人にはそれぞれの事情がある

世の中には、同じ人間なはずなのに本当に様々な人たちがいるものです。それも、到底自分には理解することができないという場合も多いですね。

街ですれ違う、何か口の中でブツブツ文句のようなことを言っている人がいるかと思えば、交差点を止まりもせずに突っ切ろうとする自転車の人。

奇想天外な危険な挑戦をし続けている人、何も食べずにずっと健康で生き続けていられる人、人への迷惑をモノともせずに騒音を出す人。

挙げ出したらキリがありません。けれども、どんな人のどんな行動も、どんな考え方であっても、よ~く見てあげればごく普通の思考を使ってなるほどと納得できる理由があるものです。

自分という個人がこれまで経験によって得てきたものなど、地球上の70億人のすべての経験からしたらゴミのように小さなものです。

私たちは、そのほんの取るに足らないような体験を通して、周りの人たちのことを評価して、善悪や正不正を判断して裁いてしまいます。

その人にはその人なりの事情というものがある、ということを忘れずにいられると、そこそこ心を広げてやさしい目で相手を見てあげることができて、自分がその分だけ楽になります。

でもね、心の癒しを進めているときには、そのことは一旦脇に置いておいてください。

「幼い頃に親からされた虐待や考えられないような仕打ち、思い出したくもない理不尽な相手の行為にも、実はそれなりの事情がある」というところに目をやってしまうと、本当の感情が隠されてしまうからです。

久しぶりに嬉しいニュース

昨日、青森県だったと思うのですが、刃物で女性を切りつけていた男性を、高校生が体当たりで突き飛ばして命を救ったということがあったのですね。

今朝のニュースで知りました。彼は、甲子園を目指して県大会に出場している有名校の野球部員なのだそうです。

彼を含めた補欠たちが、試合会場の駐車場の整理などをボランティアでやっていたところ、その事件に出くわしたとのこと。

本人によると、何も考えずに無我夢中で突進したと言っていましたが、本当にそうなんでしょうね。思考が働いて、保身の考えがよぎったとしたら、そんなことはできなかったはずですから。

ここから先は、私の勝手な憶測に過ぎないので、適当に読み流してもらって構わないのですが。あえて書きたいので書かせてもらいますね。

もしも彼が一生懸命練習をしてきた末にレギュラーになれなくて、かつユニフォーム姿でクルマの整理をさせられていることに少しでもイラっときていたなら、結果は違っていたかもしれません。

なぜなら、そのイラっとする心は、まさしく保身からやってくるからです。その保身を抱いたままでは必ず思考が活動しているのですから、無我夢中にはなれなかったはず。

彼の日ごろの心の在り様がそのまま伝わってくるような気がしませんか?彼のような若者がいるのですから、日本の未来もまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。

それにしても、報道番組のコメンテーターのみなさま、もう少しましなコメントをよろしくお願いします!

概念と自己の同一視をやめる

by gangaji

自己探求とは、あなたをどこかへ連れて行ってくれる道のことではありません。それは、あなたをその行程の途中で立ち止まらせ、自分自身で、直接、あなたが誰であるかを発見させてくれる道のことです。

止めることの力を言葉で説明することはできません。止めることができたその瞬間、そこにはどんな概念もなく、けれども意識があります。

概念を持たない意識というのは、当然、自由です。それは一瞬にして自(おの)ずから明らかになります。私たちは普段、概念に従うことをあまりにも教え込まれているため、意識そのものも概念化しようとします。

意識が存在するために何の概念も必要ないということに気づくその永遠の一瞬、概念と自己の同一視は忘れ去られます。これは必要不可欠な経験です。

その経験の後には、概念とは無関係に、意識とは自由なものである、ということに対するより深い気づきが訪れます。

概念と自分を同一視することを止め、存在の根底にある静けさを自己であると認めるこの重要な転換には、往々にして恐れが伴います。

自分の本質を完全に理解した偉大な導師たちは、私たちに、個体性の崩壊(ほうかい)というこの恐怖と対峙するよう促します。その対峙がもたらすものは逆説的です。

つまり、個体制は崩壊しながら、同時に個人が一人ひとり明確になるのです。意識の特異性は、一人ひとりの個体の中に意識それ自身を認識しながら、同時にまたあらゆるものを息づかせる力として自身を認識する、という点です。

個体性を進んで放棄してもいい、と思うときがやってきます。そう思ったとき、実際に放棄されるのは条件づけられた個体性であって、一つひとつの意識はすべての意識と一つである、ということが明らかになります。

けれどもまず最初になくてはならないのは、個々の自己と認識していたもの一切を失うことをいとわない、という意思です。

恐れを感じるただ一つの理由は、この喪失が現実にはどういうものかを想像することができないからです。

喪失が起こったとき、それは実に大変よい知らせです。個人というアイデンティティは、自己実現という甘美な真実を被(おお)う殻(から)であったことがわかるのです。

今、この一瞬、すべてを止めてごらんなさい――探し求めることも、否定することも、拒否することも、すがりつくことも、それら全部を手放し、今この一瞬だけ、あなたの存在の真の姿の中に身を委ねてごらんなさい。

するとその後に起こるすべてのことを、存在という聖域において見、体験することができるでしょう。

実年齢と精神年齢の不一致について

幼いときに、自分の現実としての幼さと、自分の大人っぽい感覚とのずれを感じて、どうしようもない惨めさに飲み込まれていた人たちがいます。

それも時々いらっしゃいます。どういう人の場合にそういうことが起きるのかは定かではないのですが、思った以上に多くの事例に出会います。

たとえば、子供のころに「何で自分はこんなに小さいんだろう?」と不自然に自分自身を感じていたり、もっと明確に「私は子供じゃない!」と心の中で叫んでいたりもするのです。

肉体だけは、どうやってもほぼ実年齢に相応の育ち方をするのですが、心というのはどうもその限りではないようですね。

勿論、大人のような実体験が豊富ではないわけですから、物知りというわけではありませんが、要するに誰にも教わったわけではないのに人の心の在り方などを知っているのです。

この人にこういうことを言ったら傷つけることになるとか、この人に我侭をしたら相手がもたないなど、生まれながらに分かっているのです。

こういう子供は、周りの無邪気な子供たちと一緒にいてもあまり楽しめなかったりします。それはそうですよね、その子はもっと大人っぽい洗練されたものなどに興味があるのですから。

こうしたケースで一番困るのは、自分が思ったような自分にいつまでたってもなれないという現実をつきつけられて、自己否定を強く持ってしまうということです。

単に早熟というレベルで済ませるようなものではないので、本人は人知れず悩んだりすることになる場合も多いようです。

どこかの年齢になれば、実年齢が精神年齢にキャッチアップすることになるのでいつまでもその問題が続くということはないのですが、その自己否定感だけが残ってしまうのです。

それと同時に、子供のころから大人っぽい気の使い方をして生きてきてしまうために、感情が鬱積してしまい、後々そうしたものが噴出して本人を驚かせることにもつながるのです。

思い当たるという場合には、自分の心の奥深くに隠してしまった無邪気さを是非探してみてください。そこと出会うことができたなら、無邪気さと大人っぽさのバランスのとれた成熟した人間へと歩みを進めていけるはずです。

死とは思考の中にしかないもの

私たちは、みな幼くして自我に目覚めたころから死への恐怖を持つようになっていきます。自分がいなくなるとは、どういうことなのかと考えるだけでとても恐ろしく感じるのです。

けれども、安心してください。私たちの誰もが死ぬことはありません。なぜなら、実在していないものが、いなくなるということはありえないからです。

死への恐怖とは、自分がここにいるという思いがあるからこそのものなのです。実際、自我に目覚める以前の幼児には、心理的な死への恐怖はありません。

自分という人物が実在のものではないと気づいたとき、本当の意味で死から開放されます。私たちの本質は、元々生まれてもいないのですから、死ぬこともありません。

死の恐怖は、自分という個人がここにいるという思考の中にしかないものです。今この瞬間でも、自我という思考が停止しさえすれば、恐怖は消え去ります。

つまり、自分がここにいるという想いも、その自分の死に対する恐怖も、どちらも思考によってでっちあげられた実在しないものです。

今この瞬間、私たちが思考を使って忙しく活動しているそのバックに、常に在り続けているもの、それは人間という個人の生き死にとは次元の異なるものです。

ただ在るというこの感覚は、思考を越えた表現不能の領域であり、そこはたとえ肉体が滅びた後でも、今この瞬間と同じままなのです。

私たちは、恐怖から逃れようとして思考を使うように仕向けられてしまったので、ますます恐怖がつのり、結局恐怖から開放されることがないのです。

逃げようとせずに、ただただここにあってただ在るという純粋な気づきへ意識をむけていれば、思考を越えた真実こそが私たちの本質であり、そこに恐怖は入る余地がないと気づくのです。

真の救いに気づくとき

ほとんどの人々が、安心、安全を手に入れようと頑張っています。それは、勿論心の中に恐怖や不安があるからです。

そうしたネガティブな感情から逃れたくて、安心を求めて日々暮らしているわけです。そのときに使われるのが、幼いときに作り上げられた自己防衛システムです。

それはひと時の安心を得るためには効果があるのは事実です。けれども、その逆に人生レベルではいつまでたっても救われることはありません。

誰かに勝っても、好きな人と一緒にいられても、お金持ちになっても、明日はどうなるのか誰にも分からないし、必ず変化するのがこの世の常です。

事業が成功しても明日は倒産するかもしれないし、愛しい人との別離がやってくるかもしれませんし、病気で苦しむことになる可能性もあるのです。

本当の救いとはどんなものでしょうか?実は、個人としてのこの自分が人生の主役としているかぎりは、残念ながら真の救いは決してやってきてはくれません。

救われるべきこの自分がいないと分かったとき、本当の救いがくるのです。あなたの周りで起きているどんな事柄とも関わりありません。

あなたの内面でこのことの気づきがやってきたとき、やっと真の救いの意味が分かることになるはずです。

それはあまりにもあっけない気づきであると同時に、壮大過ぎてたとえようのないものです。なぜなら、それは安心を得る自己がいないという気づきだからです。

それでも、人間としての自分はこの肉体をもって、まるでこの人生を生きていくように見えるのですから、不思議なものですね。

「このくらい大丈夫」って言ってませんか?

もうかなり昔のことですが、電車通勤していた車中で相当に具合悪そうな女性がいたのですが、近くにいた若い男性が「大丈夫ですか?」を連発していました。

傍から見ていてもすぐに大丈夫じゃないだろうと分かるのに、その男性は女性が答えずにいたからなのか、何度も具合を聞くのです。

座席に腰掛けていた男性の一人がそれに気づいて、黙って席を譲ってくれたのでよかったのですが、大丈夫ではないときには答えることもできないことぐらい分かりそうなもんですよね。

私たちは、日常的に何か具合が悪かったり、どこかを痛めてしまったときにも、「大丈夫です」というようなことを言う習慣ができています。

本当に大丈夫じゃないときには上のエピソードの女性のように言葉が出なくなるでしょうが、かなりキツイ状態であっても「大丈夫」と言ってしまうのです。

それは周りに対する気遣いなのか、大丈夫じゃないと思われるのがイヤなのか、物事を丸く治めたいのか、とにかく平気なふりをしようとします。

子供のころに弱虫とはやし立てられた悲しい経験がある人は、そんなことには負けまいとして強がるクセができてしまっているのかもしれません。

実は、対外的にどう表現するかは別として、また大丈夫かどうかよりも、ただその瞬間の具合をそのままに、あるがままに感じることが絶対的に必要なのです。

理不尽な目に遭ったときに、「このくらい大丈夫」とやる前に、少しの時間でいいので自分の心からあがってくるあらゆる反応に身を委ねるのです。

要するに、我慢しようとしてしまう前に、我慢せずにいる時間を作って欲しいのです。心的反応、肉体的な反応を丸ごと感じることができたなら、その後は泣こうが叫ぼうが、周りに助けを求めようが忍耐しようが、それこそ大丈夫なのです。

苦しみよ、さようなら

私たちのあらゆる苦しみというものは、願望を持つことからやってくると言って間違いありません。なぜなら、その願望が現実にならないということが苦しみだからです。

この苦しみというのは、単純な痛みとは全く異なるものです。痛みは事実として存在しますが、苦しみは自分が心の中で作らない限りは存在しないからです。

だからといって、願望を持つこと自体を否定しようとしているのではありません。誰だって、願い事、望み、欲望などを持っています。

望むことがあるからこそ、それに向かって突き進んでいくこともできるわけですし、それが実現すれば大きな喜びを勝ち取ることだってできるのです。

オリンピックを観戦するときに、どのチームもどの選手も応援せずにただ漫然と見ていることもできますが、あまり興奮することはできませんね。

日本の選手やどこかヒイキの国のチームや選手を応援しながら見るからこそ、スリルや興奮がくるのでしょうし、願った結果になれば悦びもひとしおです。

ここで私が言いたいことは、実は冒頭書いた「その願望が現実にならないということが苦しみだからです」というのは本当は正しくありません。

本当の苦しみとは、願望が実現しなかったことや、願っていない現実がやってきたときに、それを認めようとしないことこそが、苦しみの根源だということです。

いやなことをいつまでも引きずってしまうという苦しみは、気づかぬうちに現実から逃れようとしていることからやってきます。

どんなことが起きようが、それによってどれほどの心的痛みがやってこようが、ただじっとしてそこから一歩も動かずにいればいいのです。

我慢することなく、反応としてやってくる感情をただ浴びるだけ浴びてあげればいいだけです。そうすれば、痛みは小さくなり苦しみは一つも残ることはありません。

親を内在化する理由

誰もが幼いころに、親の内在化ということを行います。行うといっても実際の行動ではなく、心理的に行うということです。

それはどういうことかと言うと、自分の親にそっくりな人格を心の中に作ってしまうのです。勿論それは、無自覚のうちに行われるので、本人に気づかれることはありません。

作られた人格は、副人格として心の中にしっかりと定着して、それ以降の人生においてとても重大な影響力を持って活躍することになるのです。

なぜそんな人格を作ることになるのかといえば、それは自分を守る、自己防衛のために他なりません。では、親の内在化がどのようにして自分を守ることになるのかを見ていきます。

たとえば、子供を否定する親がいたとすると、その子供は自分でも知らぬ間に自分のことをまるで親が否定するのと同じように、自己否定する人格を作り上げてしまいます。

そして、実際に親に否定されるよりも前に、自分の中で自分が否定されてしまうので、そこで否定されないようにと行動修正することができるのです。

親に否定されてしまえば、もしかしたら親に嫌われて見捨てられてしまうかもしれないという大変な危険な事態になりかねないわけです。

それに比べて、自分自身に否定されるだけであれば、特別に危険な目に遭うということもありませんので、結果として自分を救うことになるのです。

親の内在化は、いつもこのブログでお話ししている自己防衛システムの中のもっとも標準的なものの一つであるということができます。

ということは、つまり親の内在化にいつまでも翻弄されていると、結果として自分を守るどころか人生が非常に不自由なものとなってしまいます。

なぜなら、自分で自分の気持ちを抑圧することになってしまうからですね。あなたはどんな人格の親に育てられたでしょうか?

そして、その親の内在化した人格にどれほど条件付けされた人生を生きているでしょうか?自分の中にいる親二世をしっかり見てみることです。

その上で、その副人格の思いや気持ちを丸ごと受け止めてあげることができるなら、もうそれに惑わされることもなくなるはずです。

逃げないという選択肢があることに気づく

by Gangaji

逃げたい、という衝動に気づき、その衝動に直面しながらも逃げるのを止め、振り向いて、あなたが逃れようとしてきたものと正面から向き合うことが、あなたにはできます。

それは肉体的なものかもしれませんし、精神的なもの、感情的なもの、あるいは政治的なものであるかもしれません。

生きるか死ぬかの問題かもしれません。あるいはそれはあなたの最も深い恐れかもしれませんし、最も深い喜びかもしれません。

それは、あなたが誰であるか、そして誰ではないか、という概念と向き合うことを意味するかもしれません。

逃げたい、という衝動を自覚すると、選択肢が生まれます。逃げることを拒(こば)み、苦しみの原因と思われるものと向き合う、という選択肢です。

選択する能力というのは理性の持つ最も優れた力ですが、この選択はあなたがこれまでにしてきたどの選択とも違うレベルのものです。

抵抗を止め、逃げ出そうとするのを止める、という選択をしたとき、否応(いやおう)なく、見事に、何の努力をも必要とせずに、あなたという存在の宝物が、あなたの真実の姿として現れます。

そのときあなたは、癒されるべき傷が癒されるのを祝福し、残された傷を嘆き悲しむことができます。

そして、祝福と嘆きの只中にあってあなたは、常に存在する真実の中で休息を得ることができるのです。