エゴへの投資

私たちは、毎日この人生であるものに必死で投資しています。来る日も来る日も果てしなくそれに投資し続けているのです。

そのあるものとは、勿論「私」つまりエゴに対する投資です。投資とは、それにお金や労力や時間などのあらゆるエネルギーをつぎ込むことですね。

そしてその投資の目的とは、常に何らかの方法でそれを救うということと深く関係しているのです。

つまり、「私」という想念であるエゴをいつも救うことに全エネルギーを投資しているということです。具体的には、欲望と恐怖を使って。

欲望とは快楽を手に入れようとすることへの執着であり、恐怖とは苦悩を排除しようとすることへの執着です。その二つの執着によって、エゴを救えると信じているのです。

それが私たちの人生だと深く気づくことがとても大切なことです。そして、それを理解することができたら、その先に気づかねばならない最も大切なことがあります。

それは、あなたに恐れや欲望が起こったときに、誤りであり去らなければならないのは、欲望や恐れではなく、欲望をもったり恐れたりする個人なのだということです。

欲望や恐れは完全に自然で正当なものかもしれないのです。そして、それらと闘うことは要点をはずしていると言わざるを得ません。

それらによって動揺させられる個人が、過去と未来における誤りの原因なのだということです。自分のことを個人だと信じる限りは、欲望と恐怖の罠から抜け出すことはできません。

それこそが、無限に続く輪廻の罠だと言ってもいいかもしれません。 このことを理解することができたら、エゴへの投資をやめて、自分の本質に気づくことにのみ投資をする決意をすることです。

といっても、深刻に考える必要はありません。個人だと自分を信じ込ませているこの「私」の正体を見切ってあげればいいのです。そうすれば、それは必ず本当の自己の中へと解けていくはずです。

瞑想の勧め

あまり好きでも得意でもないと感じていた瞑想を、最近はよくするようになりました。もしかしたら、生真面目さが取れたからかもしれません。

以前は、朝起きてすぐに決まった時間だけやるというのを習慣付けてやっていたことがあったのですが、それは結局2年くらいしか続きませんでした。

近頃の傾向は、何の計画もないままに、ただソファに腰掛けて気づくと瞑想の中に入っているといったような形になってきました。

それが功を奏しているのかもしれませんが、瞑想のメリットばかりを感じられるようになってきたので、とてもいい具合なのです。

夜ともなると、少し気候が冷えてきたにもかかわらず、瞑想しだすと身体がポカポカしてきて、冷たいと感じていたつま先なども暖かくなってくれます。

瞑想の本当の目的は、瞑想している「私」が消滅することなのですが、それはまだまだとても実現しそうにないので、気楽に気張らずにやっています。

どこまでいっても、「私」は居残り続けますね。ただし、いろいろなことが分かってきたことも事実としてあります。

一つは、日頃自分の意識というのは、荒いゴツゴツしたものから、精妙なものまでを含む意識のエネルギースペクトラムとでも言ったもので出来ているのだと分かったのです。

瞑想しつつ、次第に意識が深いところに進んで行くにつれて、荒削りの意識が徐々に落ちていって、より精妙な意識のエネルギーになっていくのです。

そうした静かで精妙な意識というのは、実はずっと在り続けているものなのですが、どうも気持ちが外側に向かっているときには、気づけなくなっているらしいのです。

それは例えて言えば、小さくてかすかな鈴の音がずっとしているのに、大音量のロックが流れているから聞こえてこないというようなものと同じなのです。

荒い波動の意識で生活していると、精妙な波動の意識に気づくことができないのです。それが、瞑想によってとても静かで穏やかな意識だけがクローズアップされてくる感じなのです。

それはとても心地いいものです。そして、それにあわせるようにして、明らかに脳内快感物質が繰り返し分泌されるのをはっきりと感じることもできます。

何も決めずに、気楽な感覚でやりたいときだけやるといった瞑想を、今後も続けていけたらいいなと思っています。みなさんにも、お勧めです。
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あらゆるものの背後にある「場」

昨日のブログでは、自分が身体ではないなら、次のような感覚になるということをお話ししました。それは、「自分はどこにもいない」=「自分はあらゆるところに偏在している」ということ。

偏在するとは、どこにでも在るということですから、自分はこの世界のどこにでも在るということになり、つまりそれは、自分がこの世界そのものだと言うことになるかもしれません。

しかし、ちょっと待ってください。この世界といっても、私たちは一体どの程度目の前に広がっていると思い込んでいるものを知っているでしょうか?

今、地球の裏側で何が起きているか、ニュースやネットなどで知る以外には、直接見ることもできません。

だとすれば、私たちがこの世界と言う場合に想定しているものが、自分であるということではなさそうですね。

もっと簡単に言えば、今この瞬間自分が見ている世界こそが自分そのものだというようにすればいいわけです。

しかしここでも、困ったことが一つあります。それは、見る場所を変えれば世界の様相が瞬時に変化してしまいます。

クルマを運転しているときには、この世界は道路や行き交う人々になり、部屋で一人読書をしているときには、本のページ上の活字だったり部屋の景色となります。

つまり、刻々と自分であるこの世界はその姿を変え続けるのです。その目まぐるしく変化するすべてが自分だと思ってもいいかもしれません。

しかし、よく見つめてみると、その世界の姿の背後にいつも変わらないものがあることに気が付きます。それは、世界が様々な形で現象化する「場」です。

それはこの世界として何が見えてきたとしても、いつも変わらずに在るものですね。その世界が立ち上がってくる「場」こそが自分の本質だということもできます。

それはいつでも変わらずに在りつづけるのです。たとえ、人類が滅びてしまっても、地球がなくなったとしても、それは永遠に在るのです。それが、本当の私です。

内側と外側

もしも、自分が身体ではないとしたら、身体の内側と外側という概念に意味を持たせることができなくなってしまうのは自明です。

自分が肉体であるとの強い思い込みがあればこそ、自分とはこの肉体の内側の小さなエリアのことだし、肉体の外側には自分ではない広大な世界が広がっているという認識となるわけです。

赤ちゃんも私たちと同様にして、目を見開いてこの世界を見ているのですが、自分の外側に広がっている世界を見ているという認識はありません。

なぜなら、自分が肉体だという思い込みがまだ出来上がってないからです。つまり、内側も外側もない状態で生きているということです。

これは、赤ちゃんだけでなく、あらゆる動物も同じです。人間だけが、3歳くらいの頃から、どうやらこの身体が自分なのだという想念が生まれてきます。

この身体と自分の同一視こそが、ここに私がいるという、「私」という想念が生み出される結果を作り上げるのです。

そうやって、徐々にではあるものの、自分はこの小さな身体の内側だし、自分の外側には大きな得体の知れない世界があると思うようになるのです。

そして、そのことは決して信じて疑わないくらいに、強固なものとして自分の中で信じ込むことになるのです。それはもう本人にとって、真実となってしまいます。

一般的には、この内側と外側の世界が在るということを、疑ってかかる人は少ないかもしれませんが、世の中には物好きもいて、本当にそうなのかとやる人がいるということです。

私もそのうちの一人です。そしてその疑いは日増しに強くなっていって、最近では本当の自分は身体でもなければ、あれでもこれでもない、何もないものだということが分かってきました。

今すぐにでも、内側も外側もないということを感じることができます。そのときの感覚をあえて言葉で表現すると、「自分はどこにもいない」=「自分はあらゆるところに偏在している」となります。

そしてそれは一種独特の感覚であって、快感でもなければ苦悩でもない、ただ在るという感覚が一番近いかもしれません。そしてそれは、平安であり、静寂でもあるのです。

もしもあなたが何かに苦悩しているなら、それは自分は身体だとの思い込みが原因です。自分がどこにもいなければ、傷つく対象もないので苦悩は起きません。

それでも不思議なことに、自分という気づきだけは純粋な意識として残ります。だから、本当に実在しなくなるのではないので、安心して下さい。

本当の自分とは、「無」だとの気づきとして、永遠不滅の実在なんです。だから何事も深刻になる必要などさらさらないということを分かって欲しいです。

放心状態

一般的な表現として、たとえば長く付き合っていた彼氏にふられて放心状態になってしまったなどと言うことがありますね。

それは、この目の前にある現実の世界よりもショックを受けた事象に心が巻き込まれた状態のままになっているということを意味しています。

その過去の事象が感動的なことであれ、苦しいことであれ、いずれにしてもそこから心が離れなくなってしまっている状態を指します。

しかし、「放心」といっているのですから、つまり心を放つと書いているということは、本来読んで字のごとく解釈しなければならないはずです。

そこを忠実に捉えれば、放心状態とはあれこれと心を使わずに、心を解き放つ、あるいは心そのものから解き放たれた状態を意味するとも言えます。

その状態の人が、もしも目を見開いているとしても、それはどこかに焦点を当てているわけではなくて、虚空を見つめているような感じになるはずです。

20世紀の代表的な賢者と言われた、インドのラマナ・マハルシは何時間でも沈黙して、目は一点を見つめているようにしていても、何も見ていない状態だったそうです。

それはまさしく、放心している状態だったからですね。心をなくした状態になるためには、その心を生み出している「私」が不在にならなければなりません。

心を静かにして、その「私」を見つめていると、その見つめている「私」そのものを感じることができますが、それは主に言葉を使っている想念のようです。

それともう一つ、自分の場合に限定されるかもしれませんが、メロディを奏で続けようとする想念も脇に常にあることに気づきます。

言葉と音楽、これが一向に消える気配がありません。なかなか、しぶといですが、それ以外の想念は全く出なくなるので、ここを探求して行こうと思っています。

ただ「今」に佇む

私たちは、一日のうちに一体どれだけの数の想念が心の中から沸き起こってくるのでしょうか?心を静かに出来る人と、そうでない人とで大きな違いがあるかもしれません。

しかし、どちらにしても膨大な数であることは間違いないところですね。何も思い浮かべない状態でどれだけの間いられるものか、想像してみれば分かります。

もう無数の想念が立ち上がって、それらはとっかえひっかえやってきては去っていくのです。ただ通り過ぎる想念もあるし、巻き込まれていってしまう想念もあります。

想念はすべて過去がベースとなってやってきます。その内容が、たとえ未来にまつわることであったとしても、根っこは過去なのです。

例えば、ほとんど過去を持たない赤ちゃんの場合には、蛇を見てもそこから想念を作り出すことはできません。

ところが、少し成長すると、急に蛇を見ると怖がるようになってしまうのは、誰かが蛇を怖がる様子を見た体験を想起するからなのです。

だから、現在のことを見ているとしても、その反応は過去のことがベースとなっているのです。逆に言えば、記憶を持ってなければ想念は浮かんでこないはずです。

私たちは、体験したことの中で印象に残るものをピックアップして、特別に記憶の中へとしまい込むのです。すべての体験を蓄積するわけではありません。

そうやって、作られた記憶という想念を元にして、次から次へと新たな想念を生み出すことになるのです。それは、すべての想念の源である「私」という想念に意識を向けなくさせるためです。

しかし、過去から意識を離すようにして、ただ、「今」だけを感じるようにすると、そうした過去からやってくる想念のすべてを消し去ることができるのです。

だから、「今」は魔法のように、心を静かにすることが出来ます。「今」はいつだって、自分と一緒にいてくれるのですが、我々はそれを見ようともしないのですから、勿体無い話しですね。

真珠婚式

私事なのですが、今日11月1日は30年目の結婚記念日なんです。今、「結婚記念日」で検索してみたのですが、30年目は「真珠婚式」というらしいですね。

ちなみに、よく耳にする銀婚式は、25年目、金婚式はなんと50年目だそうです。やばい、銀婚式はとうに過ぎていたのか…。

歳もとるし、ふけもするはずです。銀婚式をゆうに超えていたとは。我ながら継続は何とかと言いますし、そこそこすごいなあと。

今の仕事をするようになって、もうすぐ丸11年が経とうとしていますので、結婚生活のうちの三分の一に相当するのですね。

自分の中では、まだまだ新米セラピストだという感覚が強いのですが、それはサラリーマン生活が長かったからかもしれません。

しかし、人間て時間じゃないというのは本当ですね。22年間のサラリーマンの時代と比較して、その半分であるセラピストになってからの期間の気づきは、とても比較できないくらいです。

期間は半分でも、気づきは一万倍以上あるかもしれません。正直言って、サラリーマン時代の自分の人生は不遇でした。

サラリーマンであることや、勤めた会社が悪いということではまったくなく、ただ自分の精神状態がよくなかったということに過ぎません。

それはあまりに忙しすぎて、自分を見つめる時間がなかったことが一番の原因かもしれないですが、そうした環境になってしまったのも自分のなせる業だと今では分かります。

自分を真正面から見つめることに恐れを感じている人は、大抵多忙を極めています。忙しくすることで目を逸らしていることを正当化できるからですね。

セラピストになって、その真逆、いやというほど自分を見せ付けられる生活を日々送ることになったのです。それはすべて、クライアントさんのおかげなわけです。

セラピストになって、ド貧乏生活になりましたが、今日くらいは夫婦でささやかな食事会をしようと思っています。我が奥様、30年間ご苦労様そしてありがとう!

あ~、間に合った

久しぶりにブログを書かずに今日を終えそうになっていたのですが、ぎりぎりセーフで間に合いそうです。

何があったというわけではないのですが、ミクシーの日記を書くのを辞めたせいなのか、気が抜けてしまったようで、夕べはブログも書かずに寝てしまいました。

こんな日があってもいいのかなという思いもあるものの、でも少数であっても読んで下さる方々がいると思うと、やっぱり何か書こうかなと言う気になりました。

最近、パソコンに向かうことが、自分にとってメリットとデメリットを考えたときに、もしかしたらデメリットの方が大きいのかもしれないと感じるようになって…。

以前は気づいたことを文字にしてみることで、自分の中でそれがより明確になるというとても大きなメリットがあったと思うのです。

ところが、ここのところは気づくことがとても多くて、それを全部ブログや日記にしておくことができなくなりつつあるのかもしれません。

それと、すべてを文字にすること自体がなかなか難しいような、言葉では伝えきれないような気づきもやってきたりしています。

昔から「沈黙は金」という言葉がありますが、つべこめ言い訳をしないと言った意味で捉えられているふしもありますが、本当の意味は違うと感じています。

沈黙は無と同じであって、真理は決して言葉で表現することはできないということ。どんなにすぐれた言葉を使ったとしてもです。

所詮、言葉は真理を指し示す程度なのです。いにしえから、賢者は黙して語らずということがそれを象徴していると思います。

私自身も、自分が気づいたことの真髄を表現することはできないのかもしれないと思うようになってきたのかもしれません。

とはいうものの、仕事では今でもいろいろな方々にお伝えすることが多いですし、こうしてブログを書き続けることもそれなりに意味があるのかなと。

ワークショップの感想

昨日は、髙木悠鼓さんを招いてのワークショップ、「私とは本当に何かを見る会」を開催しました。間際になって、キャンセルされた方もおられましたが、それでも30名を超える方々が参加して下さいました。

いつもは、自分がメインでセミナーなどを開催するのですが、脇役に徹するというのは初めての経験で、心から楽しむことができました。

トータルで3時間という短いワークショップでしたが、一風変わった実験をみんなで一緒にやるというスタイルで、とても興味深いものでした。

実験しては質問を受け、また実験をするという具合に、様々な実験をしながら私の本性を無理なく発見していく経験は、参加された誰にとってもとても印象に残るものとなったと確信しています。

私自身は、ダグラス・ハーディングさんの本を読んで、自分なりに実験を繰り返してきたわけですが、実践するたびにまた新たな気づきを得ることができるのです。

正直言って、参加されたすべての方が自分の本性を見ることができたとは実感できなかったかもしれませんが、それは見れないということではないのです。

人はその人の心の状態によって、体験したことをそのまま受け入れられなかったり、分からないふりをしたりを無意識でしてしまうのです。

また、あの感覚を分かったとしても、それをなかったことにしようとする意識が発動してしまう場合もあるのです。

大切なことは、どんな状態であっても、自分の経験を分析せず、裁かず、あるがままに受け止めることなのです。

そうして、それを興味と情熱をもって継続していくことです。それによって、真の自己に対する信頼が次第に深まっていくのですから。

チャンスがあれば、またこうしたワークショップを開催したいと思っていますので、ご興味があれば是非ご参加いただきたと思います。

何かが面倒をみている

日本語で、「昨日一人で浜辺を歩いていたら…」のような表現をして、通じないことはありません。しかし、勿論正しい日本語表現であれば、主語としての 「私が」というのが入らなければなりません。

英語で、主語である「私」が抜けることは100%ありえないことですね。それがどんなに簡略された口語であろうともです。

そこには、確固として「私」が存在すると共に、それを表現せずにはおかない文化があるのですね。その違いはどこからくるのでしょうか。

これは私の勝手な憶測なのですが、日本の文化では「私が」というのを連呼するのを嫌う国民性が根付いているのではないかと思うのです。

私がやった、私が考えた、私が愛している、のように何にでも「私」が強調されると、あまり好ましくないという感覚を持っているのです。

実際、「私」を沢山言うのは政治家だったり、その他押しの強い人たちなのではないでしょうか。場合によっては、「私は…」から初めて、その後に続く述語などの言葉がそぐわないことを言っている人が時々います。

最近ではあまり良しとされなくなった、控えめな人や謙虚な人ほど、「私」を強調することはないはずですね。

それで思ったのですが、日本人は単に謙虚なだけではなくて、実は「私」が不在であっても事は同じように起きるということを古来から知っていたのではないかと。

つまり、この「私」がそれを行っていると思っているのは思い込みに過ぎず、何かがその面倒をみているということをどこかで分かっているということです。

自分が行為者ではないということに気づけば、あらゆる束縛から解放されることになるのですが、そのことに一番気づいているのはもしかしたら日本人なのかもしれません。

主語を省略することがいいことだとは思いませんが、これはとても大切なことかもしれません。何かに没入すると、そのエネルギーが他のことの面倒を見てくれるのです。

そうしたことを体験した人は多いのではないでしょうか。