「ただ在る」を感じる

年の暮れが押し迫ってきた感じがしますが、本当にそうだと思う人もいるでしょうし、そんなこと関係ないと思っている人もいるでしょうね。

私たちは、忙しい毎日を送っている間に、ともすると大切なあの感覚を忘れてしまいがちです。あの感覚とは、思考から離れたときに感じるあの「在る」という感覚です。

思考を働かせずに、ただただ見るのです。何を見るかというと、ただ在ることを見るのです。したがって、「見る」といっても視覚を意味するのではありません。

肉体の目を使って見るということではないということです。知覚を使えば、それは思考と連動してしまうからです。でも思考を止める必要はありません。

あるがままをそのままに感じるためには、知覚を使わないでいる必要があります。ただ在ることを感じるということです。

なぜそのことを忙しさにかまけて忘れてしまうのかというと、物語の中に巻き込まれて行ってしまうからです。

ただ在るというのは、その忙しい物語が続いていく土台のようなものです。それは、どんな物語が起ころうと、ただ在り続けてくれています。

「ただ在る」は、過去でも未来でもありません。それはこの瞬間にこそ在るものであって、どれほど自分が忙しくても、どんなに何かに翻弄されていようとずっと在るのです。

誰でもが知っているこの感覚。もしも、自分はそんな感覚は知らないと言うなら、自分を騙すのもいい加減にした方がいいよと言いたくなります。

だって知らないはずがないじゃないですか。それこそが本当の自分なのですから。自分のことを知らないなんて、ありえないでしょう。

本当に見つめると消えてしまう

今月に入って、急激に冷え込んで来ましたね。寒いのは苦手なのですが、冬のキーンと冷えた夜空は、空気が澄んでいて星見には最適なのです。

星はシリウスのようにとても明るいものから、肉眼でやっと認識できる程度の暗い星までいろいろな明るさがあって、等級という単位で表されているのはご存知かと思います。

自分の視力で、ようやく見えるような明るさの星があるとき、その星にピントを合わせて視野の中心で見ようとすると、かえって見えなくなってしまうという経験をされたことがあるはずです。

逆に少しだけその星から視点をずらしてやると、見えるようになるのです。この現象は、人間の目の特徴によるもので、ちゃんとした理由があるのです。

簡単に言ってしまうと、視野中心から離れた周辺視野では、視野の中心に比べて細かい認識をする必要がなく、視野中心とは別の「少ない光を感知しやすい」という特性を持った細胞が集まっているのです。

その結果、視野中心よりも周辺視野の方がより暗い光を感知することができるわけです。凝視しようとすればするほど、暗いものは見えなくなるので、ちょっといやな感覚ですね。

この話しとよく似た現象があるのですが、それは都合の悪いことから目を背ければ背けるほど、それは苦しみとなって迫ってくるということです。

そして逆に、目を背けることなく真正面からしっかり見ることができると、それは不思議なことに消えてしまうのです。

台風の中心からはずれたところはひどい暴風雨なのに、台風の目と呼ばれる中心は無風状態だったりするのとも、どこか似ているかもしれません。

いずれにせよ、感情というものは、本当にそれと一つになってしまうことができたら、そこには何もなかったということを知る体験をすることになるのです。

幻想は、真正面から見てあげると、無に帰するということと同じことなのかもしれません。

恐れが減れば愛が顕在化する

住み慣れた街というのは、何となく愛着を感じて去り難いものなのかもしれませんね。急に思い立って、違う事務所を探そうと思ったときにも、今のセッションルームのある吉祥寺しか頭に浮かびませんでした。

12年前のちょうど今頃から年末にかけて、セッションルームを探していたときに、気に入ったのですが空きがなくて諦めた物件があったのです。

そのことを思い出して、今回そのマンションを探してもらったら、運良く空く予定になっている部屋があるとのことで、他の物件も見たのですが結局すぐにそれに決めてしまいました。

話しを元に戻しますが、慣れるということは、飽きるということもあるのと同時に、必ず馴染んできて好きになるということもあるのです。

それは、いつも見慣れて深く知っていくうちに、恐れが取れていくからなのだと思うのです。知らないものは、基本的に危険であると感じる本能があるのです。

このことは、どんなものにも当てはまります。見合い結婚で、たいして相手を知らないところからスタートしても、毎日一緒に生活していれば相手のことを深く知るようになりますね。

そうすると、恐れが薄れていくために、愛が芽生えるのです。それは芽生えるというよりは、本当は元々あった愛が姿を顕わすようになるだけなのです。

私の奥様は、特別クルマの運転が下手なわけでは決してないのですが、慣れないうちはあまり楽しく運転ができないようなのです。

つまり、知らないことに対する恐れがそこにあるからなのですね。けれども、そのクルマに慣れるにしたがって、自分の手足のように運転することができるようになると、こんなにいいクルマはないと言い出します。

それも同じことです。恐れが少なくなっていくことで、隠されていた元々の愛が顕在化するということなのですね。

人の評価を気にする心

誰しも他人からどのように思われているのかということには、少なからず関心を持っているものですね。

自分のことは自分が一番よく分かっていると思っている人であっても、周囲からの評価が気にならないという人はいないはずです。

自分がどう見られているのかが気になるレベルというのは、案外自分を否定している度合いに比例するものかもしれません。

つまり、自分のことをまあまあいいんじゃないの、と思える人はそれほど人の評価を気にしないでいられるということです。

逆に、自己評価が低い場合には、人の目や意見がものすごく気になり、ちょっとした否定的な言葉にもひどく傷ついてしまうということです。

後者の場合で、かつ有名人であったりすると、これはもう大変な事態になる可能性があります。なぜなら、一般人よりも何千倍も人の目に晒されているからです。

そうした場合には、評価が気になるあまりに自分からそういう情報を探しに行ったりしてしまうこともあるはずです。放っておくことができなくなってしまうのです。

それはまるで、ゴキブリが超苦手な人が、突然部屋の中にソレを発見して、夜通しにらみ合いをしている姿とダブります。

目を離したら、どうなってしまうのかが恐ろしくて、放っておくことなど絶対できないということなのでしょうね。気持ちは分かります。

ゴキ君のことはともかくとして、人の評価が怖くてビクビクしていると、ワクワクする冒険人生を生きることができなくなってしまいます。

解決方法は、幼い頃の自分がどれだけ自分のことを否定しているのかを、徹底的に見てあげることです。そして、十分にその感覚を味わうことです。

シンプルな事務所で心機一転

今年いっぱいで、この仕事にピリオドを打とうと思っていたのが、どうした心のはずみなのか、また場所を変えて続けることになってしまいました。

これも、成り行きというか自然の流れなのかもしれません。今までと違うのは、セラピールームが事務所(オフィス)仕様の空間となることです。

部屋の面積も狭いし、シャワーもありません。居住空間として使うには無理がある、あくまでも仕事場という仕様のスペースなのです。

それがある意味狙いでもあったのですが、これなら今までのように「自分の城」的な要素がないので、きちんと自宅から通勤することになります。

ついでに様々なことをできるだけシンプルにしたいと思っています。落ち着いたら、固定電話を解約しようと思っています。

クライアントさんは、電話でのご予約ができなくなってしまいますが、その代わりセッション中に他の人からの電話に割り込まれることがなくなります。

原則的には、メールでのご予約にしていただき、ご予約後どうしても必要であれば私のケータイ番号のみ、お知らせするという方式にしたいと思っています。

事務所のスペースが狭いので、パソコンも使わずに ipad とスマホだけでご予約の管理その他をできるようにするつもりです。

それと、今までずっと続けてきたお茶のサービスも、今度の移転を機に終わりにしようかなと。飲み物は必要に応じて、お持ちいただくということにしようと思います。

できる限りシンプルにして、なるべく低料金を維持しつつ、濃厚なセッションができたらいいなと思っています。

自分なんていない方がいいという罪悪感 その2

昨日の続きです。

親の否定的な気持ちを敏感に感じ取ってしまう幼い子は、それが自分のせいに違いないと勘違いしてしまい、それが自分なんかいない方がいいという罪悪感となってしまうことになるというお話しをしました。

その場合、親の否定的な感情が、それを痛いほど感じている幼子自身に向けられているとしたら、それほど耐えられないことはありません。

たとえば、心に余裕のない親が、子供をしっかりとしたどこに出しても恥ずかしくない人物に育てなければならないと思うあまりに、否定的な言葉や態度で叱ってしまうということがよくあります。

親に悪気は勿論ないのですが、必死になるあまりに、親の思うとおりにはできない子供の行動修正に力が入ってしまい、つい受容することを忘れてしまうのです。

こうなると、子供は親が自分のため思って叱ってくれているとは感じません。自分の存在がひどくみすぼらしくて、惨めに思えてくるのもやむを得ないことです。

また、とても心配性な親が必要以上に子供のことを心配ばかりしていると、それが裏目に出ることになってしまいます。

子供は、親を心配させる情けない奴なのだと、自分のことを錯覚してしまうのです。親を苦しめる自分は駄目な存在だと理不尽にも信じてしまうのです。

どちらの場合も、本当によくあるケースです。そして、子供は理由のはっきりしない、自分の存在に対する否定的な思いというものを心の奥底に沈殿させてしまうのです。

これが原因となって、自分の存在価値を実感することができないまま、大人へと成長していってしまうのです。なぜなら、成長していく自分は、そうした惨めな幼い自分を否定し続けているからです。

もしも、自分は罪悪感を強く持っているとの自覚があるのでしたら、こうしたことをよくよく思い返してみることです。

自分で自分の存在を否定して、惨めな思いを持ったまま隠されてしまっている小さな子供の自分をしっかり見てあげることです。その子を自分自身として受け止めることができれば、自然と無価値感は薄れてくるはずです。

自分なんていない方がいいという罪悪感

私たち人間は、他の動物と同じように、相手の気持ちを感じ取るという生まれながらの能力を持っています。

ただ単に感じてしまうというだけでなく、相手を慮(おもんばか)るということもできる能力を備えているのです。

それは本当にすばらしいことなのですが、それが仇になってしまうという悲しい事実もあるのです。それは、もうほんの2,3歳の頃から始まっていくのです。

幼い子供は、どんなときでも親の気持ちをいつも感じつつ生きているのです。そして、上で書いたように、彼らの心の様子を見守ってさえいるのです。

もしもなんらかの理由で、お母さんやお父さんの心に穏やかさ以外の否定的な感情を感じ取ってしまうと、それをまるで自分の感情でもあるかのように見てしまうのです。

それは大変な傷になってしまうかもしれません。なにしろ、自分の心の中にはそうしたものは元々見当たらなかったのですから。

そして、もしかしたら相手の心に否定的なものがあるのは、自分のせいなのでないかと考えるようになってしまうのです。

親の気持ちが平安で落ち着いているときに、そうした思い違いを払拭してくれるなら問題ないのですが、それが十分でないうちにまた負の感情を感じてしまうと、思い込みが確信になってしまいます。

そうしたら、何で自分なんかここに生まれてしまったのだろう、自分さえ生まれてこなければ親はいやな思いもしないで済んだのにと信じ込むのです。

こうして、自分という存在に関する根深い罪悪感が出来上がるのです。これが、人生がうまくいかないと感じる根本的な原因なのです。

つづく

防衛システムを緩める方法

私たちが日夜使い続けているエゴの防衛システムは、自分の命を守ることを唯一の目的としているのです。そのことを忘れてはなりません。

つまり、死の恐怖から逃れるための防衛システムなのです。なぜこんな分かりきったことを、あらためて確認する必要があるのかというお話しをします。

私たちは通常、大きな怪我や病気などによってしか、死ぬことはありませんね。勿論一番穏やかな老衰による死もありますが。

つまり何が言いたいのかというと、日々の生活の多くの場面において、自分の死を意識しなければならないような事態というのは、そうそう来るものではないということです。

このことは、この時代の日本という国に生まれたことを本当に感謝しなければならないと思います。地球上には、今この瞬間にも常に死と隣り合わせの生活を余儀なくさせられている人々が沢山いるからです。

私たちは幸運なのです。自分の死は、遠いところにまだあると信じて生きているのです。けれども、それだったらなぜ自分の命を守るための防衛システムを使い続けなければならないのでしょうか?

たとえば、幼いころから自己表現を抑える癖ができてしまった人がいるとします。そういう人に、自己表現、感情表現をして下さいとお願いしても、簡単には聞き入れてくれません。

本人としても、なぜそれほどまでに頑なに自己表現を抑えてしまうのか、分からないのです。そこには、隠されたカラクリがあるのです。

幼いころに作り上げた自己表現を抑えるという行動は、実はその当時の自分の命を守るためのエゴの防衛システムだったのです。

命がけの行動というのは、そう簡単には解除することはできなくて当然です。もしかしたら、自分の言いたいことをいうと、周りの大人に否定されて、嫌われて、見捨てられて、生きていけないという恐怖を感じたのかもしれません。

そうやって、死の恐怖から自分を守るための防衛システムができあがるのです。問題は、幼い自分のために作った防衛システムを、大人になっても使い続けてしまっているということです。

そのことに気づくことができれば、そこからゆっくりとその防衛システムを使わないでいるという選択肢があることに気づくはずです。

そうすれば、決して死ぬようなことはないことに対してまでも、エゴの防衛システムを稼動させるようなことはなくなるはずなのです。

突然の決意

昨日は、自分の58回目の誕生日でした。もう、このクラスになると、何歳になろうがあまりうろたえることもありませんね。

姿かたちは確かに、その年齢にマッチしてきているとの自覚もあるのですが、中身はまったくもって年齢というものがないようです。

強いて言えば、そこそこの経験をしてきた若者(ずうずうしいにもほどがある!)といった感覚なのですから、仕方ありません。

一体どうやったら、実年齢に適した精神状態になれるのか、一向に分からないのです。きっと、このままの状態で死んでいくのだろうと思っています。

ところで、今年を最後にこの仕事から撤退するという計画でいたし、確かに今月の19日にこのセッションルームを引き払うことになったのです。

けれども、そのことが確定してしまったら、自分でもびっくりしたのですが、場所を変えて細々とセッションを続けてもいいのかなという気持ちがやってきたのです。

それも突然でした。経費をうんと削減すれば、低料金を維持したままセラピーをやっていくことができるという思いが、やってきたのですね。

きっと、この部屋を維持していくということがどこかで重荷になってしまっていたのでしょう。それが、開放されたおかげでそういう気持ちになったのだと思います。

それで、早くも昨日木枯らしが吹く中、不動産屋さんに出向いて、目ぼしい物件を決めてきてしまいました。まだ契約はしていないのですが、多分この先もセラピーをやっていくことになりそうです。

詳しいことが決まりましたら、このブログでもお伝えしますし、みなさんへダイレクトメールを送信させていただくつもりです。

楽を求めるなら満たされない その2

昨日の続きというか、補足的なことを書こうと思います。

楽である状態と、楽である状態を求めることとは根本的に違うというところから始めます。楽であることは何も問題ないのですが、それを求めていることが問題なのです。

楽の反対は苦であるとして、私たちは苦しみから逃れようとするようにプログラミングされているのですが、それは結局のところ楽を求めるということと同じことなのです。

苦しみという不都合なことから逃れようとすると、うまくいくことがあったとしても、それは一過性のものであるということに気づかなければなりません。

長い目でみれば、残念ながら苦しみは過去から必ず追いかけてくるのです。決して逃れられないことになっています。

なぜそうなるかというと、何かから逃げるというのは、本当は見えないところで自分自身がそれを握り締めているからなのです。

苦しみが追ってくるのではなくて、自分が過去から無意識に引っ張ってきてしまうのです。どれだけ上手に逃げ回ったとしても、逃げおおせないのはそういう理由なのです。

それはまるで影のようなものです。自分が気づかずに引きずっている影を立ち止まって見ることです。しっかり見ることができれば、それは怖いものではなかったと悟ります。

そうすれば、私たちは長年従わざるを得なかったプログラミングから少しずつ開放されることになるのです。このプログラミングを別の言葉で言えば、自己防衛ということになります。

自己防衛が緩んで、影を恐れなくなれば、楽を求める必要がなくなり、おのずと苦しみが消えていくということになるのです。