都合の悪い人

誰にも、その人にとって都合のいい人と都合の悪い人がいるものですね。相手の人との人間関係がその人にとって心地いいものであったり、楽しい時間を一緒に過ごせるようだと都合のいい人ということになります。

逆に、人間関係がその人にとって、居心地が悪かったり、いやな思いをさせられてしまうようだと都合の悪い人ということになります。

ですから、例えばパートナーとなる人を選ぶときに、都合の悪い人であっては困ります。当然都合のいい人の中から選ぼうとするはずです。

自分の周りにいる人たちが全員自分にとって都合のいい人ばかりだったら、人間関係で悩むこともなくなり、とても快適な人生になるはずだと思っている人も多いでしょうね。

そして勿論その逆に、都合の悪い人ばかりに囲まれて生活しているとしたら、それはかなり悲惨な人生になってしまうと思われます。

自分の人生はまさにそれだよと嘆く前に、どうして都合の悪い人が周りにいるのかということに目を向ける必要があるのです。都合の悪い人とは、見たくない自分の姿だと理解することです。

人は、自分の心の中にある、都合の悪い部分を自分の中にはないとして否認するのです。その上で、その否認した部分を自分の外側に投影することで、自分と投影した他人とは別々の存在だとするのです。

そうすることで、都合の悪い自分への否認を確実なものとします。そうして、投影した相手を攻撃するわけです。つまり、自分の周りにいる都合の悪い人とは、自分の都合の悪い部分を否認するために自分が攻撃的になれる人というわけです。

したがって、都合の悪い人からただ遠ざかろうとするばかりでも、また都合の悪い人を攻撃するだけでも、自分の都合の悪い部分に気付くことはできないのです。

結局、都合の悪い人というのは自分の心の闇の部分に光を当てさせてくれるための救い人であると言えるわけです。

都合の悪い人がいたら、大チャンスがやってきたと思って、愛をもって相手を受け入れる訓練をすることです。それが、自分を許すことにそのまま直結するのですから。

過去とのつながり

心を静かにして、個人としての自分というものへの興味を手放していくと、今まで自分が生きてきたこの人生の記憶が幻想であるように感じてきます。

記憶を呼び起こそうとすれば確かにいろいろなことを思い出すことはできるのですが、それが過去という時間の中で自分が現実として体験したことかどうかがとても曖昧な気がするのです。

つまり過去とのつながりが非常に希薄に感じられるということです。そういう意味では過去の出来事の記憶は、夕べみた夢の記憶とそう変わらないと感じるのです。

そうなってくると、過去の自分はこういう奴で、こういう特性があって、こんなことをやってきて、ということへのこだわりや、自分に対する既成概念のようなものを使わないで済むのです。

それは過去の自分と切り離された、過去の自分とは別の今の自分というイメージです。そのイメージの自分はとても自由な感じがして、何にも捉われることのない気持ちよさがあります。

だから未来の予測も過去の自分を土台としてイメージする必要がなくなります。すべては今の自分が心の中に抱いているイメージや観念だけで今の続きとしての未来の予測ができるのです。

それは自分が学生から大人になっていくときに持っていた自己イメージとは大分かけ離れた自分になっているようです。過去の自分は、ごくごく普通の典型的な日本人の男性という人物像でした。

それに対して、今この瞬間の自己像というのは言葉で表現すると誤解されてしまうかもしれませんが、「誰でもない」という感じがするのです。

別の表現をすると、明確なアイデンティティのない自分、何かふわっと存在しているだけの自分というような感じです。過去から遮断されると、そんな感じになるのかもしれません。

肉体に従属するのではなく、肉体を癒しの目的にうまく利用していく自分、そして最終的にはすべてを許し、肉体を必要としなくなる瞬間に向かって心の内に深く沈んでいくように思います。

しがらみ

人生における「しがらみ」というものは、大抵人間関係に付随して発生するものですね。たとえば、あの人に頼まれたら、いやとは言えないといったようなある種の制約のようなものです。

誰しもこうした何らかの「しがらみ」を抱えて生きていると思います。それは、全く人間関係を持たないで生きている人はほとんどいないからです。

私の場合は、自分でも自覚があるのですが、50年以上生きてきた割にはきっと「しがらみ」が極端に少ない方だと思っています。

それは、「しがらみ」によって不自由な思いをさせられるのがとてもいやなので、人間関係そのものを希薄なものにしてきたからだろうと思うのです。

そのおかげで、面倒くさい「しがらみ」からは開放されていますが、人が人間関係からしか学べないということを勘案すると、あまりいいことだとは言えません。

逆に、たくさんの人と関わって生きつつ、「しがらみ」に負けない生き方を実践することが本当に意味のあることだと思います。

そうするためには、人と関わることでどのようにして「しがらみ」が発生することになってしまうのかを、はっきり見極める必要がありますね。

「しがらみ」は義理などと同じように、人と人との関係を円滑にするために人が考え付いた手法なのだろうと思います。自分の言動をある一定のルールの下で制限することで、関係を壊さないようにすることです。

自分がそうしたいからするということであれば、それは「しがらみ」とはあまり呼ばないかもしれません。ということは、関係が悪化することを恐れることから生じる制約なわけです。

つまるところ、それは自己防衛であるといえると思います。ということは、自分を守ろうとしないでいれば、それだけ「しがらみ」は少なくなるということですね。

やはり、「しがらみ」も自己防衛を我が仕事とするエゴの産物であったわけです。恐れを手放して、愛を選択することで「しがらみ」からも開放されるということです。

兄弟げんか

兄弟や姉妹の喧嘩では大抵は年上の方が勝つわけですが、一方負けたほうの年下の子はお母さんに泣きついていったりするものですね。

そんな時に、母親がこの子に言ってあげる言葉の中で、「お兄ちゃん(おねえちゃん)が悪いねえ!」というのがあります。

実際の喧嘩の内容など見ていないにも関わらず、負けて悔しくて救いを求めてきた子に対して、そんな言葉を言ってあげるのはなぜでしょうか?

それは、母親はそれがその子が納得して安心させてあげられる一番の言葉だと知っているからです。つまり、あなたは悪くない、だけどあなたを泣かせたお兄ちゃん、おねえちゃんは悪いね、と言ってあげることで、その子の気持ちは落ち着くのです。

これはほんの一つの例に過ぎませんが、これと同じように我々は自分以外の誰かが悪者であることで安心できるのです。

特に自分になんらかの不利益を与えたような人がみんなから悪者扱いされることを好む傾向にあるということです。

なぜなら、自分は決して悪者ではないということを分かってもらえるからですね。その上で、にっくき相手が悪者として裁かれるわけですから、願ったり叶ったりということです。

この気持ちこそが、自分と人との間に罪を置いて、その間の隔たりを確保しようとするエゴの作戦であるわけです。

だからこそ、我々は自分の周りに適当にいやな人、悪い人がいるように望んでいるのです。そして望んだことが現実として現れるわけです。

それは親しい家族の間でも、恋人同士でも、友人同士でも、ありとあらゆる人間関係に対しても言えるのです。

自分は一体周りの人たちに対して、どんな罪をかぶせようと企んでいるのか、一度じっくり見つめて見ることをお勧めします。それこそが自分の心の中のエゴの企みそのものなのです。

悔い改める

人はその命が終わり、死ぬとそれまでの人生での自分の行いをすべて見せられることになり、どこがどのように至らなかったかなど詳細に反省させられると聞いたことがあります。

自分の行動を悔い改めるということによって、魂が進化するというような観点からすると、そうしたこともあり得るのかもしれないと考えられますね。

ただ、こうした考え方というのは、物事の善悪が存在するということが大前提としてあるということです。そうでなければ、悔い改める必要はないからです。

誰が、どのような基準を使って、その人の行いを裁くのか、それは本当に正しい解釈なのかということを考えると、どうも怪しくなってきてしまいます。

私は信心深いところがないせいかもしれませんが、昔から罪はないという考えが好きでした。そして、「奇跡のコース」を読んだときにも、全く同じことが書いてあったのでその考えが確信に変わりました。

罪がなければ、悔い改めるという必要はありません。罪ではなくて、あるとしたら単なる間違いであると思うのです。そして間違いは訂正すればいいだけです。

間違いは訂正したらそれですべてが終わります。なかったのと等しいことになります。それが許しなのです。罪というものを肯定してしまうと、それは報いとして罰を与えられたとしても、罪そのものが消えることはありません。

元々罪とはそういうものです。ただ、罪悪感を感じるのは辛いので、罰を与えられることで少しだけその罪悪感が減らせると思い込んでいるだけです。

罪を許すことはできません。許しとは間違いを訂正するということなのです。悔い改めるということでもないということです。

お墓

今日、家族と久しぶりにお墓の掃除に行ってきました。家族の誰も亡くなってはいないので、墓石もまだ立ててないし、勿論墓参りでもないので、言ってみれば気楽な、ほとんど休日のちょっとしたドライブがてらのような感じです。

自分が死んだら、間違いなくそのお墓の中にお骨を納めてもらうことになるわけですが、自分は昔からそういったことに全く興味を持つことがありませんでした。

勿論、今も死んでそんな墓の中に自分が入れられるなどという思いはこれっぽっちもありませんし、仮に親が亡くなったとしてもそうした気持ちは同じです。

なぜだか理由は分からないのですが、自分が死んだ後のこと、葬式や戒名などのこと、四十九日の法要などについても興味がありません。

自分が死んだ後のことまで、家族やその他の大切な人のことを心配している人が結構いらっしゃるようですが、その気持ちは自分の中を探してもほとんど見つかりません。

そんなことでは無責任なのではないかと言われそうですが、こうした気質というものは生まれ持ったものかもしれないですし、自分としてはどうしようもないことです。

正直、お墓というもの自体の必要性を感じることができないというのが本音かもしれません。ですので、墓参りに行きたいという気持ちもとても薄いのです。

故人のことを偲ぶのは何もお墓に行かなくてもできると思っていますが、だからといってお墓参りをする人を勿論否定するつもりも全くありません。

ただすべては心のうちでのことだと思うだけです。お墓は故人を思う気持ちの象徴であるだけです。それ以上のものだと思う必要はないはずですね。

人は自分が生きていた証しのようなものが欲しいのかもしれませんね。だからこそ、生きてるうちに死後のことをあれこれ心配するのかもしれません。

自分は本当は一人ぼっちだと感じている人ほど、そうした気持ちを強く持つのではないかと思います。自分はみんなと一つなんだという愛の心があれば、生きる証しを殊更求める必要はないからです。

生きていても、死んでいても同じなのです。すべては一つという愛の想念だけが真実であるとすることで、亡くなった人とお墓を結びつける気持ちがなくなるように思います。

見つめるものは拡大する

自分は幼い頃からとても神経質な子供で、気になることがあるとそのことをずっと考えたりしていたのを覚えています。クルマで出かけるときには、必ずと言っていいほど車酔いをしていました。

これは、はっきりと覚えているのですが、出かける前から、もう酔ったらいやだなということばかりを考えていて、実際にクルマに乗るときにはもうほとんど酔ってしまっているような状態でした。

何かを気にしだすと、そのことばかりに捉われてしまって、何をしてもそのことが頭から離れなくなってしまうということがよくありました。

子供のころからよくお腹が痛くなるのですが、自分の意識がお腹にいつも向いていることに気付いたのはかなり大きくなってからでした。

いつもどんな時でも、おへその周辺に気持ちがあって、何となく張ったような感じがしていたり、なにかが気になったりと、必ずお腹へ意識が向いている状態でした。

大人になって、「見つめるものは拡大する」ということを聞いたときに、ははあ、それでお腹が痛くなるんだなと気付いたのです。

いつもお腹の具合ばかりを気にしてしまうあまりに、結局お腹の具合が悪くなって、それをまた気にして、というような悪循環にはまっていたと思います。

「見つめるものは拡大する」とは、自分が気にしだすと、そのことが頭の中で大きな関心事となって、結局自分にとってとても大きな事柄となってしまうということです。

そして、それがいいことならいいのですが、いやなことだったりすると、そのいやなことが自分の中で大きくなってしまうということです。

この悪循環を回避するには、勿論そのことを頭の中心から離してあげることが大切なのですが、なかなかそれができないのですね。

今ではそこから無理やり目をそらすのではなく、そのことが気になっている自分をまずやさしく許して、その上で別の選択をするようにすることで大分手放すことができるようになりました。

許すというのは、こういったことにも効果があるということですね。お心当たりがある方は、是非試してみて下さい。

奇行

人の不思議な行動、あるいは理由が分からないような言動というのは時々あるものです。そういったものを奇行と言いますね。

例えば、自分は下唇の内側を噛んでしまうという癖を持っています。勿論、唇の皮膚に傷をつけてしまうことになるので、理性としてはやめたいのですが、気が付くとやっていることが多いです。

何気なく髪の毛をぬいてしまう抜毛症と呼ばれる行動や、氷をボリボリ噛み砕いて飲み込むことがやめられないという人もいらっしゃいます。

こうした行為というのは、自分でもその理由が分からないばかりでなく、やめたいと思ってもなかなかやめられない場合が多いのです。

このように、奇行というのは見た目が常識から考えると理にかなってないような行為なわけです。そして、そうすることの目的や理由が他人からも自分自身にもはっきりと分からないという特徴があります。

だからこそ、奇抜な行動として人の目に映るのです。そしてもう一つ不思議なことに、そんな奇行をしている本人は、そのことを真剣には不思議だとは思っていないということです。

それはなぜかというと、そういった行動の原因となることを真剣に探るということは、実は自分にとってとても都合の悪い事実に気付いてしまうからなのです。

人のどんな行為であっても、そこに原因がないということは絶対にありません。必ず、その言動にはそれなりのきちんとした理由、源となる原因があるのです。

その原因のほとんどが、幼い頃の心の傷であるということです。その辛い傷を自分からも他人からも隠すように生活していると、その隠されてしまった心の傷が何とかして表面に出ようとします。

つまり、なんらかのサインを送ってきます。それが、奇抜とも思える言動として発生するということなのです。自分には、ちょっとした奇行があるとの自覚があれば、それが何からくるサインなのかを考えてあげることはとても癒しの助けになります。

自分の言動に注意を払ってあげて、奇抜なことをしていないか観察してみてください。もしかしたら、えっと思うようなことに気付いてあげることができるかもしれません。

重荷をおろす

私たちは時として、知らず知らずのうちに自分に対してとても過酷な重荷を背負わせています。一番代表的なものは、自分の人生にしっかりとした責任を持つというものですね。

どんなに辛かろうと、生まれてきてしまったからには、天寿をまっとうしなければならないとか、いつも正しくあらねばならないとか、いつもたくさんの重荷を背負わせてしまっています。

何だか頑張らねばならない、いい加減ではいけない、とにかく人に後ろ指をさされるようではいけない、など数え上げたらきりがありません。

何かというと、自分には○○するべき責任があるということばかりを主張する人や、それが自分の義務ですからと自分を追い込むタイプの人もいますね。

なんだか立派な人のように感じないわけでもありませんが、どうも堅苦しいし、そういう人と話しをしていると息が詰まる感じがしてきてしまいます。

いつも最も正しい判断をしなければならないと思っている人は、きっと気が休まることがないのではないかとこちらが心配してしまいます。

どうしてそんなに自分に重い荷物を背負わせておきたいのでしょうか?確かに手ぶらで気楽に歩いている人よりも、思い荷物をしっかりしょって一生懸命歩いている人のほうが立派なような感じがするかもしれません。

しかし、重荷を背負って幸せな人はいいのですが、もう辛くて肩が痛くてしかたがないというくらいに疲労してしまっては、人生から笑顔が消えてしまいます。

重い荷物を降ろして身軽になるということは、実は勇気がいることなのです。そのことに気付いている人は少ないかもしれません。

自分は何かわけのわからない重荷を背負っているかもしれないと感じるのでしたら、その重荷の正体をしっかり見つめてみることです。

その重荷は自分にはいらないと決意することができたら、きっとすがすがしい気持ちの毎日がやってくるはずです。

淡々と生きる

以前ハワイに数年住んでいた経験がある人から聞いたのですが、ハワイは日本のような季節による変化がほとんどないので、何かベターっとした数年だった印象があると言っていました。

確かに日本にいれば、数ヶ月に一度は大きな季節の移ろいというものを感じながら生活しているので、何かこう一年のめりはりのようなものがあると思いますね。

季節の移り変わりというのは、どうも身体にとってはこたえるもののようですが、気持ちの上では目に映る周りのものがいろいろな変化をするので、その変化を楽しむことができたりします。

女性の身になると、きっと季節によってさまざまなおしゃれができたりするでしょうから、そういう楽しみもあると思います。

サラリーマンの時には、週末は会社がお休みというのが一週間のけじめのような役割をしていてくれた部分があったと思います。その分、月曜日が何となく明るい気分になれない感じでしたね。

それと月の中で給料をもらえる日というのがありますので、それも月のどのあたりを自分が生活してるのかということの目安になっていたと思います。

それが、今のようなセラピストの仕事をするようになってからは、週末というものが実質ないようなものなので、今日が何曜日なのかという思いがものすごく薄れてしまいました。

それとボーナスは言うに及ばす、給料日というものがなくなってしまったので、月末なのかどうかというような感覚すら消えてしまいました。

サラリーマンのときのような出張というものもなくなり、毎日同じ部屋で、来て下さるクライアントさんを相手にセッションをする生活は、ほとんど年間通して変化がありません。

そういうわけで、本当にめりはりのない毎日というものを送るようになってしまいました。自分としては、実はそれが意外に心地いいのですが、いろいろな変化を求める人にとってはもしかしたら退屈な人生に感じてしまうかもしれませんね。

毎日を淡々と生きるということ、これは何物にも勝るかけがえのないもののように感じてしまうのは私だけでしょうか。