人生の計画

私たちは、どのくらい明確かどうかは別として、自分の人生の計画というものを持っているものです。人によっては、曖昧なものかもしれませんが、場合によってはとても詳細なものまで様々です。

そうした人生の計画というのは、子供の頃に親や周りの大人たちから教育されたことがベースとなっていて、望むような自分になろうとするためのものなわけです。

その独自の計画に沿って、一歩一歩確実に進んでいく人もいるかもしれませんし、あるいはすぐに挫折して計画を断念せざるを得なくなってしまう人もいるはずです。

しかし、一つはっきりいえることは、そうした自分独自の計画に従って生きれば生きるほど、その人の人生は実りのないものとなる可能性が高いのです。

というのは、向上心というと聞こえはいいのですが、そうした計画の前提となっているのは、今の自分のままでは駄目だというのがあるからなのです。

元が駄目出しから出発している計画であるからこそ、その計画を達成する旅は楽しくもないし、希望に満ちているわけでもないということになるのです。

努力しても頑張っても、どうしても計画通りにことは進まない、あるいは計画通りなはずなのにどうしたわけか、いつになっても心が満ち足りることがない。

そうしたことがいつまで続くのか、死ぬまで続いて結局思ったような人生にはすることができなかったという場合も多々あるかもしれません。

幸運な人は、その計画をどこかで断念するかもしれません。なぜそれが幸運なのかというと、実は自分の人生の計画は、その人生そのものに任せるのが最も効率だと気づくことになるからです。

私たちは、自分こそがその人生の主人であって、自分の力や努力によって人生を切り開いていくものだと固く信じているふしがあります。

ところが本当は、人生そのものが自分にどういう人生を歩ませたいかという計画を持っていると分かることがとても大切なことなのです。

もしも、そのことに気づけたら、きっとあなたの人生はあっという間に広々とした場所に出て、とても情熱をもって過ごせるようになっていくはずです。

真の自己についてシェアする喜び

ちょうど3年前の9月1日から奇跡のコースを読み出したのですが、その辺りから自分のことをセラピストだとは単純に言い難いと思うようになりました。

というのも、それまでやっていた心理療法の域を脱していくことをはっきり自覚することができたからです。ただ、他人がどう思うかということは気になりませんでした。

きっと、来るべきものがただ自分の人生にやって来てくれたのだろうなと思えたからだと感じています。そのことに逆らう気持ちは最初からありませんでした。

そして、今年に入ってダグラス・ハーディングさんの本との出会いによって、それは決定的になりました。自分のことを心理療法をするセラピストとしては、見なくなったのです。

巷で言われているスピリチャルというものをあまり真剣には受け止めていなかったものの、自分のなかでそれが確定的になったのです。

しかし、ずっと今まで自分がやってきたいわゆる心理療法が無駄だったということではなくて、とてもスムーズな連携ができるものだということも分かりました。

今では、勿論ごく一般的な心理療法もやりつつも、心の中ではいつも自分もクライアントさんも本質的には純粋な意識として、一なるものだということを忘れなくなりました。

自分たちの本当の本当の姿について、語り合うことは自分にとって無上の喜びとなりつつあるのかもしれません。

いまいちまだそうと言い切れないのは、自分が真の自己を見ることに対する心からの信頼がそれほど明確になっていないからなのだと思います。

何よりも、本当は自分とは何者なのかということについて、残された自分の人生をそのことに費やすことになるだろうと確信できるようにはなったかもしれません。

意識の深み

この自分という意識が、それ自身に対して意識を向けることを続けていると、何ともいえない奥の深みにまで入っていくような感じがしてきます。

その時には、普段これが自分だと思っている自分の意識とは程遠い、無限の広がりを持った意識であるということに気づくことができます。

これはできれば、目をつぶってやってみるとよりうまく行くかもしれません。そして、その深みまで降りていくと、そこではこれが自分だと日頃思っているような過去からの連続体である自己が消えてしまいます。

それは単に自己イメージがなくなってしまうだけではなくて、過去そのものからも切り離されてしまうということかもしれません。

その感覚が明確になればなるほど、自分は何者でもない無限の純粋な意識だと気づくことができます。でもそれが、深い瞑想状態と言えるかどうかは分かりません。

それほどのものではないような気もします。なぜなら、すぐにいつもの自分に戻ることができるとわかっているからです。

だから、どこか変なところに自分の意識が行ってしまって、少々怖いといったようなことにはならないのです。逆に、静寂に包まれたとても穏やかな意識の状態になります。

どこかで自分はそのことを知っていたというような懐かしさも感じているかもしれません。その深みの状態のまま、目を開けて自己イメージの自分を見てあげることさえできます。

そうすると、そこではいつもの自分が何かを思考したり、感じたり、せわしなく活動しているのが手に取るように分かります。

でもそれを殊更何とかしようという気持ちになるわけでもなく、ただそのままを受け止めているのです。この状態は、自分に対してだけでなく、他人に対してもとても優しい眼差しを向けられるようです。
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「今」は一つ

ずっとずっと気づかずに来てしまったことがあったのですが、最近気づいてみてびっくりしていることがあります。

生まれてから今日に至るまで片時もそばを離れずにずっと自分と一緒にいてくれたものがあったのです。それが、「今」というものです。

家族であろうと、仲のいい友人であろうとも、その他どんな人や動物であってもずっと一緒ということはありえないのに、「今」だけはほんの一瞬でも別れずにいてくれました。

そんなことは当たり前だろうと思うかもしれませんが、そうでもないのです。私たちが、様々な体験をしたり、この世界に起こることを見聞きしたりするのは、「今」があるからです。

そういう意味からすると、「今」とはあらゆる現象が起こる舞台であるとも言えます。通常、私たちは常識的に昨日過ごしたときの「今」と、今日の「今」は違うと思っています。

なぜなら、昨日の「今」には、西暦2011年8月25日○○時、という識別子がついていて、今日の「今」には、2011年8月26日○○時というように違ったものがついているからです。

だから、それらは互いに違うものだとの認識をしているのです。しかし、よく感じてみると、いついかなる「今」もそれ自体には何の違いもないと分かります。

つまり、あれやこれやの「今」が沢山あるわけではないということ。「今」は唯一なのです。これが自分にとってとても新鮮な気づきだと感じているのです。

なぜ、「今」が沢山あると思ってしまうかと言うと、「今」という場で起こることが沢山あって、そのバラエティに富んだ現象と、それを支える「今」とを混同しているからなのです。

もう一度言いますが、「今」は一つあるだけです。そして、それは過去と未来の架け橋などでは決してありません。なぜなら、「今」は時間を越えているからです。

私たちは、「今」を過去と未来の中間にあると思うことで、時間というものをイメージしてしまうのですが、それは本当ではないということです。

「今」は自分にとってかけがえのないものだということが分かってきました。それなしでは、一瞬たりとも生きることができないからです。

「今」に包まれている感覚をつかめると、とても穏やかなそして清々しい気持ちになることができます。「今」はこれからもずっと自分を受け止め続けてくれるのですから。

ポジティブな記憶

私たちは、人生の多くの時間を知らずに過去と未来に向けることに費やしています。特に、過去は非常に大きなウエイトを占めていると言っていいと思います。

生まれてから今までに蓄積してきた経験や自分の反応の集大成が自分であり、それが自分のアイデンティティとなっているからです。

その過去からの蓄積が自分の人生にとってプラスに作用するものであればいいのですが、マイナスに作用するものも沢山残っているのです。

そればかりか、そのマイナスな過去の蓄えをいつまでも引きずって、今の人生を棒に振ってしまうことが多いのです。

クライアントさんとのセッションでは、ご本人が隠し持っている過去に体験した苦悩を暴露して、それを真正面から受け止めることを進めていきます。

そうやって、過去のわだかまりやネガティブな感情などを開放していくのですが、ある程度そうしたことを真面目にやっていくと、突然びっくりすることが起きます。

それは、ご本人が何気なく忘れるようにしていたであろうプラスの体験を思い出し始めるのです。その結果、自分の人生が不自由だという理由ばかりを見ようとしていたことに気づいてしまいます。

本当は、ご両親から愛を与えてもらっていた体験や、周りの大人たちから守ってもらえていた経験などが、都合の悪いことだとしてなかったことにしていたと気づいてしまうのです。

なぜそうしたプラスの経験を都合が悪いことだと思うかと言えば、自分の不自由さを誰かのせいにしたいというエゴの思惑があるからです。

でも、苦しみや辛さをしっかり正面から受け止めてあげることによって、そうしたプラスの体験のことも思い出すようになるのです。

そうやって、いいことも悪いことも含めて、過去のことを公正に見直すことができるようになって、初めて過去から開放されていくことになるのです。

自分の名前とは?

私たちは、誰もが自分に固有の名前が付けられていることを知っていますね。私の場合には、気づいたら、「おおさわふじお」がそれでした。

そのことに殊更疑問を持つでもなく、何となく自分の名前ということでそのまま大人になってしまったわけですが、この自分の名前とは、一体自分の何に対して付けられているのでしょうか。

私は自分の肉体に名前が付いていないことを知っています。私の頭や目、首や手足などには名前など付いていません。

加えて、私の思考や感情に対しても、そして私が最も私自身ではないかと感じているこの私の意識に対しても、名前などないことを知っています。

では本当に自分の名前とは、自分の何に対する名前なのでしょうか。それは、自分が何となくこれが自分だと思っている自己イメージ、あるいは自己の全体像、人物像に対するものなのです。

それは、自分が作り上げたイメージでもあり、またそれは他人が作った人物像をベースとして作ったものだとも言えます。もしも、それに名前が付いてなければ、面倒な説明を延々としなければならなくなります。

例えば、日本のこの地域で男性として生まれて、こうした両親にこのようにして育てられて、こういった教育を受け、このような信条を持って人生を生きてきた、この人物というように。

その総称として、名前が付いているということです。しかし、私は自分がその自己イメージそのものではないと分かっています。

私というものに一番近いのは、私という意識だと知っています。その私の意識には勿論名前など決してつけられてはいません。

それならば、本当の私は決して名前などついてはいないと分かります。結局「私」と表現したときに、名前のついている人物としての私と、名前などない意識としての私の二つがあるということに気づきます。

あなたは、「私」と表現するときに、どちらの私のことを想定して、私という言葉を使うでしょうか。もしも、私には名前などないと分かるなら、あなたは本当の自己に気づいていることになります。

自分が基準

自分が子供の頃には、今のようなゴミの分別というものはなかったように記憶しています。ほとんど何も考えずにどんなゴミもゴミ箱へまとめて捨てていたと思います。

ところが、いつの頃からかゴミを捨てるのが厳密になってきて、気が付いたら相当に気を配らねばならないような世の中になってしまいました。

それでも、地域によっては燃えるゴミもプラスティックも全部一緒くたに捨てられる場所もあるようですね。たまたまですが、私が暮らしている地域ではかなり厳格な分別を要求されています。

たまに、友人たちと飲み会をすると、友人の中にはゴミの分別がいい加減だなと感じる人もいます。自分は何でも口に出してしまうほうなので、そうしたことも相手に伝えます。

そのゴミの捨て方、だらしないんじゃないの?くらいは平気で言えます。酔っているからというのもあるでしょうけれど、もっとしっかり分別してよと思うのです。

ところが、そうした友人は本人の住んでいるエリアでは、それほど厳密な分別をしなくてもいい所で暮らしているようなのです。その人はその人の毎日のやり方でゴミを捨てるだけなのです。

それを聞いた後は、さすがにそれじゃあ仕方ないねと頭では理解するのですが、どうも心では納得できないでいる意識があるようなのです。

自分がいつも気をつけて、余分なエネルギーを使って、やりたくもないことをやらねばと頑張っていることは、誰にでも同じようにやって欲しいと思っている意識があるようです。

それができないなら、その人はだらしのない人、しょうもない人だなあというとても理不尽な感覚が自分の中にあるようです。

それは笑ってしまうようなものですが、人はいつも自分が基準となって、人を判断したり裁いたりするものなのですね。

逆に、分別をそれほど厳密にしないでいい地域で長いこと暮らしていたとしたら、今の自分のように細かく分別する友人がいたら、うっとうしいなあと感じてしまうかもしれません。

人には、自分の正しさや基準をとても大切にする傾向があるということですね。そのことを知っているだけでも、ある程度人の言動をやさしい目で見てあげることができるようになるかもしれません。

それは、人との関係をより円滑にする助けとなるでしょうし、自分自身も否定的な目というものを減らすことができて、人生が楽になるはずですね。

愛を横取りするエゴ

私たちは、日頃愛とそうでないものとをごっちゃにして認識してしまっている傾向にあります。そのことについて、少し詳しくお話ししたいと思います。

例えば、困っている人に手を差し伸べたいと思うこと、これは間違いなく愛と言えます。もっと正確に言えば、愛からスタートするということです。

ところが、愛を発動しようとしたその直後に、必ずと言っていいほど心の中のエゴがそれを横取りして、その愛を恐れによって包んでしまうのです。

その傾向は、愛が何らかの行動を起こすまでに時間的隔たりが多ければ多いほど、エゴに乗っ取られる可能性が高くなると言えます。

本人はそんなことになっているとは自覚のないまま、自分は愛の行動を起こすことになるのですが、それはもうすでに愛が使えなくなってしまった状態ですので、目的が違ってきてしまうのです。

エゴが愛を横取りしてそれを覆ってしまう目的とは、その愛による元々のパワーを利用して、自分を防衛するために使おうとすることなのです。

したがって、困っている人を助けるつもりで行動したことが、知らず知らずに自分のことを何らかの形で守る結果となったりするということです。

それは例えば、自分はいい行いをしたので自分の価値が上がるとか、人からの評価が高くなるはずといったことかもしれません。

ところがこうしたことが続くと、そこには必ず自己犠牲が起きてくるので次第に辛くなってきてしまいます。そこで初めて、自分の言動は愛ではなかったと気づくことになるのです。

でもそこで自分を悔やむ必要はまったくありません。なぜなら、最初は間違いなく愛から出た行動だったわけですから、この次からはエゴにその機会を与えないように気をつければいいのですから。

こうしたことは、本当に沢山あります。好きな人に会いたい、一緒に過ごしたいという思いを愛だと思っている人が沢山います。

これも、元々は確かにそこに愛があったはずなのですが、それをエゴに利用されて自分を守ることに使われてしまったとてもいい事例です。

なぜ好きな人に会いたい、一緒にいたいという思いが愛ではないと言えるのか、それはとても簡単に説明することができます。

極端に言えば、その人に会いたいという気持ちも、その人に会いたくないという気持ちも、愛かエゴかという範疇で言えば、どちらも同じようにエゴのものなのです。

なぜなら、どちらも自分の思いを実現しようとすることだからです。その思いの中心には自分がいるのです。すべて自分のためだということに気づけばいいのです。

愛以外からの行動は、いずれ自己犠牲が増えて苦しくなるので、愛ではなかったとわかるはずですが、そうならないうちに愛をエゴに隠されていないか、自分をよく監視してあげることです。

愛を求めるとは?

大抵の人が、幼い頃から「愛が足りない!」という思いを強く抱きしめて生きてきたのではないでしょうか。それは、具体的には親への不満や恐れなどです。

そうした満たされない思いが、大人になって様々な形となって現れてきます。例えば、被害者的な意識が強いままになったり、依存状態から抜け出られなくなったり。

一言で言えば、常に愛を求めて、愛を探して、誰かにたっぷりと愛を与えてもらいたいと願っているということです。

ところで、愛を求める気持ちについて、もう少し厳密に見つめてみるとそれが本当はどういうことなのかが分かってきます。

それは、愛を求めて、愛を手に入れてどうしようと思っているのか、そのことを考えてみれば一目瞭然であると言えます。

「愛を求める」とは、実のところ誰かに自分を守って欲しいという気持ちに他ならないのです。愛を求めて、それを手に入れて、何をしたいということではなくて、安心させてもらいたいのです。

人は自分のことを自分で守ろうとするのですが、それを司っているのがエゴであるわけですが、そのエゴが自分だけでは足りなくて、誰かに自分を安全な状態に守って欲しいと訴えているだけなのです。

したがって、愛を求めているというのは本当は全くの出鱈目だったのです。愛など求めてはいません、そうではなくて安心を手に入れようと躍起になっていただけなのです。

愛のことが分からないのに、愛を求めるはずがありません。本来、愛とは求めることなどできないものです。愛は与えるためにのみ使うことの出来るものだからです。

自分を愛してくれる人を求めているという場合もありますが、これも本当は見当違いの表現です。実際には、自分の願いを叶えてくれる人を求めているに過ぎないからです。

愛を求めていると信じている人は、愛についてほとんど理解できていない可能性がありますね。勿論、真の愛は神の領域なので、誰にも本当には理解などできないものです。

しかし、その真実の愛を妨げているものを取り去る方法を学ぶことだけはできます。奇跡のコースで教えてくれているのは、まさにそのことなのです。

二重構造で生きる

クライアントさんとのセッションにおいて、幼い子供の頃のどうしようもない惨めな出来事や、いつ終わるとも分からない望みのないような毎日の生活などをご一緒に再体験させていただくことが多いのです。

そんなときに、ご本人の当時のことを想像すると、場合によってはクライアントさんご本人よりも客観視しているセラピストの私の方が辛くなったりすることさえあります。

つまりそこでは、基本的に思い切り子供の頃のクライアントさんの気持ちに寄り添って、共感することが自然とできるのです。

ところが、もう一方の心では、そうした苦悩や辛い毎日のことにOKを出している自分がいるのです。これはとても不思議なことですし、なかなか理解していただけるようなものでもないので、決して言葉に出すことはありません。

しかし、心の中ではとにかくこの部分では悪とか間違いとかが全くなくなってしまうのです。すべてのクライアントさんの経験にOKを感じてしまうのです。

こうした心の二重構造については、この仕事を始めた当初から分かっていました。ただ、自分としてはこれが一体どういう意味なのか、どうしてそうした二つの捉え方が同時にあるのかが不可解でした。

今ではその理由がよく分かるようになってきました。クライアントさんに深く共感する方の意識というのは、通常の人間としての当たり前の心の機能だと思っています。

しかし、何にでもOKを出す方というのは、きっと起きていることを裁く気持ちがとても少ないか、あるいは全くない心の部分を使っていると思うのです。

そしてその部分は、人生というものをとても肯定的に捉えていて、何があったとしてもそれは必ずご本人にとって必要なことだし、それを経験しようと思ってこの人生を開始されたのだということが分かっているのかもしれません。

だからこそ、計画通りにことを進められているんだなということを感じてしまうのです。だからこその、OKなのですね。この感覚は、自分自身の人生に対しても使うことができるので、とても便利です。

きっと誰の心の中にも同じような部分があるはずなので、みなさんもご興味があったら探してみてください。必ず、どこかに潜んでいるはずです。