行為者ではない

ここ数年、真実とは何かということばかりにずっと関心を向ける生活を続けてきたのですが、探求すればするほど、それは自分が今まで正しいと思っていたこととはまるで正反対でした。

しかも、一般常識的見地からすると、なんたる奇想天外なことか。それはもう、本当にびっくりすることばかりでした。

例えば、自分が宇宙の中にいるのではなくて、宇宙が自分の中にあるということ。あるいは、時空こそが幻想であるといったことです。

それは、真実とは決して変化することがないということに行き着きます。そして、起きることは起きる、つまりすべては大いなるシナリオ通りに現象化するということ。

そこには、私たちが普通に考える自由意志というものが入り込む余地などないということです。自分の人生は自分の決意によって決められると思っているのは、間違いだったと知ることになりました。

確かに自分が何らかの行為をしているようにも見えるのですが、それは物理的にそう見えるだけだということです。

つまり、この世界には真の行為者というものは一人もいないということ。これを受け入れるのは、至難の業かもしれませんね。

ですが、もしもそれを腹の底から認めることができたとしたら、どんな人生が待っていると思いますか?それにはメリットどデメリットを考えて見ればいいのです。

まず、デメリットからですが、手柄というものが一切なくなってしまうということ。自分の能力と頑張り、そして努力によって何を成し遂げたとしても、その成果を自分のものとすることができないということ。

なぜなら、そのことに対する行為者ではないからです。いかなる結果を出すことができたとしても、それを自分の功績とすることができないのです。

その代わりにメリットもあります。それは、帳消しにしてしまいたいような失敗や罪深い行為などもすべて、行為者の立場から開放されるということです。

罪悪感や自己嫌悪、自己否定感などから開放されます。このメリットは計り知れないくらいに、人生を軽やかで平安なものにしてくれるでしょう。

そして、更なるメリットは、責任や義務、あるいは重荷などからも解放されるはずです。今日から、あなたは真の行為者ではないということをいつも意識してみて下さい。

勿論このことは、自分だけではなくて周りのすべての人にも当てはまることですので、誰かのことを責める必要もなくなるという特典つきです。

新規講座開始

昨日の日曜日からまた新しく講座が始まりました。ヒーラー養成講座とカウンセラー養成講座の二つの講座が午前、午後とあったのですが、どちらもルシッドの講座は初めてという方ばかりでした。

それもあってか、私自身がとても新鮮な気持ちで初回に臨むことになりました。そして、フタを開けて見ると、以前よりも遠慮なくドンドン言いたいことを言っている自分に気づきました。

今まで講座を受講された方々がどう感じられてたかは分かりませんが、私なりにあまりに常識から外れたようなお話しは慎むようにしていたつもりでした。

それが、これまで以上に初めてお会いした方々に対して、自分が信じるままにお伝えしている自分に気が付きました。

例えば、ヒーラー養成講座において、常々お伝えしていることは、自分がヒーリングしているという自覚を捨ててくださいということ。

ヒーラーが自分自身の能力や努力、そういった独自のものを使ってヒーリングしているという思いは、それだけヒーリングの効果を阻害してしまうからです。

しかし、気が付いたらもっとダイレクトな表現を使っていました。それは、自分はヒーリングの時だけではなく、いついかなるときもその行為者ではないということ。

ここまでの表現は確か今まではしていなかったはずなのです。そういった制限が、自分の中で崩れてきているんだなと思わざるを得ません。

そんな私の話しにも、みなさんよくぞ付いてきて下さってるなと、時々感心しながらも、先へ先へと遠慮なく手綱を緩めることも忘れて、講座は進んでいきます。

この先、受講生のみなさんの癒しがどれだけ進んでいくのか、それを脇から見させていただけることがとてもありがたいと思います。

講座の終わる来年の3月初めの頃には、みなさんきっと大きな気づきをいくつも通り越して、本当の自己との距離が近づくことと信じています。それを思うと、今後がとても楽しみでワクワクしてきます。

超能力への憧れ

子供の頃からあらゆる超能力に対して、憧れを持っていました。一世を風靡したユリゲラーという人が来日して、スプーン曲げなどを披露するのを見たら、自分でも試して見たり…。

勿論そうしたことにのめり込むまでには至らなかったのですが、そうした不思議な能力に対する興味や憧れがなくなったことはありませんでした。

会社員を辞めて、ヒプノセラピーやヒーリングのクラスに行くようになって、それまでの自分にとっては不思議な能力だと思っていたようなことを、実際持ち合わせている人が周りに増えてきました。

それで自分もオーラが見えるようになりたいとか、幽体離脱ができるようになりたい、リーディングや予知などができたらいいのにと思うようにもなったのです。

ところが、神はどうしたわけか、友人たちにばかりそうした能力を授けておいて、私には一つたりともそういう能力を授けてはくれなかったのです。

不思議なもので、もしかすると自分にも超能力が開花するときがくるかもしれないという、はかない期待がなくなった途端に、そうしたものへの憧れもきれいに消えていきました。

そして今となっては、そうした超能力が自分にはなくて本当によかったとさえ思えるようになったのです。それは、その能力を欲する自分とは誰かということを考えるようになったからです。

もしも、私にそうした能力があったら、きっと真の自己を探求するうえでの大いなる邪魔者になったであろうことは想像に難くありません。

なぜなら、元々あった超能力への憧れというのは、自分を守ろうとするエゴの欲望に他ならないからです。そこから脱することを難しくしたはずです。

こうしたことは頂上体験などと言われるようなものにも当てはまるのです。誰がそれを体験したいと願っているのかが重要なところです。

一過性のものには、本質的には何一つ価値のあるものはありません。永遠である本当の自分を発見することにこそ、本当の真実があるのです。

部分を見れば苦悩する その2

昨日のブログでは、私たちは全体の中の部分だけを見ることによって、苦悩することになるというお話しをしました。

そのことについて、もう少し補足したいと思います。私たちの傾向は、全体よりもその一部分である個人としての自分の幸せを目指しています。

したがって、私という個人が苦悩することを目標にすることはありませんので、苦悩を拒絶するようになるのは当然のことです。

ところがこの拒絶こそが自分を不幸にする根源なのです。拒絶というのは、言い換えれば恐れであるとも言えるのです。

恐れとは愛の欠如であり、そのときには苦悩は耐え難いものと感じるようになってしまいます。それこそが不幸なのです。

逆に、部分である個人の代わりに、全体性を見るようにすることで、現実は一変します。勿論苦悩がなくなるわけではないのですが、それにOKを出すことになるからです。

拒絶する苦悩と、受容される苦悩には大きな違いがあります。全体性の中で生きることができれば、あらゆる苦悩を抱きしめることができるのです。

私たちは非常に小さな個人という部分に、自分の視野を限定してしまったのです。それこそが、「私」という想念に違いありません。

「私」とは誰かをよ~く見てあげると、それがでっち上げられたものであることが良く分かってきます。それは、私は人間である、私は日本人である、私は男性である、私は○○歳である等々。

このように、「私」を説明するためには、○○である、といった属性を羅列させるしか方法がありません。

これは、英語で表現すれば、I am Japanese. などのようなものであり、もしも実在の私を表現するなら、I am. で止めることになり、それは、日本語では「私は在る」ということになるのです。

私とはあれやこれやというものではなく、何の属性もない、ただそれとして在るのです。それこそが、全体である真の自己なのです。そこには、拒絶がないので至福だけがあるのですね。

部分を見れば苦悩する

野生動物というのは、弱肉強食の世界で成り立っているのは、誰もがよく知っていることですね。ライオンが弱いシマウマの子供などを襲っているシーンは、テレビなどでよく見かけることができます。

その場面だけを見れば、あるいは襲われたシマウマの親の気持ちになってみれば、これ以上悲惨な出来事はありません。

ですが、シマウマがいなければライオンは飢え死にしてしまうかもしれないし、ライオンがいなくなってしまったら、シマウマの生態に変化が起きる可能性だってあります。

つまり野生動物の生態系全体を維持していくためには、そうした弱肉強食のメカニズムはなくてはならないものだということです。

全体のためにこの構成要素としての部分があると分かれば、個別に起きている一つひとつのシーンにいい悪いということはないと分かります。

同じようにして、全体としての宇宙の一部に銀河系があり、その一部に太陽系があって、我々の地球とはその部分であるわけです。

その地球の一部として人類がいて、その中の一人に「私」としての存在があります。もしも、私たちが全体を見ることを忘れなければ、苦悩はありません。

ところが、残念なことに「私」は、自分の人生のことにばかりいつも意識を集中させているために、苦悩が付きまとうことになってしまうのです。

それは、全体からすればほんの一部分だけをずっと見ていることになるからです。この間違いとは、実は全体を部分に分けることができるという妄想が基になっています。

真実は、全体を分割することはできないと分かれば、「私」とは全体の一部ではなくて全体そのものと融合していると知ることになります。

もっと言えば、全体の中に「私」がいるのではなくて、私が全体であることこそが真実だと気づくことです。覚醒した賢者は、共通してそのようなことを言っています。

本当の自己を感じるようにしていると、そのことが心の底から腑に落ちるようになります。騙されないことです。この世界は、私の内側に内包されていると気が付くことです。

目をつぶれば世界が消える その2

先日のブログで、目をつぶって生活することが多くなってきたお話しをしました。そして、目をつぶると、この世界は消滅して、代わりに音だけの世界がやってくるとも言いました。

量子力学では、物質とは単独に存在するのではなくて、観察するものに依存しているのだということが分かっています。

つまり、自分にとって目を閉じてこの世界を見ることをやめた瞬間に、この世界を形作っているすべての物質が存在しなくなると言うことを科学が説明しているのです。

自分にとってというところがミソです。そして、それは物質が存在する空間についても同じように、その存在が消滅すると言ってもいいと思います。

そうすると、自分にとってどういうことが同時に起きていることになるかというと、その空間の中にあった自分の身体も消滅したということです。

簡単に言ってしまえば見てないもの、見えないものはないのです。そして驚くべきことに、自分とは身体が消滅しても何ら変わらないままに自分は存在し続けるという感覚です。

このときにはっきりと、自分は身体ではないということに気づくのです。そしてついでにもう少し実験をして見ます。

安全な場所で、目をつぶったまま、つまり自分の身体もこの世界も消滅させたままで、少し歩いたりして身体だと感じているものを動かしてみるのです。

そのとき、自分ではどんな行動をとったつもりになったとしても、自分はまったく動くことができないのだと分かります。

身体もその周りにあったと思い込んでいた空間すらないのですから、自分が移動することができなくても当然なのです。

こうしたことは、自分の気持ちをなるべく素直な状態にしてから行って下さい。今まで培ってきた常識や思い込みを使うとそれが邪魔になるからです。

目を閉じたら、あなたは身体ではなくなり、そして移動することさえできなくなるということを体感していただきたいと思います。

助けてもらってはいけないという思い込み

この世界では、通常、幼い心である依存状態から、成熟した心である自立の状態へと進化していくことが良いことだとされています。

何もかも未発達な子供は自分ではできないことが多くて、それを両親や周りの大人たちからの支援を受けながら成長していくわけです。

その過程において、少しずつ自らの能力を向上させていき、大人になる頃には精神的にも経済的にも自立することを期待されます。

その期待値は、女性よりも男性に対しての方がより強い傾向があるように感じます。一般的に言われるのは、女性には優しさが求められる一方で男性には逞しさが求められるという点とも符合しますね。

したがって、特に男性により多く見られる傾向なのですが、立派な大人、社会人にならなければならないというプレッシャーを持っていることが多いのです。

そして、そのプレッシャーの中には、誰にも助けを求めずに、自力で難関を突破していくべきであるといった考え方があるのです。

そうすると、苦難がやってきても、おいそれと他人に助けを求めることができなくなってしまうのです。それは、「助けてはもらえない」あるいは、「助けてもらってはいけない」という思いに成長します。

勿論それは当人だけの思い込みであって、周りの人たちはそれほど冷たいわけではないのですが、本人が助けを求めてこないだけでなく、苦しみを隠そうとするので、結果として誰も手を差し伸べないという状態となるのです。

このような人生がとても孤独であるということを想像するのは、それほど難しいことではないですね。困っても、素直に助けを求めることができないのですから。

しかし、こうしたことは社会的なプレッシャーからきた単なる間違いであるということを認めることができれば、生き方を変えていくことも可能なのです。

もしも、素直に「苦しいので助けて欲しい!」と表現することができたら、本人はどれほど安堵することができるでしょうか。

自分は該当するかもしれないと感じるなら、勇気を持ってその言葉を言ってみることです。「私を助けて下さい」と。これは聖なる言葉です。

すると、あれほど苦しかった毎日が、びっくりするほど楽で平安なものに変わっていくはずです。仮に騙されたとしても失うものは何もありません。実践あるのみです。

目をつぶれば世界が消える

普段独りで部屋で過ごしている時には、目をつぶっていることがとても多くなってきています。これは、もう一年くらいまえから自覚がありました。

それが、ここへ来て益々目を閉じている時間が長くなっていることを感じます。明確に目を開けているときというのは、パソコンに向かって何かを書いているときか、本を読んでいるときです。

それ以外の時には、かなりの割合で目を閉じて生活をしているようです。それはつまり、何もしないでいる時間が多いということにもなりますね。

だからといって、瞑想のような状態になっているというわけでもないのですが、ただ自分へ意識を向け続けているということです。

子供の頃には、どういうわけか怖いことのベスト3に目が見えなくなるということが入っていたと記憶しています。

確か、夜寝るときに部屋を真っ暗にするのが若干怖かったために、そんなことを考えるようになったのかもしれません。

このまま、明日朝が来て目を開けても真っ暗なままだったらどうしよう、というような幼い恐怖感を独りで感じていたのだと思います。

勿論今でも、目が見えなくなったとしたらと考えると、それはとても恐ろしいことであることには違いないはずなのです。

それにもかかわらず、目を閉じていることが多いというのは、「目をつぶれば世界が消える」ということを体験しているのだろうと思うのです。

通常、目を閉じたってこの世界が消えるなどということはなく、目を開ければまたいつもの世界が自分の周りに広がっているはずと信じています。

でも真実は、「目をつぶれば世界は消滅する」のです。ただ音だけの世界に変化するということに気が付いたのです。

そして、目をつぶっていると、何か目に入るものに心を奪われずに済むということが自分にとってとても大きなメリットとなっているのです。

瞑想するとかしないとかではなくて、目をつぶる時間を増やしてみませんか?きっと、今まで以上に心を静かにすることができるはずです。

楽しみが消えていく

昨日の日曜日は待ちに待ったF1第15戦目、日本グランプリの決勝の日でした。昨年の鈴鹿サーキットでの我が小林可夢偉選手の走りには、本当に感動をしたのでした。

今年も同じように期待してしまうのが人間の常なのでしょうね。心の中では、こうしたことに巻き込まれていくのは御免だという思いもあるものの、その魅力には勝てずに、はやる気持ちを抑えつつのテレビ観戦となったのです。

テレビでのレースに意識が向かいそうになるのを、その都度自分の意識へと戻しつつ見ていると、何だか心がしっくりこないというか、興奮しないのです。

おまけに、期待していたような結果にはならずに、残念な気持ちでテレビ観戦を終えたのでした。その残念な気持ちさえ、あまり大きなものにはならずじまいでした。

なんだか、もうF1を見ながら興奮するといったことも、自分にはなくなってしまうのかもしれないと思うと、やや寂しさを感じてしまいます。

そういえば、あれほど熱狂していたレースゲームもここのところ全くやらなくなってしまっています。老後の楽しみだとさえ思っていたはずなのに…。

そして、F1が終わったあと、食事をはさんで久しぶりに別のテレビ番組を見ていたのですが、どうも見終わったときに疲れているような気がしたのです。

テレビを見ることも、自分にはそぐわないようになってきたのかなと。自分へ意識を向け続けることをやりだしてから、どうやら今まで楽しみだったことが軒並みそれほど楽しくなくなってきたようなのです。

体調が回復したので、少しずつワインも飲んでいるのですが、以前のような感覚で飲むことができてないように思うのです。量も格段に減ってしまいました。

今までの自分にとっての数少ない楽しみが、自分から奪われていってるような、そんなちょっと悲しい気分になっています。

それでも、自分に意識を向ける練習を続けるつもりなのかと、どうやらテストされているような感じがしています。

固く決意したのですから、たとえ楽しみが消えていこうとも、この先のことを考えることをやめて、練習を続けることしかないと今思い直しているところです。

私とは誰か?

私とは時間の中で生きている人まとまりの存在。私とは広大な宇宙空間の中に、ほんの一握りにも満たない自分だけの空間をその身体として占有しているもの。

私とは固有の外観を持っている。私とは、様々な記憶を基に形作られている心を持っている。記憶とは、過去の体験から得られた情報の束である。

その体験とは、それまでの私が行為した結果である。私の行為とは、能動的なものと受動的なものがあり、また意識的なものと無意識的なものとが混在している。

私とは、その他の人から個人だと識別される一人の存在であり、それは人物としてのカテゴリーに入る。

行為者としての私をコントロールしているのは、私の心であり、その心で固有の思考や感情、その他あらゆる想念を作り出す。

したがって、私とは身体だとも言えるし、心だとも言える。そして、それらを使って常に何らかの行為者として生きている。

私は、自分の身は自分で守らなければならない。そのために、必要なものを手にいれれば安心し、奪われれば苦悩する。言い換えれば、欲望と恐怖の中で生きている。快楽への欲望と、苦悩への恐怖である。

私は、こうしたことをすべて真実に違いないと頑なに信じているのだ。そして、手に入れたものはすべて私と同一化され、私が強化されたと錯覚する。それは財産や知識、その他あらゆるものに対して。

このような、私に対する大きな欺きに気づかなければならない。しかし、これを言っている私自身も騙された本人であり、これを解決するのは、深く洗脳された人が自分自身でその洗脳をはずしていくことと同じように難しいこと。

だからこそ、何か目には見えない大きな力が必要なのだろうと思う。