どんな変化でも喜んで迎えること

以前、毎日のようにスポーツクラブで水泳をしていたことがあったのですが、実を言えば決まった距離を泳いだ後に入るサウナが楽しみでした。

100℃のサウナには短時間入っているだけで、全身に玉のような汗が吹き出てきます。じっと我慢したあとは、水風呂に飛び込むわけですが、それが最大の快感なのです。

しばらく水に浸かって、充分に身体が冷えたら、またサウナに入るのですが、その冷たさから熱さへの変化がまたたまらなく気持ちがいいのです。

私たちの身体にとっては、猛烈な暑さも凍えるような冷たさも不快でしかないはずなのに、その両極をチェンジする瞬間に快感がやってきます。

このことは、人生のあらゆる場面において、大抵の人は経験していることです。私たちはいつも、変化を求めてやまないのです。

ハワイのように常夏もいいかもしれませんが、四季の変化を感じるほうが深い味わいがあると知っているのは日本人ばかりではないはずです。

生まれながらに大金持ちであるよりも、貧乏から大金を儲けることができた時のほうが何十倍も喜びを得ることができるはずです。

どれほどのものを手に入れられたとしても、その状態が長く続くと更なるものを手に入れたくなってしまうのも、変化を求めるからです。

けれども、変化の少ない安定した人生を望んでいる人もいるはずですね。それは、手にしたものを失うのをただ恐れているだけです。

もしも、そうした恐怖が小さくなれば、必ず人は変化のほうに魅力を感じるはずなのです。それが私たち人間の性なのだと思うのです。

変化を求めること自体には、何の問題もありません。ところが、都合の悪い状態から都合のいい状態への変化ばかりを望んでしまうところに、苦しみの根っこがあるのです。

私たちが求めようが求めずにいようが、変化は必ずやってきます。どちらの方向の変化であろうと、その変化を素直に喜ぶことができたら、人生はまったく違ったものに見えてくるのではないでしょうか。

覚悟はできているだろうか?

覚醒するということは、確かにこの自分にとっては何のメリットもあったものではありません。なぜなら、覚醒するとは自分の意識から自分自身を追い出すことだからです。

賢者とか覚者と言われる人たちにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなく、彼らは彼ら自身を追い出すことに成功したということです。

したがって、この世界に覚醒「した人」は一人もいないということになりますね。人は誰も覚醒できないのです。覚醒するためには、本人が一番邪魔だからです。

最近こうしたことが、身に沁みて分かるようになってきました。これは、原理的には不可能なことだということです。

例えて言えば、自分が人間の形をした絵だとして、その絵を消しゴムで消していくことを想像してみればいいのです。

右手に持った消しゴムで、自分の足や胴体、頭などを次々と消していったとしても、最後にはその消しゴムをつまんでいる右手そのものを消すことができないわけです。

そこだけは、絶対に自分で消すことは不可能ですね。だから、その最後の部分だけは、神がそっとその消しゴムを取り上げて、残った右手の部分さえも消してくれるということです。

奇跡のコースには、そう書いてあります。最後の最後には、神が天国へと引き上げて下さると。自分の力では無理だからですね。

さて、そこまで分かったところで、自分は本当に覚醒などしたいのでしょうか?本当の自己からこの自分を追い出すことが、それほど魅力的なことなのだろうか?

真の自己がそれ自体に目覚めるためには、この私は不要なのです。邪魔するべきではありません。本当の自分のために、ニセモノの自分は席を譲ろうではありませんか。

覚悟を決めることです。潔く、長い間奪っていた席をホンモノの主に返却するときが近づいてきたのかもしれません。

生きるとは一瞬の出来事

外を歩いていて、興味をそそられるというのか、目に留まるのは幼い子供と犬などの動物です。その両者がいつも印象に残るのです。

彼らの特徴は、社会生活を営んでいないということですね。その可愛らしい瞳を覗くと、彼らには自分を守ろうとする意志がないように感じます。

動物に無邪気という言葉を使うのは、変かもしれませんが、いずれにしても犬も幼子も自分が誰かということに気づいていません。

私たちは、彼らに対して、まだ気づいていないのだというように見てしまいます。けれども、本当はそうではありません。

まだ気づいていないのではなく、余計な妄想を抱いていないということです。動物は死ぬまでそんな妄想を抱くことはありませんが、人間だけが3歳くらいまでに「私」を作るようになります。

一旦「私」がいるという妄想ができてしまうと、少しずつその「私」を自分の力で守らねばならないと信じるようになっていくのです。

その結果、「私」の次にもう一つ妄想をでっちあげることになります。それが「社会」です。「私」を守るためには、その「社会」に順応する必要があると思い込むのです。

そうしないと、「私」を守ることができないのですが、それはこの「私」にとって過酷な人生の始まりを意味します。

なぜなら、社会へ適応するためには素の自分を犠牲にしなければならないからです。人生の初めに「私」を作ってからまだ間がない頃は、そのことでひどく辛い思いをするので、多くの若者は絶望を感じます。

そこからなんとか、自分なりの解決法を見出して生きていける人は、死ぬまで「私」と共にいる人生に疑問すら感じないかもしれません。

けれども、どうにもこうにも何かが変だと感じ続ける人は、「私」が本当はナニモノなのだろうということを無視できずに生きることになるのです。

そしてその中のある人たちは、思考では到達することのできない真理を知ろうと頑張ることになります。

「私」として生きるのも、「私」を疑問視して生きるのも、そして「私」はいないと気づいて生きるのも、どれもきっと一瞬の出来事であることに違いはないのでしょうね。

思考には何のパワーもない

最近天気のいい日の朝に、オフィスの近くにある井の頭公園をぶらっと散歩しているのですが、その時にふと感じたことがありました。

それは、今自分は、自分の力で歩いているように思うけれど、実は葉っぱが風にヒラヒラ舞ったり、石ころが転がるのと全く同じなのだと。

すべてはただ起きているということです。このことは、このブログでも何度となく繰り返しお話ししていることですね。

けれども、私たちは自分のことを主体者だと固く信じこんでいて、決してそれを忘れることができないのです。この地球において、人間は特別な存在だと言いたいのです。

人間にしても他の動物にしても、主体的に、あるいは自律的に生きて活動していると思い込んでしまっているのです。

残念ながら、私が歩くとか、あの人が座るとか、そうしたことは単なる思考による解説だということに気づかねばなりません。

我々の思考は、とにかく起きていることに意味づけをして、物事を主体と客体に分別せずにはいられないのです。

ですが、それはどこまでいってもただ起きていることを後付けで都合のいいように解説しているに過ぎないのです。

「私は歩く」という思考に歩くことを起こさせるパワーなどありません。これほど自明なことはないのではないでしょうか?

それは、まさしく葉っぱや石ころに自律的に動くようなパワーなどないのと同じであり、思考が「私」と呼んでいる身体にも、それを歩かせるようなコントロール能力などありません。

このことが本当に理解できると、私たちには本来これっぽっちもコントロールする力などないということが分かります。

あらゆる物事は、ただ起きているのです。それは思考では認識することができない、不可知な力によって、起こされているのです。

ほんの少しでもコントロールする力が自分にはあると信じ込むと、人は大変な重荷を背負い込むことになるのです。

重責や罪悪感は、こうしたコントロールする力を信じることからやってくるのですから。思考には何のパワーもないのです。

その代わりに、パワーの源泉に深い信頼を持つことができたら、人は救われるのです。源泉に100%明け渡すことこそ、無意味な苦悩から開放されて真の自由を知ることができるのです。

思考によって真理を示そうとすれば、必ず矛盾が生ずる

自己探求の過程において、自分の信じてきた信念体系を脇に置きつつ、真理に近づいていけばいくほど、必ずさまざまな矛盾に出会うことになってしまいます。

それはなぜかといえば、探求の途中で思考に基づく理性を使おうとしてしまうからです。思考の枠の中で真理を捉えようとすること自体が不可能なことなのです。

それが分かっていながらも、気がつくと思考の中で真理とはこうなのだというような、「理解できるもの」として真理を掴もうとしてしまうということなのです。

どれほどすばらしい経典や聖典であったとしても、エゴが発明した言葉によって真理を表現することはできないのです。

それでも、私たちは何か意味のある事柄を誰かに伝えようとすれば、必ず言葉を経由せざるを得ないために、どうしても矛盾が発生するように見えてしまうのです。

例えば、私は長い間のセラピストの仕事を通して、クライアントさんに向かって、人生で遭遇することは自分の心の投影なのだということを伝え続けてきました。

心の中に怒りが膨れ上がっていれば、必ず怒らずにはいられないような現実がやってくるというようなことです。

このことを理解することによって、クライアントさんは長い間の被害者意識から抜け出せるようになるのです。

なぜなら、自分の身に降りかかる問題の原因を外側に見出そうとすることをやめるようになるからです。すべての要因を内側に見出すようになるのです。

そのことによって、人生が大きく変化してきます。このことは、あるレベルにおいては、確かに真実であるということができます。

けれども、より本質的な真理を見ようとすれば、ブッダが言ったように、すべての物事は自動的に起こり、そこに行為者は一人もいないということも真実なのです。

このことは、現実とは内面の投影だということと一見矛盾しているように感じてしまうのですが、この矛盾はどこにあるかといえば、それこそが思考の中にこそあるのです。

どれほど崇高な思考であろうと、真理はその外側にあるということを思考によって本当に理解することができれば、矛盾するように思えることでも、ただそれを受け入れることができるようになります。

一分でもいいですから、思考をなるべく止めてみることです。そうすれば、疑問も質問も、問題も矛盾も、何も無いというところに行くことができます。

思考が真理の探究を心底断念するとき、真理はその先で待っていてくれるはずなのです。

コントロールしようとすることと、ただ反応することの違い

少し前に、YouTube で見つけた動画で、とても可愛らしいものがあったのですが、それは、ラブラドル・リトリバーのような大きな犬と、やっとお座りができるようになったくらいの赤ちゃんが、何やら取り合いをしているのです。

よく見ると、犬がボールのような入れ物に入った餌を食べているのですが、そばにいる赤ちゃんがそのボールを自分のほうに引き寄せるのです。

そうすると、犬はそのボールを手で引き寄せて、また餌を食べだすのですが、そのうちまた赤ちゃんがそれを奪い返すのです。

結局、数分間の動画なのですが、そのボールの奪い合いを両者で何度も何度も何度も延々と繰り返すのです。

見ていた私は、犬がそのうちウ~と唸って怒りだすのではないかとちょっと心配になったのですが、そんなことは全く無く、とにかく犬としては奪われた餌をただただ取り返すという反応をしたのでした。

もしも自分が犬の立場だったとしたら、「おい、いい加減にしろよ!」と言いたくなったはずです。でも犬は淡々と奪い返すだけで、赤ちゃんに対しては何も感じていないようなのです。

この犬の行動は、言ってみればただ自分の餌をちょっと遠くに持っていかれたので、食べるために自分の口の届くところへと、持ってくるという反応をしただけだったのですね。

これが、起きていることにただ反応するということです。けれども、私たちは大抵起きていることを「自分を守るためには」という視点で解釈してしまうために、その出来事を何とかコントロールしようとしてしまうのです。

その結果、必要以上の怒りが湧いて来たり、後々までそのことを引きずってしまって、もっとこうしてやればよかったとか、今度は仕返ししてやろうなどといったことを考えたりしてしまうのです。

思考は、ただ起きていることをとにかく都合よく「解釈」してしまうので、不必要な自己防衛のためにエネルギーを浪費してしまうのです。

起きていることに対して、コントロールしようとしているのか、ただそれに反応しているだけなのか、いつも正直に自分を見てみることがとても役に立つはずです。

ただ反応するということが習慣として身につけば、私たちはもっともっと気楽に、そして自由な人生を生きることができるのだろうと思います。

思考こそが、この自分の正体

私たちは、頭を使って絶えずあれこれ考えを廻らしています。つまり思考するということに大変なエネルギーを費やしているのです。

このことは、誰にでも大抵は理解できることですね。けれども、「私が思考する」というのも、「私」というのも、共にそれ自体が思考だったということに気づいている人は少ないのです。

つまり、「私が思考する」のではなくて、「私」こそが思考だったということです。だからこそ、思考が停止している熟睡中は、「私」も停止することになるのです。

私たちはそのことを意識がなくなるというように捉えていますが、本当に意識がなくなるのではなくて、思考が停止しているだけなのです。

もしも、本当に意識が停止していたとしたら、寝入ったと同時に目覚めたという感覚にならなければならないはずです。

けれども、私たちは目覚めたときに、寝入ってからある一定の時間が経過したということをどこかで分かっていますね。それは、意識が絶えることなく継続しているからです。

従って、目が覚めるということは、意識を取り戻すのではなくて、停止していた思考が再開されるということなのです。

でもここで、一つ大きな疑問がやってきます。それは、もしも私が思考しているのではない、私が思考を作り上げているのではないなら、一体誰が思考を発生させているのかということです。

ここにきて、ようやくブッダがかつて言っていた言葉の意味が分かるようになるのです。「すべての物事は自動的にただ起きているだけ」と。

誰かが思考するのではなく、思考そのものがただ起きていただけだったのです。それは誰のものでもないのです。

この世界の一切合財は現象が起きる場だとも言えます。それは、物質だけではなくて、空間も時間も、そして思考や感情もすべてです。

私はこの私としてあるのではなくて、思考として起きているだけだったというわけです。そして、この文章で言わんとしていることもすべてが、思考として起きたことなのです。

アウェイクニング・ワークショップ(3回目)開催

明日の日曜日(7/8)には、またアウェイクニング・ワークショップを開きます。今この時点で、どの資料を使おうかということくらいは決めてあります。

日頃自分が講座やセッションなどでお話ししている内容を、もっと詳細に時間をかけてお伝えできればいいかなと思っています。

けれども、実際にどのような話しの内容になるのかというのは、実は細かくは決めることができません。その場になって、初めて情報がやってくると思うからです。

必要な情報がどこからやってくるのか知ることはできませんが、でも間違いなくその情報はその瞬間にしか来ないということは分かっています。

前もって知らされる情報もあるのかもしれませんが、もしそういうことがあるとしたら、それはやはりそのときに知るべき情報だったということなのでしょう。

与えられる情報はいつだって、その瞬間だけのものなのです。例えば、宝くじを買うときにやってくる情報は、当選が分かるときのためのものではありません。

まさに、それを買う瞬間のためのものだということです。そういう意味からすれば、今私に与えられた情報は、ワークショップでどの資料を使うかというもののみです。

その情報が、今必要だからこそ与えられたのでしょう。ワークショップで話すべき内容を今与えられる必要がないために、それはまだ自分に知らされてはいないということです。

勿論、大まかな内容の見当はついていますが、いつも予想していたようには結局のところいかないのです。

願わくば、参加されるみなさんが大切な気づきを得て、帰って行かれることになれば嬉しいなと思っています。今からでも、まだ間に合いますので、参加ご希望の方はご連絡下さいね。

昼夜逆転生活に陥る本当の理由?

早起きすることが比較的得意だという人と、逆に夜更かしの方が好きという人がいて、それぞれ朝型、夜型などと呼んだりしますね。

若いときには、夜型の人が多く、年齢を重ねるに従って、朝型に変わっていくというようなこともよく言われたりします。

私自身も若い頃からずっと朝起きるのが苦手で、会社員のころなどは夕方くらいになってようやく調子が出てきて、残業時間が最も効率がいいという自覚がありました。

今は年齢のせいもあってか、それほど夜更かしはしなくなりましたし、朝もまずまず一定の時間に起きるようにはなりました。

こうした朝型夜型というのは、年齢もさることながら、生まれながらの体質的なものの影響というのも確かにあるのでしょうね。

けれども、昼夜逆転生活のような極端な場合を例にすれば、心理的要因についても深く見つめてみる必要があるということが分かります。

昼夜逆転生活というのは、言ってみれば反社会的な行動であるとも表現できます。本人がそれを望んでいなくても、心の内奥でそのように仕向ける部分があるということです。

社会への反抗は、元を正せば親への抵抗なのです。親が起きている昼間は、反抗の時間として使われるのです。

親の期待に応えたくても応えることができなかった自分、その苦しみを分かってもらえない怒りを訴えるために、朝寝や昼寝をして、夕方に起きるという抗議行動をするのです。

また朝起きるということは、過酷な人生がふたたび始まる時間でもあるわけで、その苦しみから逃避するために睡眠という手段を取るということもあるでしょう。

一方、夜は親や社会が寝ている時間であり、それは自分に期待し、自分を監視する目がない時間帯なのです。

それは、まさに自由を感じる時間なので何とも気持ちがよくて、もったいなくて寝てなどいられないのです。夜が調子いいのはそういう理由があるはずです。

こうしたことが更なる昼夜逆転を作り出す原因となってしまっている場合も多々あるのではないかと思います。逃げずに自分のことをしっかり見てあげると、いろいろなことが分かってきて、人間というのは何とも可愛いもんだなと思うのです。

ブレーキから足を外す勇気を

この世界の法則を一つ挙げるとしたら、それはあらゆることが変化し続けるということです。何であろうと、この法則から逸脱することは不可能です。

どんな物事であっても、何が起こったとしても、いずれは終わりがやってきます。発生したものは、消えていく運命にあるのです。

そして、最終的にはこの宇宙でさえいつかは消滅することになるはずです。そのときには、空間も時間も他のすべてと同じように、消え去るわけです。

完全なる無の状態に戻るのでしょうね。私たちは、生まれると同時に、死という名の消滅へと一直線に進みだすのです。

これは厳然たる事実であって、どれほど神に懇願したところで変わることはありません。真理とはある意味冷酷なものですね。

こうしたことを知らない人はいないものの、普段は都合よく忘れて生活しているものです。けれども、このことを忘れないことこそが生を生きるうえではとても大切なことかもしれません。

なぜなら、宇宙のスケールからしたら、ほんの一瞬のように短い人生なのに、何かに怯えて精一杯やりたいことをやることもできずに死んでいくことが多いからです。

私たちは、いやな思いをすることを恐れて、恥ずかしい思いをすることを恐れて、失敗することを恐れて、人からの否定を恐れて、プライドを傷つけられることを恐れて、ブレーキをかけてしまうのです。

あっという間に無に帰するということをもう一度思い出し、ブレーキから足を外すことができたら、人生との付き合い方が変わるかもしれません。

何かを恐れることは問題ではないのです。ただ、ブレーキを踏んでいた足を退ければいいだけです。どんな結果であろうと、そんなことは構わないのです。それは丸ごと消滅するのですから。

そして、恐れを感じる方向へと、胸を張って船出するチャンスは毎瞬あるのだということに気づくことです。きっと、神は応援してくれるはずです。