ルール その2

昨日はルールを守るということは、一般的にいって、自分にとって唯一価値のある幸せになるということには直接関係しないということをお話ししました。

でも勿論社会生活を円滑に、そして快適に過ごすためにもルールを守るということも大切なことではあります。

重要なことは、まず自分が今まで生きてきた中でどんなルールをどれだけ持っていて、それを守ることをどのくらい重要視しているのかということを客観的に見つめてみることです。

そして、その守る重要度の高いと思われるルールを抜き出してみて、そのルールを守ることが自分の幸せとどう関わっているのかを静かに見つめてみて下さい。

何度も言いますが、幸せとは、永続的な心の平安、そして継続的に満たされていると感じる心の状態のことです。

そのことに照らし合わせてみて、守ることが重要だと思っているルール一つひとつを精査することです。

そして、幸せとそのルールを守ることの関連性が乏しい、あるいはないと分かったなら、そのルール自体を手放すか、あるいはそのルールを守る重要度を下げてあげることです。

あともう一つ大切なことは、その時にそのルールを守るために、自分はどんな自己犠牲を払っているのかという点についても、相当にしっかりとチェックする必要があります。

私の経験では、幸せになることと無関係だと思われるルールを守ろうと頑張っているときには、大抵が大きな自己犠牲を払っているということです。

そして概ねその自己犠牲については何となくうやむやにしていたりして、自分の意識には上がらないようにしている場合が多いのです。

これこそがエゴの作戦なのです。これを続けている限り、決して幸せな心の状態を手に入れることはできないのです。

自分はルールに縛られ過ぎてるかもなと感じるのでしたら、何はさておき、できるだけ早くこのルールの見直しの作業を行って下さい。

そして、幸せと直結するような新しいルールを作っていくことです。これは、自分がこのルールに縛られているとは感じないという特徴がありますし、当然のことながら、何の自己犠牲も発生するはずもありません。

ルール

この世界で生活していく上で、守らねばならないルールは沢山あります。生まれてから数年間は家庭のルールがあり、団体生活をするようになると、幼稚園や学校でのルールがあります。

それと同時にこの国の文化の中で生きて行くために必要となるルールもあります。社会に出れば、更に職場のルールや新しい人間関係におけるルールも出てきます。

高校野球の球児たちは坊主頭でなければならないというのもルールですし、赤信号は止まれというのもルールですね。

全く同じ年齢の二人が隣同士で暮らしているとしても、その二人が意識しているルールにも違いがあるし、また守らなければならないと思っている度合いにも大きな違いがあるはずです。

ルールに関して、人と自分が少し違う意識を持っているかもしれないと感じたことは誰にでもあるのではないでしょうか。

ルールを守ることを比較的優先する生き方と、そうでもない生き方とに大雑把に分けるとすると、自分はどちらのグループに属すると思いますか?

例えば、誰もいない深夜の見通しのいい交差点で、歩いていて赤信号にぶつかった時に、左右を見て渡るのか、じっと青になるのを待つのか、どちらを選ぶ傾向にあるでしょうか?

社会的には、決められたルールはきちんと守るという人のほうが、ルーズな人よりもよりいい評価を得ることができますね。

しかし、あまりにも生真面目にルールを守ることを重要視する人というのも、逆に敬遠されてしまうこともあるかもしれません。

ルールは効率的に物事を進める上で役に立つものではありますが、だからといって、それを守ると幸せになれるかというと、そんなことはありませんね。

ですから、ルールを守ることを重んじるのは、幸せを求めているというよりは、自己防衛のためにルールベースの生き方をしているということに気付く必要があると思います。

ルールは必要があって作られたのですが、唯一価値あることである、自分の幸せということと照らして考えてみると、ルールを守らなければならないということに大きな意味を見い出すことができなくなります。

ルールを無視した破天荒な行動を促しているわけでは決してないのですが、ルールはルール、それを死守するために自己犠牲を払うようでは本末転倒になってしまいます。

あくまでも幸せになるためにどう生きるかを見極めることがとても大切です。自分がルールを守ろうとする時、なんだかあまりにもそのルールに縛られているなと感じたら、幸せになろうとする方を優先するように考え直してみることです。

私も世間一般のルールはそこそこ守って生きていますが、ルールが大切と思ったことは一度もありません。最近私の中にある、唯一価値あるルールは、できるだけ自分では判断しないということです。

自分の心の中の愛の部分である聖霊に委ねるということをルール化して、それを習慣にしようと思っています。各人が、自分なりのルールを作って、それを実践することで真の幸せを手に入れられるようになっていって欲しいと思います。

謝罪 その2

「自分を傷つけられるのは自分の思い以外にはない」というコースの教えを再度考えてみたいと思います。

このことは、勿論自分も含めて他の誰に対しても言えることです。ということは、自分の何らかの言動によって相手が傷ついたと思えるようなことが起きたとしても、それは相手の思いによるものだということになりますね。

自分には何の罪もない、自分は悪くない、相手は(きっかけは別としても)相手自身の思いで自らを傷つけたということになります。

そうなると、自分は何をしてもいいということになってきます。礼儀上謝るということはするにしても、(それだって本当はどうでもいいようにも思えてきます)本当に自分は何をしても許されるのでしょうか?

答えはイエスです。何をしても構いません。しかし、一番大切なことである、自分が幸せになれるかということに関してはノーになってしまいます。

罪深いことだから、してはいけないというのではありません。罪はないからです。しかし、愛のない言動をしていて幸せになることは決してありません。

幸せであるということは、自分の心が愛の状態でいるということですから、その自分がすることというのは相手に愛を与えるということだけなのです。

誰にも迷惑をかけずに生きて行くなどというのは現実的にはほぼ不可能なことですね。ですから迷惑をかけたと思ったら誠意を持って謝ることになりますが、本当に大切なことは相手を慈しむ愛の心です。

それがなければ、どんなに丁寧に謝っても意味はありません。それは自分の罪を許してくださいという懇願に過ぎなくなってしまうからです。

自分を本当に幸せにする謝り方とは、謝罪、つまり罪を許してもらおうとして謝るのではなく、相手を慈しむ愛の気持ちで謝ることなのです。

謝罪

私たちは相手に悪いことをしたなと思ったときには謝るという行為をしますね。これはごく自然なことなのですが、でもどうして謝るのでしょうか?謝る理由とは一体どんなことがあるのでしょうか。

そんなことは考えるまでもなく、人と人が関係をもって生活していくうえでの最低限度のルール、あるいはマナーだと言えば全くその通りです。ですから、そのことに100%異論はないのですが、なぜ謝りたくなるのかということについて考えてみたいのです。

謝罪する心とは、相手に何らかの不利益や苦痛などを与えてしまったと感じた場合に生じるわけです。自分の何気ない言葉が相手の心を傷つけてしまったと思ったら謝りたくなります。

謝るとは自分が何らかの加害者の立場にあると思われるような言動をしてしまったときに、そこに罪があるとして、謝罪、つまりその罪を謝ることで相手に許してもらいたいという意思表示であるのです。

もしも、その罪を自分自身で許すことができたとしたら、ルールやマナーを置いておくとして、本当は相手に謝罪する必要はなくなるのかもしれません。

人は自分で自分の罪を許すことが難しいので、被害者であると見える相手に許してもらおうと企てるのです。ごめんなさいと言って、いいよ、とか大丈夫だよと言われたら救われたような気持ちになるのはそのためです。

逆にごめんなさいと謝っても、相手に許してもらえてないと感じたときには、自分の罪をずっと持ち続けなければならなくなるために、苦しくなってしまうのです。それが罪悪感ですね。

立場を変えて、自分が相手から何らかの不利益や苦痛を与えられたと感じた場合には、相手からの謝罪の言葉がなければ通常怒りを感じるはずですね。

それは、相手には罪があるというのにそれを相手が認めてないと思うことから発する怒りなわけです。しかし、コースの教えにあるように、「自分を傷つけられるのは自分の思い以外にはない。」ということがはっきり分かるのであれば、相手の謝罪を求める気持ちにはならないはずです。

相手には罪がないということが分かるからです。だからその場合には怒りを感じることもなくなり平安な心の状態でいられることになります。

自分が謝罪しなければと感じる時にも、そのコースの教えを本当に理解していれば、自分には罪がないと分かるので、罪悪感を持つこともなくなり、礼儀として謝罪をするだけで、心は晴れやかになるのです。

「自分を傷つけられるのは自分の思い以外にはない。」ということが心の底から分かったら、この世界は激変しますね。なぜなら、自分の心から罪というものが消えてしまうのですから。

そして罪がなくなると、自分と人との間の距離がなくなって一つになっていくのです。それがコースでいう一体化です。それこそが、永遠の心の平安を意味するのです。

ハイアーマインド

ハイアーマインドとは、直訳すれば高位の心ということになります。自分の心の中にあって神聖でより高次の部分のことを指します。人によってはハイアーセルフとか聖霊などと呼ぶ場合もあります。

「奇跡のコース」では、聖霊はハイアーマインドに住むという表現をしています。心の中のこの部分は真実の愛から出来ていると思って下さい。愛とは「すべては一つ」という想念です。

したがって、このハイアーマインドあるいはハイアーマインドに住む聖霊は、すべてと一体であると言うことができます。私のハイアーマインドに住む聖霊は、あなたのハイアーマインドに住む聖霊と一つのものだということです。

一方、ロアーマインドと呼ばれる、つまり低位の心と表現される心の部分もあって、そこにはエゴが住んでいます。エゴは聖霊からすると、単なる幻想に過ぎませんが。

そのようにして、私たちの心はロアーマインドとハイアーマインドに分裂しているということです。そして、残念なことに、ずっと長い間ほとんどすべての人がロアーマインドであるエゴを選択して生活しています。

あまりにもエゴを選択することに慣れ親しんでしまったために、ハイアーマインドの存在を抑圧して忘れてしまったくらいです。

私たちのすべての心の葛藤はここから来ているのです。簡単に言えば、本当の自分というものを見失って、それとは似ても似つかないようなエゴを自分だと信じてしまっているということです。

エゴは常に我々にささやきかけています。自分に任せておけば、幸せになれるよ!と。でも真実の自分を隠しておいて、幸せになれるはずはありません。

エゴに騙されることなく、本当の自分は決してエゴではないと気付くことです。そして、ハイアーマインドの方を思い出す必要があります。

そのためには、できるだけ自分が知っている限りの愛の体験を自分にさせてあげるようにすることです。その繰り返しによって、少しずつ自分が本来の自分である聖霊に近づいていくことができるのです。

何もしない

みなさんは何もしないでいるという時間というのは、どのくらいあるでしょうか?朝起きてから夜寝るまでの間、とても忙しく活動している人もいるし、比較的のんびりとした時間を過ごしている人もいるでしょうね。

自分の場合、何も用のない時間というのが実は沢山あるのですが、それでも何かしらしています。何もしないで過ごすということは多分ほとんどないのではないかと思います。

たとえ、じ~っとして端から見たら何もしてないように見えたとしても、心の中でいろいろなことを思いめぐらしていたりするはずです。

なんでかなあと時々思うことがあるのですが、でもやっぱり気がつくと身体か頭を使って何かをしています。

何もすることが見つからなくなると、わざわざ出かける用事を作ってみたり、大して飲みたくもないのに冷蔵庫の水を飲みに台所に行ったりします。

何もすることがない状態、何も考える必要のない状態というのを何かすごく怖がってでもいるのではないかと思うくらい、無意識的に避けているのがわかります。

何かしら、強迫観念のようなものがあるのかもしれません。何かをしていないと不安を感じたり、何もしないということが生産的でなかったり、創造的でないというような無価値な感覚と繋がるのかもしれないですね。

ところが、最近ゆっくりとする時間が増えたということもあるのかもしれませんが、この何もしないでいられる時間というのが、少し心地のいいものだと思えるようになってきました。

何もしなくても、こうして穏やかな気持ちで過ごしていられるということに気がついて、そのことに感謝するような気持ちになることがあります。

多忙な時期に少し空いた自由時間をありがたく思うのとは、全く別の感覚です。エゴを静止させて、深く静かな心持でいることがとてもありがたいような嬉しいような、そんな感じがします。

自分の中のどっしりとした愛の部分と繋がるような平安な心でいられると、感謝とすべてが完璧なんだなあと思える瞬間があるように思います。

何もしないでいるということの大切さを実感してみませんか?

七夕

7月7日は七夕ですね。小学生の時に、学校でたんざくにお願いごとを書いて飾った記憶があります。でもきっと大したお願いはしてないはずです。

なぜなら、将来何になりたいかと聞かれたら、いつも早く隠居したいと言っていた子供だったからです。なかなか未来が危ぶまれるような怪しい子供でしたね。

もう一つ七夕の日の記憶があるのですが、夜食事を終えてから、一人で家の外に出て空を見上げたときにくっきりと天の川が見えたのを覚えています。

その時に、ああこれ以前にも見たことがあったなあとうっすらとどこかで思っていたことも覚えています。あの当時は東京でも空がきれいだったのでしょうね。

天の川というのは、この地球が所属する太陽系が含まれる銀河系を内側から見た景色ですね。銀河系の中には太陽と同じような恒星と呼ばれる自分で輝いている星が一千億個もあると言われています。

かなり膨大な数ですね。そして、この宇宙にはそういった銀河系のようなものがこれまた一千億個もあるらしいですから、ここまでくるとちょっとスケールの感覚が曖昧になってしまいます。

そうした宇宙も今では一つではないという説とかも出てきてたりして、本当に宇宙はあり得ないくらいに巨大で摩訶不思議なものです。

それに比べて、この自分の何と小さなことか。宇宙の広さからしたら自分の小ささは、地球全体にある海水に対して、そこに含まれるたった一滴の水よりもずっと小さいと言わざるを得ません。

それでも実はこの広大な宇宙はすべて自分の内側にある、というのが「奇跡のコース」が言っていることです。

つまり、毎度おなじみの投影ですね。自分の周りには自分以外は何もない、すべてが自分の内面を投影したものだということです。

一年に一度、この七夕の日にだけ会うことが出来る織姫と彦星も、勿論自分の投影であるということです。何だか夢の中で言われているような幻想的な話ですが、私たちが認識しているこの宇宙と言う現実も、相当に幻想的だと思いませんか?

この宇宙が存在するという不思議さのことを考えたら、それがすべて自分の投影であるということだって、その不思議さの程度は同じようなものだと思ってしまいます。

お笑い

過去に会社員だった頃、海外に比較的長期の出張をしていることが何度かあったのですが、日本にいる生活より広いリビングのあるアパートに一人で生活するのは結構快適でしたが、1ヶ月くらい経ってくると何かが足りないという感じがしてくるのです。

勿論家族と離れているというのもあるのですが、それ以外でも欠乏感がやってきました。それは、日本のお笑いだったのです。テレビでお笑い番組を見たいな~と切実に思うようになるのです。

言葉が不自由だからというのもあるのですが、異国でお笑い番組を見てもちっとも面白くないのです。何か、作られた笑いという感じがして、引いてしまうのです。

最近の生活では、あまりテレビを観ることがなくなってきていますが、それでも特定のお笑い番組だけは録画して食事の時などに観ています。

それも力を込めて作り上げた、よく出来たネタという印象のものより、なにげない普段の会話や、なんてことはないような内容の番組の方がかえって面白い感じがします。

深夜番組で徐々に視聴率がアップして、時間帯が少しずつ誰でも見れる時間になって、しまいにはゴールデンと言われる時間帯に出世する番組もありますね。

ところが、往々にしてそういう番組を見ていると、なんだか深夜に放送していた頃のほうが面白かったりするのです。

それはやはり、深夜に見る人の層が限られるということで、制作する側の自由度が高いということがあげられるのではないかと思います。

ゴールデンの時間帯であれば、万人受けするような番組作りがどうしても必要になってくるから、それにはそれなりの工夫などが求められるのでしょうね。

従って、ここ数年間くらいは深夜にやっているお笑い番組というのが個人的にはお勧めの場合が多いです。

この気張らないで自然体で表現するということの魅力というのは、何もテレビ番組だけではなくて、人そのものにも言えることなのではないでしょうか?

それはルールが少なく、その分自由度が高く、防衛的でない、つまり無防備な感じというのが、人の気持ちを柔らかくしてくれるのだと思います。

そんなニュアンスのお笑い番組も、人も大好きです。できるなら、自分もそういった肩の張らないフワッとした人物になりたいものです。

傷つけること

私たちは、怒りや憎悪の感情があるときには、人を傷つけたいという衝動を持つこともあるし、その反対に決して人を傷つけたくないという思いも持っていますね。

そういう二面性が人の心にはあるということです。通常心が健康な状態では、自分が傷つけられるのがいやなのと同じで、人を傷つけたくはないはずです。

しかし、悪気があってもなくても、また自覚があってもなくても、誰でも必ず人を傷つけてしまうという経験をします。それはどんなに細心の注意を払って生活していても、必ず起きることです。

相手を傷つけてしまった自分は加害者としての立場に立たされることになりますので、相手に謝るわけです。ごめんなさい、赦して下さいね、と。これは、傷つけてしまった自分は罪があると感じるため、それを相手に赦してもらうことで少しでも楽になろうとする行為とも言えます。

自分で自分を充分に赦すことができるのであれば、一度の謝罪だけで晴れ晴れとした気持ちに戻すこともできます。

しかし、それがうまくできないとなると、その罪による罪悪感を持ち続けることになってしまうため、本人はとても苦しい思いをすることになってしまいます。

結局、それがとても怖いので細心の注意を払って人を傷つけないようにするわけです。相手への思いやりというのも勿論ありますが、それより自分の罪悪感への恐れの方が大きいのです。

そのために、ともすると私たちは自己表現を抑圧して、相手の気持ちや都合ばかり優先してしまい、罪悪感を免れたとしても今度は自己犠牲のえじきになってしまうのです。

自己犠牲を繰り返していくと、怒りを蓄積していってしまうために、今度は相手を傷つけてやりたいという攻撃的な気持ちになってしまうのです。

「奇跡のコース」のワークブックの中に、「自分を傷つけられるのは自分の思い以外の何ものでもない」という言葉があります。つまり、言い換えると人は自分以外の誰かを傷つけることなどできないのだと言っているのです。

もしこれが本当だとしたら、相手を傷つけることを怖れて自己犠牲を繰り返すこともなくなるはずですね。傷つけてしまったと思っても、それは錯覚であって罪悪感を持つ必要もないとうことになります。

なぜそんなことが言えるかというと、自分が誰かに傷つけられたと感じた時のことを考えてみればいいのです。相手にされたどんなことも、それは結果であって、その原因となるものは、自分の心の中にあるのです。

このことは投影の説明の中で繰り返しお伝えしてきました。したがって、相手から傷つけられるように見えるものは、結局自分で自分を傷つけようとしている想念なのだということになります。

自分は決して相手を傷つけることはできない、できると思っていることほど傲慢なことはないと分かることです。そうすることで、自分を罪悪感からも、自己犠牲からも解放することができるのです。

依存について

幼い子供はみんな親や周りの大人に依存して成長していきます。そして大人になるに連れて依存ばかりしていた毎日から徐々に自立の道を進んで行くことになります。

この世界では、依存は幼稚な精神状態であり、自立が成熟した心だと見なされていますね。そして精神的な自立をしていない依存者は、見下されてしまったり正当な扱いを受けなくなってしまったりします。

なぜ、自立は高い評価をもらえて、依存はダメなのでしょうか?私たちの記憶の中に、何でも自分でできる親や大人はすごいな、それに比べて人にやってもらわねば何もできない自分は情けないな、という共通の自己嫌悪があるのです。

だから依存は自己嫌悪のイメージを想起させるものなのでしょう。しかし、ここで本当に価値のあるものは何かをいつものように思い出すと、それは幸せであることです。幸せとは永続的な平安な心の状態です。

自分の心が依存中心であろうが、自立してようが、本来どうでもいいわけです。価値は幸せだけですから。ところが、依存的な心というのは、その依存対象が人だったり、お金だったり、環境だったりするわけで、そういったものは例外なく変化してしまうものばかりなのです。

変化してしまうものに依存するからこそ、幸せの定義である永続的な平安からは程遠くなってしまうのです。そこにこそ、あるいはそこにだけ依存の状態の問題点があります。

ということは、依存対象が永遠のものであれば幸せになれるという可能性が見えてきます。かえって、自立している人よりも圧倒的に幸福になることができそうです。

なぜなら、自立してる人というのは人間である自分に依存して生きている人だからです。自分とは、これこそ変化してしまうものに過ぎません。

まとめると、依存そのものがいいとか悪いとか価値がないとかいうことではなくて、依存する対象が通常は変化してしまうものであるために、幸せにはなれないということなのです。

もしも決して変化しないナニモノかに依存することができたら、それは完全なる永続的な平安を手に入れることができそうです。不変であるものとは、この世のものであるはずがありません。

それは、神や聖霊などといった人知を超えたものということになります。だからといって、一般的な宗教を思い浮かべる必要はありません。心の中での話しですから。

通常の意味での依存も、自立もどちらも真の幸せには手が届かないということです。永遠なるものへの依存、これだけが本当の幸福、真に価値のあるものだということに気づく必要があると思います。