪悪感に負けずに
もっと自分を解放するように生きること!
以上
今日もシンプルに…
欲しいものが手に入ると
人は幸せになれると信じています
ところが、満足しているのは手に入った瞬間だけで
その後は、また次に欲しいものを手に入れようとするのです
それなら、欲しいものがなかなか手に入らない状態でいるほうが
幸せではないかと思うのです
手に入ったらどれだけ満たされるだろうかと
いつまでも夢見ていることができるからです
幸せとはそんなものに過ぎません!
以上
幼い子供は、親に激しく叱られたら怖いのです。叱るというよりも、親自身の怒りをぶつけられてしまうために、そのエネルギーを恐れてしまうのです。
恐怖を感じれば、子供は自由な自己表現、感情表現を抑えるようになるはずですね。そうやって、親と子の間のエネルギーの流れは一方通行になってしまうのです。
ここまでは、誰もがごく普通に気づくことですが、実はその先には隠された真実があるのです。それは、親の怒りを恐れている子供は、同時に親を可哀想な人だと見ているということ。
なぜなら、子供は不当に自分へ怒りをぶつける親の心のその奥に、つまり怒りのその奥に惨めさを隠した幼い子供のエネルギーを感じ取ってしまうからです。
そもそも怒りというのは、惨めさを隠すために発生させる感情だからです。子供は親の心の中に潜んでいる、その惨めさを見抜いてしまうのです。
そのために、ある程度成長した子供は、それほど恐怖がなくなってきたとしても、今度は親を可哀想と思うために、結局自己表現ができずにいるということが起きるのです。
可哀想という思いは、恐怖よりもより強い力で子供の自己表現や怒りを抑えることになるからです。そして、可哀想は延々と続くことになるのです。
親が可哀想でなくならない限り、親子が対等にぶつかり合うことは難しくなってしまいます。もしもあなたの心の中に、こうした感情があるなら、それに負けないことです。
自分一人でそれが無理であれば、専門家のセッションを受けることをお勧めします。
私たち人間は、相反する二つの欲望を持っているのです。その二つを決して同時に満たすことができないがために、人は様々に苦悩するのです。
その一つ目の欲望とは、真実に辿り着きたいというものです。言葉を変えれば、本当の自分、真実の自分とは何なのかを知りたいということ。
そしてもう一つの欲望とは、消えたくない、死にたくないというものです。自分という存在が消えてなくなってしまうことを考えると、激しい恐怖に見舞われるからです。
ところで、この二つの欲望がどうして相反するものなのか、そのことについて説明してみますね。たとえば、あなたが太陽のことが大好きで、その太陽をハグしたいと思っているとします。
ハグするためには、太陽に向かってドンドン近づいていくことになりますが、当然のことですがハグする前にその高熱によって、あなたは溶けて跡形もなくなってしまうでしょうね。
その光景をイメージしてみて下さい。それと同じことが先の二つの欲望同士にも起こるのです。つまり、あなたが真実に近づけば近づくほど、あなたの存在が曖昧になるということ。
真実は思考を持ったままでは近づいていけないからです。そして、とうとう真実の扉のすぐそばまで到達したとき、思考で出来上がっているあなたは消えて行くことになるのです。
あなたというエゴそのものが、真実への道を閉ざしていた唯一のものだったからです。太陽に近づきすぎて、あなたが溶解して消滅したそのときに、あなたは自分こそが太陽だったと知ることになるのです。
これ以上に皮肉なことはありませんね!
「逃がした魚は大きい」ということわざがありますが、実は今日それをまんまと経験してしまいました。もう少しで手に入れられる寸前のところで、逃してしまうのですからなかなか諦めきれないのです。
もっと早く自分が決断しておけば、こんなことにはならずに済んだのに、と思っても後の祭り。もうそれは、誰かの手の中へと消えて行ってしまったのですから。
ちょうど、大好きな彼女に告白する直前に、誰かほかの男に持っていかれてしまったかのような、あの感覚。悔やんでも悔やみきれないあれですね。
ところが、よくよく自分の心の奥を見てあげると、そうなるにはなるだけの理由もあったのだということが分かります。というのも、そこには決断を先延ばしにさせてしまう恐れがあったのです。
恐れから逃げていると、大切なものを取り逃がすことになるということです。自分は一体どんな恐れから逃げようとして、決断を先延ばしにするのか?
そこをよ~く見てあげることですね。逃げなければ、それ相応の結果が自分の元にやってきてくれるのですから。
今更ながら、いい勉強になりました!
ルーフバルコニーとかテラスとか、ルーフトップ(屋上)などに殊更魅力を感じてしまうのは何でなのだろうって思ったのですが、その理由が分かりました。
それは、インドアの安全性とかプライベート感と、アウトドアの爽快感や解放感が同時に味わえるからなのでしょうね。
インドアとアウトドア、この相反する特徴を同時に兼ね備えているからこそ、ごく普通の生活ではそれほど役に立つわけでもないのに、妙に魅力があるということです。
寿司の醍醐味だって、ひと肌温度のシャリとヒンヤリとしたネタが、同時に口の中で混ざるからこそ病みつきになってしまうのです。
サウナで暑くなった身体のままに、水風呂に飛び込むのが気持ちいいのも同じこと。また、水風呂で冷やした身体でサウナの中に入った直後の気持ちよさも同じですね。
このように、人は両極にあるものを同時に味わうことができると、そこになんとも言えない恍惚を感じることができるということです。
そういえば、最近アツアツのホットケーキに、冷たいバニラアイスを乗せて食べるの、やってないなあと思い出しました。
みなさんも是非試してみて下さい。ただし、やり過ぎには注意してくださいね!
今日もシンプルに…
理性が潜在意識に乗っ取られるとき
二つのパターンがあるのです
一つは理性を差し置いて潜在意識が優位に立つとき
この場合は、理性で自分が理性的でなくなったことに気づいています
一方、潜在意識が理性ごとすっぽり丸呑みするとき
この場合は、どこまでも自分は理性的だと信じてしまいます
後者の場合、よりたちが悪いのは当然のことですね
以上
今日もシンプルに…
この世界には誰もいない
地球を一つの球体と見るようなスケールでは、
そこに誰の姿も見ることができない
一方、分子レベルのスケールにしても
同様に誰の姿も見ることができない
誰かがいるというのは
ものすごく狭いスケール範囲だけで起きる
錯覚に過ぎない
以上