柄にもなく防災グッズを買いました

先週あたりから、何となく自分の周りで地震に関する情報がやってくるようになっています。いくつかの情報を総合すると、どうも今週ないしは月末あたりに大きな地震が来てもおかしくないらしいです。

勿論、科学的な裏づけは何もないですから、大騒ぎするべきではないと思うのですが、ふと考えたら防災について何も準備してないということに気づきまして…。

昨日は時間があったので、思い切ってホームセンターに出向いて、防災関連のグッズを何点か買って来ました。

家族にはいろいろ今までにも言ってはいたものの、自分としては防災グッズなど買うつもりは全くなかったのですが、自分でもここにきて不思議な現象が起きたなと感じています。

そこそこ暖かそうな寝袋や、懐中電灯、ペットボトルの水、缶詰、他にもいろいろと、そしてそれらを入れておいて担いで逃げるためのリュック等。

備えあれば憂いなしという言葉には、これまであまり関心がなくて、会社員時代にも海外出張のときにほとんど手ぶら状態で行くこともありました。

結局、現地でいろいろ準備できてなかったしわ寄せがやってくるのですが、持ってくればよかったという後悔をしないのが自分の特徴だったのです。

外出するときには、いまだに手ぶらですし、汚い話しで申し訳ないのですが、ズボンのポケットには一枚のハンカチが無傷のままずっと入りっぱなしです。

でもさすがに、昨年の大震災のことも記憶に新しいということもあるのでしょうね。生まれて初めて真面目に「備える」ということと向き合った感じがします。

後それほど長くは残っていないこの身体の寿命ですが、生きている限りはきっと何かの役には立つかもしれないし…。

おとといのブログにも書いたように、これは神の身体だとの認識も新たにしたことですから、備えるべきものはきちっと備えておく必要があると思うようになったのですね。

自分の本質は何が起きても起きなくても、永遠に変わらずあらゆる物を包含する源だと分かったとしても、あるいは分かったからこそ、この現象界ではそれなりに丁寧に生きていくことも必要だという気持ちになれたのかもしれません。

今晩は、試しにホカホカのシュラフで寝てみようかなと思っています。

理性が観念するとき

瞑想しつつ、心が静まってくればくるほど、如何に自分が理性に権威を与えてしまっているのかということに気づくようになります。

私たちは気づかぬうちに、理性の力である理解力というものに自分の最高権威者としての地位を授けて、それに依存して生きているのです。

その表れとして一番馴染み深いものは、自分の正しさによって自己防衛しようとすることです。これは本人が気づいているかどうかに係わらず、誰もがしていることです。

一方、理性は人間が持つとてもすばらしい恵みであるとも言えます。理性をうまく使いこなすことによって、他の動物ではとても為しえないことを人間はやってきたのですから。

問題は、理性にあるのではなくて、それに妄信してしまったことなのです。理性が遠く及ばないことについては、その存在を簡単に否定してしてみたりするといったことです。

私は瞑想中に普段とは違う感覚や意識状態になると、それを何とかして理性で理解しようとしている自分を見つけることができました。

これはもしかしたらこういうことかもしれないとか、とにかくいちいち解説が入ってくるのです。そのときに、どれほどの理性を働かせたところで真実には届かないと思いとどまるのです。

そして、その理性がどんな解釈も及ばないと本気であきらめたときに、何やら形容することのできない何かを感じることができます。

理性が考えられる最高のものとは、理性自身がみずからの力の範囲を真摯に理解することです。あらゆる本質は、理性では決して届かないと見切ることこそが理性のできる限界なのです。

真実はあまりにも大きく、そして広大なので理性では手が届かないし、それはあまりにも近すぎて理性には見ることができないし、それはあまりにもシンプル過ぎて理性には解釈することができないのです。

そのことを完全に理解したとき、理性は観念するに至ります。それはあらゆる責任から開放される何とも言えない清々しさです。重い荷物を一気に肩から降ろした感覚です。

ひれ伏すことの無限の安心感、理性が静かになった時、それはやってきてくれます。そのために、思考を停止する必要もなければ、正しい姿勢で瞑想する必要すらありません。

これが多分明け渡しの感覚なのではないかと思います。

神の身体

奇跡のコースを読み出したときに、自分は身体ではないということを理解すると同時に、そもそも自分は身体だというのが単なる思い込みだったのだということが分かったのです。

しかし、そうはいっても、自分のモノであるということには違いないのではないかと勝手に思っていたふしがあります。

それはあたかも洋服や靴のように、勿論お金を出して購入したわけではないのですが、ともかく生まれたときからずっと一緒だし、自分の所有物だというように感じていたわけです。

人から何かを借りたら、気をつけて悪くしないように心持丁寧に扱うのが普通ですね。逆に自分のものであれば、ある程度は場合によってはそんなに気遣いせずともいられることも多いです。

私は、この身体は間違いなく自分のものだと信じていたので、かなり雑な扱いをしていることに気づいています。

最近ではめっきり運動をしなくなってしまい、筋肉が相当に退化してきているのが分かります。そして、食にもそんなに気を使ってないので、野菜が不足していることも分かっています。

だからなのか、腰痛になったり便秘になったりを繰り返していますが、自分のものなので誰に迷惑がかかるわけでもないし、ということでそのままの状態が続いています。

ところが最近、「この身体は自分ではない」というよりも、更に言えば「この身体は自分のものではない」とも言えるということに気づいたのです。

つまり、自分は身体ではないばかりか、その身体はそもそも自分のものでもなかったということです。一体誰のものかと言えば、きっと神のものだろうと。

神という言葉がそぐわない感じがするようなら、大いなる意識のものと言い換えてもいいのですが、とにかく個人的な私たちの所有物ではないという感覚に気づいたのです。

だとしたら、神が不自由なく使えるように、この身体のメンテナンスをなるべく怠らないようにしなければならないのではないかと思うのです。

自分の身体だから大切にしなければならないというよりも、神のものだからしっかり調整してあげて、いつでも完全な状態で使ってもらえるように管理しておく必要があるのかなと。

私たちは、一人ひとりが神の身体の維持・管理を任された一時的な存在なのだと思うと、この身体に対する愛情も何だか今まで以上に感じることができそうです。

ただし、いまさらですが、私はいかなる宗教とも一切係わりがありませんので、遅ればせながらお断りしておきます。

ストーリーを語りたい衝動

愚痴を聞いてもらって、すっきりしたということはよく聞く話しですね。そして、愚痴を言い続ける限り、人生において何も改善されるはずがないということもよく言われますね。

常に愚痴っぽい人というのは大抵が被害者の意識になってしまっているということが言えると思います。その被害者ぶりを誰かに訴えたくて仕方ないのです。

それは実のところ、幼いころに家族や親からひどい目に遭って、それを分かってもらえてないという不満から来ていると考えられます。

あなたがこれまでの人生でどんな生活をしてきたか、被害者の立場から言い換えれば、どんな生活を強いられてきたのか、それを訴えたい気持ちがあるとすれば、その分だけ幸せは遠のくと思って間違いありません。

自分の心の中に不満を訴えたいという気持ちがあるということ自体は、悪いことでも何でもありません。ごく普通のことだとも言えます。

しかし、そうした気持ちに乗っ取られて毎日を生きているとしたら、それはいい悪いの問題ではなくて、単に満たされることは絶対にないということです。

自分の気持ちを正直に見つめてみたときに、あなたは自分の人生というストーリーを語りたいという欲求を見つけることができますか?

もしもそうした思いを見い出すことができたなら、それをいつも監視して決してそれに巻き込まれないようにしておくことです。

なぜなら、ストーリーとはすべてが過去であることを考えれば、その思いに巻き込まれてしまえばあなたが過去に生きていることになるからです。

過去とは、挫折と苦悩と後悔と罪悪感の巣窟です。せっかく唯一愛を感じることができる今に在るあなたを過去からやってきて、乗っ取ろうとするのがそうした被害者の意識なのです。

被害者であると信じることで、罪悪感などの苦しみから一時的に逃れることができると思っているのです。それこそが、被害者としてのメリットなのです。

文句を言える立場というのは、甘味なものです。それを決して奪われたくないばっかりに、いつも辛い被害者の人生を生き続けることを選んでしまうのです。

もしも、あなたが自分のストーリーを語りたい衝動を感じたら、それをただそのままにしておくことです。それと闘わずにさりとてそれを否定もせずに、ただただそれを見てあげることです。

そこでやってくる痛みと共にいてあげるのです。ストーリーがどんなに悲惨であっても、どれほど過酷なものでも、ありえないほど理不尽であろうと、それはただのストーリーでしかないのですから。

恐怖を大きくしているのは自分自身

小学生の低学年くらいの頃、大抵クラスに一人や二人は注射となると、泣いて騒いで大暴れする奴がいました。今でもよく覚えています。

誰だってか細い腕に針を刺されるのですから、怖いには違いありません。それでも、みんなも同じなんだからきっと大丈夫なのだろうと自分をなだめて何とか無事に済ますわけです。

それなのに、そういう泣き叫ぶ子がいて、子供心に苦しそうで可哀想だなと思っていたのを覚えています。その怖がり方が半端じゃないので、からかう気持ちにもならないというか…。

今思い返しても何であれほどまでに怖がらなくてはならないのか、本当のところは分からないわけですね。それでも確実に言えることは、彼らにとっては死ぬほど怖かったのだということです。

だれだって、人知れず苦手なものがあったりするわけで、他人にはその恐怖感がどれだけすさまじいものなのか、本当のところは分かってはもらえないのです。

しかし、実際には腕に針が刺さる痛みというのは、それほどのものではありません。本当のことを言えば大したことはないので、ほとんどの子供は泣いたりしないで済むのです。

泣き叫ぶ彼らの心境というのは、額面どおりの注射の痛みを恐れているのではなくて、彼らが独自に作り上げた架空の痛みを恐れているわけです。

空想の痛みですから、どれほどにでも痛みを大きくすることができるわけで、そうなったら際限がないので彼らは死ぬほどの恐怖を感じてしまうということです。

同じようなことを、私たちの誰もが自覚せずにやっているかもしれません。痛みから逃れようとしてそれと闘えば闘うほど、恐怖は大きくなることをどこかで知っています。

そして、幸運(?)にももう抵抗することは無理だと知って観念したときに、予想していた痛みとは桁違いに実際の痛みが小さなものだったと理解するのです。

痛みを拒絶しようとする気持ちそのものが、恐怖を大きくする要因なのだということをしっかり理解することが必要ですね。

もしも勇気を持って、痛みをあるがままに見ようとする気持ちになれたなら、もう痛みは恐れる相手ではなくなってしまうということです。

このことは、いつでも試すことができますので、日頃あなたが怖いと思い込んでいることに対して実践してみることを強くお勧めします。コツは「何とかしよう」をやめることです。

永久不滅を望む

自分が本当に本当に本当に望んでいるもの、心から求めているものとは一体なんだろうかと改めて見つめてみると、それがたった一つであるということが分かります。

それは当然のことながら、永久不滅のものであるということに気づくことができます。手に入ったと思ったら失ってしまうのでは満足することはできないからです。

だとすると、この世界の中にある、つまり自分の外側にあるようなものは、すべてが生まれては消えていくものばかりであるため、そこには本当に望むものはないということになります。

この地球だろうと太陽系であろうと、いずれは消滅することがはっきりしています。自分が知っているどんなものであろうと、間違いなく消えていくものばかりです。

ということは、本当に望むものは自分の内側にこそあるということになりますね。それは理性で認識できるものではなさそうですが…。

それならば、極端な環境の変化をイメージしてみて、それでも望むものを見い出すことができるのかどうかを検証して見る必要がありそうです。

例えば、何か途方もない罪を背負って、最果ての地の監獄に終身刑で入れられている身だとします。もう、決して親しい人や愛しい人と会うことはできないわけです。

自分の寿命が尽きるまでは、その境遇で日々を過ごさねばなりません。しかし、外側には本当に望むものを見い出すことができないのならば、そのような状態においても今と条件は同じだということになります。

そしてもし、そんな過酷な状態では望むものは見い出せないし、今自分がいる環境や境遇を手放したくないと思うなら、まだ本当には永久不滅のものだけを求めているわけではないということになりますね。

そんな極端なことをストイックに考えなくてもいいだろうと思われるかもしれませんが、自己探求するときに自分がどれだけストーリーの中で手に入れられるものにまだ執着があるかを見極めることは大切なことです。

私が今言えることは、勿論監獄の中で暮らしたいとは思わないものの、そこの生活においても充分に永久不滅のものに気づくことは可能だという気がします。

そう考えて見ると、私たちが普段人の人生とは不平等だなと感じているにも係わらず、最も本質的で大切なものに気づくためには、どんな人のどんな人生であろうとも全く平等にそのチャンスを与えられているのだということです。

自分の人生を人の人生と比較する必要もないし、自分の人生がもう少しよくなったらとか、今はまだそのときではないなどといった言い訳をすることもできなくなりますね。

今この瞬間に、世界中の誰であっても、その永久不滅のものを見い出すことができるはずだと思うのです。

生きるとは死ぬことと見つけたり

これは前にも書いたことなのですが…。最近よく瞑想をするようになったのはいいのですが、少しの時間静かにしていればほとんどの想念は治まってくるのに、一つだけしつこいのがあるのです。

それは、バックグラウンド的にずっとメロディを奏でている想念なのです。それはもう、絶えず流れていて、いろいろな曲をランダムに聞かせてくれるのです。

今朝聞いたメロディだったり、ちょっと前に口ずさんでいた曲だったり、一年前のヒット曲だったり、あるいは何十年も前に聞いたことのあるすっかり忘れていたものだったり。

ジャンルもクラシックだったり、ロックだったり、歌謡曲やそれこそ童謡などありとあらゆるものが含まれて、なんだか有線放送のような状態です。

しかし、そんなまともなものであるはずもなく、どこかのフレーズを延々とリピートしていたりとその内容は滅茶苦茶なのです。

それをストップしようとすれば、すぐに止まるのですが、またすぐにいつの間にやら気が付くとメロディが流れているといった状態なので、最近ではもう気にしないようにしていたのです。

ところが、今日瞑想中にあることをしてみたところ、それがピタッと止まったのです。それは、自分の死についてとことん見つめてみるということをしたのです。

これは無念無想とは全く違うので当然といえばそうなのですが、まったく自前有線放送は姿を消してしまいました。

そして、自分からすべてのものが奪われていく感覚、何一つ残るもののない完全なる喪失をずっと感じていたときに、恐怖と同時に一種の清々しさを感じたのです。

勿論最後の最後まで死を味わい尽くすまでには至ってないのですが、それでも完全なる静寂さの片りんを感じることができました。

そして、巾着のようにくっついて離れずにいた想念すら、そこでは生き延びることができないということがわかったのです。

私たちは、これほど確定していることは他にないと知っていながらも、自分や大切な人の死について目を逸らしてしまっているのですね。

私たちが不当に苦しむときには、常にこの死に対する恐怖から目を背け続けることが原因であると言ってもいいのです。

過去からやってくるあらゆる想念は、死から逃れるための様々な作戦を携えて今の自分に働きかけてくるものなのです。

充分に死と対峙することができたら、こうした想念に巻き込まれることがなくなるはずです。それが今に生きるということであるのです。

それこそが、過去が作ったストーリーの中でもがき苦しむことから、本当の人生を生きるということへの大きなシフトなのだと思うのです。

そこには、「私」が生まれる前から、そして「私」が生きて死んだ後も、ずっと変わらずに在り続ける本質の自己への意識のシフトがあるのです。

「私」の死をできるだけリアルに、正面から見据えることによって、誰もが急速にもっとも身近に在り続ける本当の自分を見ることができるかもしれません。

それこそは、「私」と「私」のストーリーの死であり、真実の生を生きるということになるのだろうと思うのです。

心を閉ざすという復讐

私たちは誰もが自分の本心を何でも話しているわけではありません。この程度であれば問題ないだろうという線引きをして、その範囲内のものについて言うだけです。

それを越えたものについては、口を閉ざして決して言おうとはしないものです。それには、さまざまな理由があるのですが、根っこの部分には自分を守りたいという欲望があるだけです。

相手にとって都合の悪いこと、気分を害するようなこと、そして相手が自分のことを否定的に見るだろうことを黙っているということです。

親に嫌われたら生きていけないと信じている幼い子供にとっては、このことは死活問題であるため、あまりにも危険だと感じる生活が続くと子供は心を閉ざしてしまいます。

そして、決して親に自分の本音を伝えることをしなくなってしまうのです。そしてそのままではあまりにも辛すぎるために、自分に対しても本音を隠すという作戦を使うようになるのです。

こうなってしまうと、もう誰も本人の本当の気持ち、本当の感情、訴えたい思いなどを知ることができなくなってしまいます。

しかし、この状態はそのままで済むはずもなく、いつかは何らかの形をもって表面化することになります。それは感情の爆発であったり、社会性への敵意となって現れたりもするかもしれません。

それでもそうした傾向は一過性のもので、またしばらくすると心を閉ざした状態に戻ることになり、そんなことを繰り返すことになっていきます。

そして、もっともやっかいなことは、当初は自己防衛のためにのみ心を閉ざしたはずが、いずれはそれを復讐として用いることになるということです。

つまり、親などの相手に対して、決して自分の本心を見せてはやらない、見せてなるものかという仕返しの気持ちが芽生えるということです。

もしも、心の中に何らかの復讐心がありそうだと感じるなら、自分は幸せになりたいのか、それともいつ終わるともしれない復讐に人生を費やすのか、どちらを選択するかを明確にするべきです。

曖昧にしていると、どちらも達成したいという不可能な夢を追いかけ続けることになるからです。幸せを願うなら、勇気を出して心を開くことです。

催眠にかけられたリンゴ

この仕事を始める一年くらい前に、つまりまだ会社員だったころに何を思い立ったか、とある催眠術師のところに催眠術を習いに行ったことがありました。

単なる興味だったとは思うのですが、予想外に簡単に催眠をかけることができると分かって、嬉しくなっていろいろな人にかけて自分の腕を試したりしていました。

後催眠といって、ある暗示を与えておいて一度催眠を解き、その後施術者の何らかの合図に従った言動をさせてしまうという効果を使って、お遊びとして楽しんでいました。

それがきっかけとなって、催眠療法を仕事にするようになったわけではないのですが、でもどこかで無意識的には繋がっているものがあったのかもしれません。

私自身は今だに催眠状態、つまり変性意識状態について、その実体を詳しく知らないのですが、とにかく一時的にであれ、与えられた暗示を本当に信じ込むことがあるのです。

仮に、丸くて赤くてジューシーでとてもおいしそうなリンゴに催眠をかけて、あなたはゴーヤ(にが瓜とも言いますね)になったと暗示を与えたとします。

すると、リンゴは自分がゴーヤであるということを信じ込むことになります。ゴーヤだと思い込むことになったリンゴは、自分のリンゴとしてのフルーティさやおいしさのことを忘れてしまいます。

そして、本気になってリンゴのようなすばらしい姿と味わいを持つことを望むようになります。ちなみに私はゴーヤが大好きですが、一つの例として読んで下さいね。

ゴーヤになったリンゴは、自分のゴツゴツした姿や苦味を何とかして、美しい丸い姿にしたいと考えるかもしれません。

自分をリンゴのような素敵なフルーツにするために、あらゆる努力をしようとするかもしれません。身体をつるつるにするためにエステに通ったり、香りをよくするために特別なフレグランスを手に入れようとするかもしれません。

どうやってもリンゴのような丸い形にはならないので、本当に絶望してしまうかもしれません。このゴーヤのすべての苦悩の元はたった一つ、自分をゴーヤだと信じてしまったことですね。

リンゴのようになりたいと望むすべての思いを一度やめて、ただゴーヤであることをそのまま見続けるという選択ができることに気づけたら、そのとき催眠が解けるかもしれません。

催眠さえ解けたら、心からの安堵がやってくることは間違いないですね。そして、今までの苦悩のすべては何だったのだろうと笑いだしてしまうかもしれません。

私たちもそのリンゴと同じように、ある暗示を与えられている状態だと思えばいいのです。ここから一歩も動かず、何もしようとせずにただ在ることだけに意識を向けるのです。

そのときにこそ、本当の自分の姿、永遠に安堵することになる本質の自己に気づくことができるということです。

努力と決心

私たちは幼い頃から、何らかの目標を設定して、それに向かって努力をして、それを達成することに価値があるという教育をずっと受けてきました。

それは些細なことからとても大きな目標に至るまで、どんなことにでも当てはめてしまう習慣がついてしまっているようです。

例えば、勉強せずにたまたま100点を取ってしまうよりも、勉強した成果として100点を取る方がいいというようなところがありますね。

小さな目標でもそれなりの努力が必要であり、もっと大きな目標にはもっと多くの努力とそれに見合うだけの時間が必要だという思い込みです。

クルマを購入するためには、これだけ働く必要があって、家を購入するためにはその何倍も頑張る必要があると信じています。

こうしたことは、もう信念のようになってしまっているため、その逆に楽をして欲しいものを手に入れたいという願望を生み出す結果にもなります。

そうして一攫千金を狙って宝くじを買って、はずれたときにやっぱり人生はうまいこといかないもんだなあと諦めたりするわけです。

しかし、よく考えて見ると本当に大切なものほど努力なしに手に入れた経験をしているはずです。例えば、生涯の友やパートナーとの出会いはきっと偶然が引き会わせたと知っています。

あるいは、とても大切なことに何の努力もなしに、あるとき突然気づいてしまうということだってあるわけです。

偶然手に入るという幸運も間違いなくありますし、そしてもっと明確に気づくべきことは、実は本当に大切なことほど難なく手に入るものだということです。

ただし、それには決心することを見逃してはなりません。私が、「何とかしなければ…」をやめて下さいというときに、必ず「今この瞬間に」と付け加えて言うのは努力して欲しくないからです。

一ヶ月かけて、あるいは半年かけて「何とかしなければ…」をやめられるようにしたいと考えた瞬間に、それは努力を要することだとの思い込みを使っているのです。

それは、何とかして、何とかしなければをやめようとするといった、笑い話のようなことになってしまっているのです。

必要なことは、たった一つの、たった一度の決心をすることです。だからこそ、それは今この瞬間にできることなのです。

私たちは、努力して眠りに入ることができないことはよく知っています。何とかして眠ろうという努力をすべてやめることができた時にこそ、寝入ることができるわけです。

それと全く同じことが本当の自己を知ることにも言えるのです。あらゆる「何とかしなければ…」をやめたときに、私たちがもっとも欲しがっていた本当の自由と出会うことができるのです。

もっとも手に入れるのが難しいと思っていたことは、何と全く心の中で何もしないということによってのみ、手に入れることができるということです。

真実というのは、どうもこうした逆説的なことがいつもつきまとうものなのですね。