記憶が心に足跡を残すことが問題を作る

by Papaji

もし対象物が意識の中の現れにすぎないことを知っていれば、しがみつくことなしにそれと戯(たわむ)れることができる。

だが、たいていの場合そうはいかない。たいがいは欲望が起こり、快楽が続き、そしてその記憶が続く。問題はこうして起こる。快楽自体に問題はない。

ただその後でそれを回想することが問題をもたらすのだ。快楽は終わっても、記憶は残る。その残された記憶が同じ対象物から快楽を求めようとする欲望を起こさせるのだ。

そのようにして、それは無限に続いていく。

快楽に耽溺(たんでき)することは、何度も繰り返しそれを楽しもうとする欲望を生み出す。これがあなたの問題なのだ。

これがあなたに苦しみをもたらす。快楽が不在のとき、苦しみが起こる。なぜなら、その楽しみに戻ろうとする満たされない欲望がまだそこにあるからだ。

対象物を来させるがいい。それを楽しみなさい。そして忘れてしまいなさい。ひとたびそれを楽しんだなら、心から棄て去るがいい。それはもはや必要ないからだ。

レストランに行くとき、あなたは食べ、それからそのレストランを出ていく。あなたの空腹、食べ物の必要性は満たされたのだ。

なぜその後で食べ物のことやその楽しみについて考える必要があるのか? 精神的に快楽の体験を想い起こすことは、同じものをもっと得たいという欲望をもたらす。

記憶が心に足跡を残すことが問題をつくりだす。これが起こってはならない。それは欲望と苦しみをもたらすだけだ。

本当の無敵とは

圧倒的な強さでボクサーのチャンピオンの座に君臨している選手、あるいはカーレースの最高峰であるF1の世界で、何度もワールドチャンピオンになったドライバーもいました。

こうした飛び抜けて強い選手のことを、向かうところ敵なしといったり、もっと省略して「無敵」というように表現することもありますね。

「無敵」というのは、誰も太刀打ちできるものがいない、つまり敵として戦えるような者がいないくらい強いという意味です。

けれども、この「無敵」は絶対的なものではありません。時代が変わり、年齢を重ねると同時により若い選手が台頭してくるものです。

そしていつかは、敗れるときが必ずきます。つまり、この「無敵」さには制限があるということです。一過性の強さであることに間違いありません。

私が若い頃は、世界中に沢山いる有名なギタリストの中で、誰が一番上手いのかということが話題になることがありました。

今思えば馬鹿馬鹿しいことですが、まだまだ演奏の技術が熟していなかった時代なので、仕方がなかったのでしょうね。

でもあるとき、超有名なギタリストの一人が「誰かが一番上手だとしても、すぐに他の誰かに抜かれてしまうのだから、そんなことは意味ないことだよ。」と言ったのです。

無敵のギタリストは一過性のものに過ぎないと言っていたのですね。けれども、実は本当の意味での「無敵」さというものがあるのです。

それは無防備な心のことです。無防備でいると、愛が発動して誰かを攻撃することがなくなってしまうので、相手と戦うということがなくなり、結果として真に敵がいないという状態になるのです。

これこそが、本当の「無敵」ですね。できれば、より強くなって無敵になろうとするのではなくて、無防備な心(自己防衛を減らしていくこと)による「無敵」状態になりたいものです。

本当の勇者とは、強さではなく、愛で「無敵」であるものを指すのでしょうね。

感情や気持ちを言葉に出して表現する

先ほどテレビのとあるバラエティ番組を見ていたら、胡散臭そうな若手の評論家のような人物が、珍しく身のあることを言っていたのでびっくりしました。

それは、恐怖を減らすにはどうしたらいいかを検証する実験についてなのです。不気味なクモを三人の被験者に見せて、それぞれに次のように言わせるのです。

一人は、「こわいこわい!」、二人目は「ぜんぜん怖くない!」、最後の一人にはまったく異なる別の言葉を言わせるというものでした。

そして一週間後に、その三人のうち誰がクモに一番近づくことができるかを検証することで、最も恐怖を克服した人を見つけ出すのです。

結果はどうなったかというと、実は「こわいこわい!」と言わされた人が最もクモの近くに行けるということが判明したのです。

私としては、この結果は当然のことなのですね。つまり、恐怖をどれだけ認めて、その感情から逃げずに味わうかが勝負で、それができた分だけ恐怖が減少するということなのです。

つまり、恐怖をそのまま表す言葉である、「こわいこわい!」と言う言葉を何度も繰り返すことによって、その恐怖を認めて、受け止めたことになるのです。

このことは、恐怖に限らず悲しみや不安、罪悪感や怒りなどのあらゆる感情に対しても言えることなのです。その感情に無防備に接することこそが、その感情から開放される唯一の方法だということです。

認めるとか受け止める、あるいは感じつくすなどと言われてもピンと来ない場合には、その感情を表す言葉を繰り返し言葉に出して言えばいいのです。

それなら簡単ですね。どのくらいの効果があるのか疑問であれば、実際に試してみることを強くお勧めします。一度、その効果を実感できたら人生が無敵になるかもしれませんよ。

過去の自分と向き合うこと

幼い子供にとって、毎日の生活がとても耐えられないようなひどいものであった場合、その子供は心の中にもう一人の自分を作って、苦しみや辛い感情をそれまでの自分に背負わせようとします。

そうやって、新しく作った自分は自覚の上ではそれほど苦しまずに生きていくことができるようになるのです。その子供にとっては、そうした自己防衛が死活問題であることは容易に分かってあげられますね。

そして、その子はそれまでの自分を置き去りにして、年齢とともに成長していくのです。その延長上に大人の自分がいるというわけです。

したがって、大人になったご本人にとっては過去の苦しみを思い出さなければ、それなりの生活を送っていくことができるのです。

特に、無自覚にいやな思い出から逃れようとして、仕事に精を出したりして何かに没頭する傾向が強くなるのは仕方のないことです。

けれども、その裏には幼くして苦しい感情を丸ごと背負わされて、にっちもさっちもいかないでいる可愛そうな自分が潜んでいるのです。

大人の自分とはひどく乖離してしまっているために、普段はその存在には気づくこともないのですが、その苦しいエネルギーがその人の人生に悲惨な出来事を引っ張ってきてしまうのです。

いくら頑張っても努力しても、意志の力でそれを避けることはできません。人生の苦しみは、「エネルギーは友を呼ぶ」の法則に基づいてやってきてしまうことになるからです。

ご自分の人生を振り返ってみて、なぜこれほど不運続きなのだろうと感じているのなら、上記のようなことを疑ってみる必要があると思います。

そして時間をかけてゆっくりと、過去の自分と向き合っていくことです。過去から逃げ続けることは、結果として人生を台無しにしてしまうことになるのですから。

学ぶべきトリック

by Papaji

対象物が存在すると、意識はそれに占有されてしまう。そしてそれが分離をもたらすのだ。それは知覚された対象物にとらわれて、意識の源への気づきを失ってしまう。

その分割された状態のなかで、意識は意識そのものに気づかず、また対象物と関わることで気づきを妨げられていることにも気づかないのだ。

意識せずに対象物を見ることはできない。ただ意識を通してのみ、対象物を見ることができる。あなたは対象を見ていることを意識している。

だが、見るという過程が進むにつれて、あなたは対象に魅せられ、それに執着するようになるのだ。そうなると、その対象物は感覚的な楽しみをもたらすものとして認識される。

なぜなら、対象物は感覚を通して意識に記憶されるからだ。心は対象物を楽しむことでそれに執着し、意識あるいは空であるそれ自体の源を忘れてしまう。

対象物が取り除かれたとき、心は空の状態に戻る。対象物がなければ、本来の自然なあるがままの状態だけが残る。

この自然な本来の状態への気づきを妨げるのは、対象物への執着心なのだ。これが起こると単一の意識は分割され、限定されてしまう。この分裂した状態の中で気づきは失われ、意識はもはや単一の全体として体験されなくなるのだ。

この意識の分割と限定の過程は無限に続いていき、それが顕現(世界の現われ)と呼ばれるものとなる。

だが、ひとたび対象物は意識の中に存在し、意識から分離していないことを知れば問題はなくなる。意識はその中に対象物をもっても影響を受けることはない。

対象物をつかもうとつかむまいと、意識にとっては同じことなのだ。もしあなたが対象物の代わりに意識と同一化すれば、問題が起こることはない。あなたはこのトリックを学ばなければならないのだ。

自己の本質を直接体験する

目を閉じると、今まで見ていたものが何も見えなくなります。そこには暗闇だけが広がっていて、ともすると怖い感じがしてしまうかもしれません。

けれども、本当はその瞬間、私たちは紛れもない自分自身の姿を見ているのです。見ているといっても肉体の目を使って見ているわけではありません。

肉体の目による視覚情報は、自己という源泉から流れ出た現象を映し出しているに過ぎません。それに強く依存しているために、視覚を閉ざしたときにしか自己の本質を見ることができなくなっているのです。

肉体の目を使わないでいるとき、私たちは自己を直接見ているのです。なんという愛しい自己の姿なのでしょうか。

このことに気づくと、目を開いた状態でもあらゆる現象が起きているそのバックに目を閉じたときに見えた自己の姿を見ることもできます。

同様にして、肉体の耳を使って特定の音や美しい音楽を聴いているときには、起きている現象を聞いているのです。

けれども、耳を澄ましてあらゆる音のバックに常に在り続ける静寂さに気づくとき、私たちはやはり自己を直接体験しているのです。

私たちは、日ごろ肉体の知覚に頼りすぎてしまい、起きている現象にのみ意識を向けるように慣らされてしまっているのですが、その背後に変わらずに在る自己へ意識を向けることができます。

そのためのどんな努力も必要ありません。なぜなら、すべての人の人生を貫いている普遍の自己が今この瞬間にただ在るのですから。

選択肢がないという真の自由

人生とはまさに決断の連続ですね。一生を通じて、決して忘れることのできないような大きな決断もあるでしょうし、毎日の何気ない生活の中での小さな決断も沢山あります。

そしてその決断どおりに実行することもあるし、できなかったことだってありますが、いずれにしても実行の結果を喜んだり悔やんだりするのです。

さらに、その結果を受けて未来に向けて、同じような後悔をしないようにと次なる決断をし続けるわけですね。

けれども、一度本当の意味で自分の決断というものはないということを知ると、そのとおりに行動した結果が期待通りに行かなかったとしても、悔やむことが少なくなるのです。

つまり、すべての現象は源泉から一瞬一瞬やってくるということがわかると、自分という個人が行為者ではないということを理解することになるのです。

自分の心の中に源泉から決断がやってきて、それに従った行為が源泉からやってきて、その結果として、源泉からやってくる心の反応が起こるのです。

あなたという人物から何かが生まれ出てくるということはありません。そのように、表面的にも心情的にも見えるだけなのです。

真実に目をやるとき、あなたにはどんな責任もないし、どんな罪もありません。あなたは美しい大自然の景色の中の一つの現象に過ぎないからです。

残念ながら、あなたの手柄のように見えるものも、本質的には源泉からやってきた単なる一つの現象に過ぎません。

このことに深い信頼を置くことができた分だけ、あなたは自由を手に入れることができるのです。あなたに選択肢がないということこそが、本当の自由ということなのです。

日本の神道との共通点

日本に古くからある神道には、あらゆるものに神が宿るという考え方があるようですね。山には山の神、海には海の神、そして道端に咲いている名も無き花にも神があると。

キリスト教やイスラム教のように、全能の神、偉大な神が存在するという考え方とは随分と違いがあるように感じるのは私だけでしょうか?

神道の考え方には、遍在するという見方があると思います。つまりいたるところに神がいるということです。ここには神を人格化するようなところがありません。

それはいつもこのブログでもお伝えしている全体性ということと同じなのではないかと思うのです。なぜ日本人は古来からそのような見方をしていたのでしょうか?

きっと日本人の奥ゆかしさというのか、そうした謙遜な態度が関係しているように感じます。自分はちっぽけな存在だけれども、神はあらゆるものの源泉だということ。

自分という個人がいるように感じていることをそのままにして、遍在する神を体感したからこその結果だと捉えることもできます。

現代に生きる私たち日本人は、そうした先輩方の思いをさらに進めて、自分という個人が単なる思考であって、遍在する全体性としての自己こそが真実だと真正面から見ることです。

心を静かにして、神道を生み出した日本人に感謝しつつ、いつ何時でもここに在る真実に深い信頼を与えることができれば、先輩方々も喜んでくださるのかなと思うのです。

心底自分に謝ったことがありますか?

このエピソードは今までにもう何度もブログやセッションでみなさんにお話ししたことがあるのですが、昨日のブログを今読み直しているうちに再度書きたくなったので、書いてみます。

私の今までの人生の中で、たった一度だけですが、とても大きな心理的な出来事があったのです。それは、2000年の5月か6月ころだったと記憶しています。

IT業界で仕事をしていて、ちょうど2000年問題が話題になって、何とか無事に年を越してすぐのときです。つまり、2000年1月の始め、毎年やっている人間ドックの検査で大腸がんが発見されたのです。

2月のはじめには手術をして、自宅療養も含めてその月のうちには回復していました。3月から普通どおりに仕事を始めて数ヶ月たったときです。

いつものように夜お風呂に入って、身体を洗い終わって出ようとしたときに、見慣れた50針ほども縫った手術の傷跡を見て愕然としたのです。

それは突然やってきました。理由は分からないのですが、自分が自分を傷つけてしまった、これほどの傷を与えて取り返しのつかないことをしてしまって、本当に申し訳ないという深い謝罪の気持ちが襲ってきたのです。

それまで自分がどんな目に遭おうとも、それが自分のせいだとしても他人ではないので、自分が我慢すればそれで済むものと思っていたのですが、そのときばかりは違いました。

完全に自分に対する加害者側の立場に気持ちが移ったのでしょうね。何度も繰り返して、自分に謝っていたのを覚えています。

そして、それ以降は自分に謝らなければならなくなるようなことは、もう決してしないようにしようという決意をしたように記憶しています。

その決意によって、あとは自然にサラリーマンを辞め、今の仕事へと先の見えない一本道をすごい勢いで進まされたような感覚があるのです。

大切な人生の道は自分で掴むものと世間ではいいますが、私の場合は自分への深い謝罪とそれへの反省を含めた決意によって、勝手に道が自分の前に開かれたように思っています。

大切な人をいたわるのと同じ「目」で、自分をいつも見ることができるなら、人生はあなたにやさしく微笑んでくれるはずです。

真に自由でいるためには?

私たちの誰もが自由を求めているのは確かなことです。不自由な暮らし、不自由な生き方、制限されて抑圧された人生などまっぴらなのです。

けれども、残念なことに私たちは、自由よりも一過性の安心を得ることを優先して生きているということに気づく必要があるのです。

もっとこうならなければ、今よりもより向上しなければ、この部分を何とかしなければ、こうでなければならない、こうあるべきだということに振り回されていませんか?

それは、自分を少しだけ安心させるために自分自身がこしらえた制約であり、ルールであり、正しさなのです。

そのルールや正しさの中で生きている限りは、後ろ指を指されることもなく、誰かに否定されて見捨てられることもないと思い込んで、自分を不自由な牢獄に閉じ込めているのです。

あなたは自分を本当に自由にしてあげたいと思っているでしょうか?自由とは、安全な中でそっと胸をなでおろして生きていることを指してはいません。

外側からの否定や攻撃がやってくることもありますし、自分を危険なところへと向かわすこともあるかもしれません。

それでも自由でいたいという強い決意を持っているでしょうか?自分を本当に愛しているのであれば、一時しのぎの安心よりも自由を与えてあげることです。

自由を手にするのはいたって簡単です。それは、自分を精神的に守ろうとする自己防衛をやめていくことです。

そのためには、一瞬一瞬立ち止まっては、自分の本当の気持ちから逃げずにそれを見てあげることです。すべてをすくいあげて、ありのままの自分でいさせてあげることです。

自分に正直でいること、それが自由へのチケットだと思ってください。